創業と守成いずれが難きや

 あるサービスでバージョンアップした直後に問題が発生したり、長期にわたってずっと安定して運営されていたものが巨大になってしまい大きな変更や改善が難しくなったりという制度疲労関連の話題を見聞きしたときに、個人的に「創業と守成いずれが難きや」という言葉を思い出すことが増えました。

 以前はもっと頻繁に見られた言葉だったと思いますが、最近はこうした批評にあたっては中国の故事来歴などより、欧米の学識研究結果を示す方が好まれるようになっていて、あまり使われなくなったのかもしれません。

 

 ときには「守成は創業より難し」と言い切った表現も見かけますが、出典である貞観政要(じょうがんせいよう)の巻第一の第三章では「草創と守文と孰れか難きや」という字句になっていて、これが現代の日本語表記で分かり易いように、「創業と守成いずれが難きや」という表記で広まっているようです。

 遣唐使でお馴染みの唐の2代目皇帝である太宗が西暦636年(貞観10年)のあるときに臣下に対して投げかけたこの問いに対して、房玄齢という重臣は、命を懸けて群雄割拠の乱世を勝ち残り天下統一の世を築くのだから創業の方が困難と答え、別の重臣である魏徴は、天下統一して独裁者となった後には巨大事業や戦争で人民を苦しめて結局は国を衰退させてしまう(前王朝の隋を含め)政権が多いので守成の方が困難と答えたといいます。

 現代の日本人一般にとっては挑戦や新発見、創造することの方が困難という受け止め方も大いにあるかもしれません。「コロンブスの卵」のように、後になってみると簡単に思えることも最初に実現するのには相当の困難を経ていることが多いのも事実ですから。

 さて二人の重臣の答えに対して太宗は、両者とも正しいとしながらも、もう創業はできているので一緒に守成のために慎もうと言っています。この返答自体は優等生的な感じですが、この質問を設定できるところに凡人では無い素養をもった大人物という印象を抱かせます。

 

 誰が定めたものかはわかりませんが、貞観政要は宋名臣言行録と並んで中国古典における帝王学の書と目されている古典となっています。全280編の問答集となっていて比較的分量が多いせいか、全訳よりも選り抜き版の解説本が何冊か流布しているので、興味のある方は手に取られても良いと思います。個人的には、とにもかくにも臣下の意見を重視すること、自身も意見を吟味できる知見を磨くことを説いていることが全編を通し貫かれていると思いました。

 

 それにしても現在の日本においては、改善しながらの維持・運営といった「守成」よりも、革新的な仕組みへの置き換えにあたる「創業」くらいでないと問題解消が実現しないような気にもなってしまうのが困るところです。

工具箱の中身

 これから一人暮らしや新婚生活といった新生活をはじめるにあたって、新たに揃えるべき日用品のひとつとして家庭用の『工具箱』を考えておられる方も多いことでしょう。

 ここではひとつの参考としてわたくしのまとめを紹介させていただきたいと思いますので、よろしければお付き合いください。

 

 ただ、あらためて前置きしておきますが、あくまでも家庭用として新たに揃える方を想定した話となっています。「工具」には非常に種類が多く、その用途・場面別に専門的なものが多種多様に(値段別にも)用意されているため、万人向けの紹介というものが難しいという現実があります。ちょっと思いつくままに挙げてみても自動車整備用、自転車用、木工家具作り用、電子工作用、プラモデル用、配線工事用、台所やトイレの水回り修理用、内装工事用などが考えられるため、一般人が最初に買い揃えたい家庭用基本セットの一例として御覧願います。

 また、工具を購入したからといって構造を十分に理解しないまま蛇口やトイレの水洗機構、ドアノブ、パソコンなどの修理を試みることは止めておくのが無難です。分解したものの修理ができず、元にも戻せなくなるくらいならば、最初から専門業者を呼ぶ方が安全かつ安心です。

 

 

ドライバー(ネジまわし)

 プラスとマイナスで大きさの違うものがそれぞれ最低3種類ほど必要でしょう。例えば大きなネジに小さなドライバーを当てて回すと、ネジ山が崩れる(ネジをなめる)ことになって緩めることも締めることもできなくなってしまいますので、使用の際に注意しなければなりません。

 また、軸の短いものは回しやすいのですが、機械の奥にあるネジには届かなくなることがあるので覚えておきましょう。

 

巻き尺

 金属製のストッパー機能付きメジャー(コンベックスケール)。家財や収納、部材などの大きさを図れるような、3メートルくらいあるものが使い易いのではないかと思います。

 

モンキーレンチ

 六角形のナットやボルトを緩めたり締めたりするレンチの中でも、大きさの調整ができるようになっているもの。これも上記のドライバーと同じく、大きさを調整する際には隙間のないようにして、ナットやボルトの角を潰さないように注意します。

 

鋸(のこぎり)

 これは木材用で折り込み式のものと、金属用のものを1本ずつ用意しておけば十分でしょう。

 

ペンチ

 部品などを掴んだり、細いハリガネや電線などを切断したりする場面で使います。

 先の細くなっているラジオペンチや掴むことに強いプライヤー、切断に特化したニッパーなどがありますが、通常のペンチだけで事足りるものと思います。

 

電池チェッカー

 乾電池の容量が残っているかを確認する道具です。テスターのような高機能なものでなくとも、残量だけを簡単に診ることのできる安価なもので十分ではないかと思います。

 例えばラジオが聞こえない、懐中電灯が点かないといった場合には、先ず電池切れなのか機械の故障なのかを疑うことになるため、持っていて損はありません。

 

ハンマー

 釘を打つ場合の他にも、曲がった金属部品を叩いて直そうという場合や不要な釘を抜きたい場合にも使用できます。

 片方で釘を打ち、もう片方で釘を抜くという形状のものが家庭用のものとしては便利ではないかと思います。他に、片方が平面、もう片方がゆるい球面になっている形状のもの(玄能、玄翁)などもあります。あまり大きく重いものは使い難いので、ちょっと小さいと感じるくらいのものでも良さそうです。

 

錐(きり)

 釘やネジを打つ前には、位置がずれるのを防ぐのと直角に入りやすくするため、先に錐で少し穴を開けておくと便利です。

 

彫刻刀セット

 大きなノミは使わなくとも、木材をほんの少しだけ切ったり原因不明の汚れを思い切って削ったりという場面では安価な彫刻刀で対応できることがあります。

 

工具箱

 箱そのものは上記のものがすべて収納できる大きさ(特に長さ)があり、間仕切りなどで小物が取り出し易くなっているものが選定条件になります。

 ただし内容物はおいおい買い足して増えることが多いため、大きさには十分な余裕があることと、重くなっても持ち手が耐えられるような材質と構造であることに注意しましょう。

 そして一年に一度は内容物の点検をして、錆びたり固まったり、不要になったものを整理すると良いでしょう。5月9日が日本記念日協会に登録された「工具の日」になっているそうですので、この日を目安にしても良いと思います。

 

 

 

 以上で10点の「工具」を紹介いたしました。一般家庭で必要となる場面を想像した限りでは、必要なものはこれでほぼ網羅できたと考えています。しかし工具そのものではないけれど付言した方が親切と思われる事項がありましたので、蛇足ながら以下に述べさせていただきます。工具とは意識しないで既に用意されていれば何ら問題ありませんが、念のため。

 

ネジと釘

 ドライバーとハンマーを初めて購入する際に、ついでにネジと釘も購入する方は多いと思われます。今後使用する場面でこれもあった方が安心です。長さや大きさの異なるものが詰め合わせて売られていますので、これが便利でしょう。

 必要に迫られた時に適切な大きさ・長さのものを必要数だけ買うという考えももちろん間違いではありません。

 

小分け箱

 特にネジについては、大きさや長さの異なるものを取り扱うことがあり、加えて転がりやすいため、その種類別に小分けに置ける箱があると便利です。

 

接着剤

 文房具として別に用意してあるかもしれませんが、瞬間接着剤と多用途接着剤は工具箱にも保管しておくと便利だと思います。

 

ヘッドランプ

 家庭内での作業場所が天井の照明が当たらない暗がりになっている、あるいは機械の奥の方でよく見えないということがあり得ます。この時にヘッドランプや小型の懐中電灯があれば手元を照らすことができます。

 

軍手かゴム手袋

 作業そのものが困難にならない限りは、怪我や汚れの軽減・防止のため軍手(作業手袋)を着けるべきです。また電気の帯電・通電している作業時には、ゴム手袋を着けることがあります。

 

マルチツール

 ドライバーやプライヤー、鋸、ナイフ、ハサミなどが一体になったマルチツール(Victorinox社のアーミーナイフやLeatherman社の折畳み工具などが有名)を予備として机の引き出しに入れておけば、重い工具箱を持ち出すまでもなく必要な作業を済ませられることもあります。

 

家庭教育についての教育

 皆様のなかでお子様をお持ちの方は家庭内での教育についてどのようなお考えをお持ちでしょうか? 何を何歳のときにどのように教えるべきかを決めておられるでしょうか?

 

 信頼できる機関による広域調査を確認したわけではないのですが、実感としては乳幼児の段階では母親による読み聞かせが中心で、あとは幼稚園や公教育の年齢になったら学習塾や習い事(これらは正確にはもう家庭内ではありませんが)に通わせたり、日常生活の中で目についたことを注意したりすること(いわゆる躾)くらいではないかと思います。他に少数派として、具体的な叱り方や褒め方について意識している方や、信教に基づいて子ども向けの道徳的な説話に触れさせる方、好ましい本を買い与える方などがいらっしゃることでしょう。いずれにせよ現代で家庭教育に強く意識をもって具体的に取り組んでおられる方は奇特だと思います。そうした知識を得る機会がそもそも多くはないと考えます。幸運にして自身が比較的に恵まれた家庭教育を受けた経験がある方に限れば、その体験に照らして同じような家庭教育を意識することなく施すことができるかもしれませんが、生活環境が世代を経て変容すると自身のお子様にはそれほど有効でなくなることも十分に考えられます。

 

 逆に家庭教育などと特に改めて構えることなく自由放任とするというお考えの方も少なからずおられるようです。しかし学級崩壊やイジメ、不登校、落ちこぼれ、非行といった現下の教育現場の問題について見聞きすれば、やはり大多数の方はご自身のお子様のための家庭教育の意義について、その重要性は理解されておられるものと想像できます。

 またそうした後ろ向きの問題ではなく、より良い将来のために英才教育や情操教育、特技の習得に取り組ませたいと期待されている方もきっとおいででしょう。見せたい場所や景色、読ませたい小説、見せたい映画、会わせたい人、食べさせたい料理、預けるべき金融商品、暗記テクニックなどなど挙げてゆけばたくさんあることでしょう。特にお子様自身が未だ選ぶことができない段階であれば、やはり家庭教育として広く検討できるはずです。

 

 価値観や生き様の多様化が進む現代そして将来において、お子様の教育について学校や学習塾で用意される内容では不十分と考えるべきです。家庭教育について教育を受けてこなかったのであれば、自主的に勉強してゆくほかありません。ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチやハーバート・スペンサーなどといった古典よりも、現代の出版物から参考になりそうなものを拾ってゆきながら考えを固めてゆくのが比較的容易ではないかと思います。

 

 それにしても、家庭教育を施した子供がそうでない家庭の子供と付き合うようになって失敗してゆく事例は決して少なくないと見ています。自身の最大の財産を他人に傷つけられるというのは、どうにも耐えられない話ではないでしょうか。

 

教科書検定で本当に見てほしい基準

 教科書検定についてニュースで採り上げられるのは歴史問題が通例だが、そもそも学習する側の児童にとってはもっと分かりやすく、独学や自習に耐えるような説明文が記載されているか否かを重要な基準にして欲しいと考えている。

 

 教科用図書検定基準の第2章「教科共通の条件」を読むと、学習指導要領で定めた内容を漏れなく教えることを主旨とした記載になっていることが分かる。また学習意欲のある児童のための施策も見られる。そしてここで教科書というものは学習現場で教師が説明をすることを想定していることも読み取れる。

 これは自明のことのようにも思えるかもしれないが、自ら復習しようという児童や病欠したので自習しようとする児童、1学年分を一時に予習しようという児童にとっては、教師の説明が必要では諦めるほかない。教科書中に出てくる練習問題や設問についても答え合わせをすることができない。つまり、いわゆる落ちこぼれ児童への対応策としても、理解が早い児童への配慮としても教師の説明が無いと分かりにくい教科書というものは不親切な存在なのだ。

 

 現行の教科書だって繰り返し読めば分かる、という言説もある程度は真実だが、それでも教科書の説明は全般的に短い上に不親切であり、教師の説明を前提としていると思わざるを得ない。そうした教科書では理解度の進んでいない児童にとって自習ははやり難しいだろう。もしももっと詳しい説明文を(ときには説明図も)徹底できれば、上記の問題点の解決にとって有効な対応策にならないだろうか。

 理解度の進まないような児童は概して教科書をあまり読まないので、説明文を詳しく長くしたところで意味が無いかもしれないという意見も出そうだが、それでも予習か復習ができる材料が手元に揃っているのは意味があると考える。また、理解の進んだ児童は余った時間で応用問題に取り組むもよし、不得意科目の勉強に取り組むもよし、次の学年の教科書を入手して更に進んでいってもよいだろう。教師は計画通りの年間日程で授業を進めつつ、個々の児童の進度に応じて教科書に残る不足を補って説明し、児童が勉強を楽しいと感じる場を実現することに注力できるようになることが目標だ。

 

 

 ここで予想される現実的な懸念事項として点として、教科書が厚く重くなってしまうことが挙げられるだろう。この点は紙媒体である以上は回避できない。

 また他の懸念事項として、説明文が長く詳しくなることで読むのにあたって抵抗感を感じる児童もある程度増えそうだということで、これについてはレイアウトや文字の大きさなどで工夫するしかない。(個人的には文章が長くとも読みやすければ問題ないと思うが、一般論としてはやはり個々人の感覚に左右されるのは間違い無いだろう。)

 

 さらに余談になるが、大学の教科書なども決して独習には向いていない説明が不親切なものが多いと思う。これも教授が授業で補足説明することを前提にしているのではないだろうか。あるいはそもそも学生向けでなく自身の所属する学会向けの実績づくりで著していたり、自分の大学内でのみでしか売れないことを前提としていたりする教科書も多いのではないかと邪推してしまう。

 仄聞する限りでは欧米の大学のテキストというのは多くが大冊になってはいるものの、文章は平易で繰り返し説明も見られるそうで、学習者にとっては明らかに日本の大学よりも予習や独習に適していると考える。

 

 さて皆さんは重いが詳細な教科書と軽いが簡便な教科書のどちらが好みでしょうか。

観光立国はあくまで補助的次善策

 観光立国推進基本法は2007年(平成19年)1月1日に施行された法律であり、これに基づき観光業を日本経済の活性を図る新たな柱のひとつとして期待する向きがある。たしかに日本の観光業については、改善次第で国内や海外からの旅行者を更に増やす潜在的需要はまだまだ眠っているに相違無いだろう。今後法整備の効果がどれだけ現れるのかは注目したいところだ。

 

 以前から思っていたが、夏の風物詩として海水浴場で見られる海の家というのは、いかにも仮設であって外見も内装も貧相なものが多く、改善すればもっと満足のゆくサービスが提供できそうだ。また地方の博物館の収蔵品には、目玉として貴重なものが数点あっても、その他は格段に見劣りするものが多く並んでいて、なにか寂しい印象を受けた経験がある。ともかく基本的に競争があまり働いてこなかったためか規模が小さいためか、見せ方や旅行客の移動案内などを含めて工夫や指摘の余地はまだまだ多くあるだろう。そして観光地を開拓・整備・改善してゆけば、旅行者は確実に増えると見込んでいる点に異論は無い。

 

 そもそも江戸時代のお伊勢参りや富士講などを通じて、物見遊山やお土産、おもてなしといった文化が根付いているので、日本社会は歴史的にも観光業発展の適性を持っているとも考えられる。

 

 しかしどうしても懸念を感じる点として、観光業というのは国家レベルの産業構造の中であまりに大きな比重を占めるのには適格ではないと見ているからだ。これは決して2021年現在の全世界的な感染症の流行によって観光業が大きな不振に陥っていることを判断材料としたものではない。

 1点目は、大規模テーマパークを別として自然の景勝地や歴史的文物は、多くの来訪者があるとどうしても劣化してしまい、その価値を減ずることにつながる点だ。踏み荒らされたり落書きされたり、その一部が持ち去られる、修行や祭事が妨害されるといったことはもっと増えることを覚悟しなければならない。

 2点目は、観光に携わる業者が増えるにつれて、旅行者に良い思い出と再訪(リピーター)の希望を抱かせるような対応をする良心的業者の他に、「一見さん」と見きって粗悪品を扱うほか、不当に高額な価格設定をするような非良心的業者がどうしても増えることが予想される点だ。さらに、江戸時代の雲助のように旅行者の不案内な状況に付け込むような商法、というより犯罪が増加することも防げないだろう。

 3点目は、観光業者の方からは邪推と批難されると思うが、サービスの源泉がたまたまその地にある自然環境や先人からの文化遺産であることから、それに携わる人間がどうしても内向きで頑迷固執、唯我独尊な性向を含むことになりそうに思える点だ。実際のサービスのためにはそれなりに勉強や実作業が必要としても、旅行者は毎日のように入れ替わるので少しの不首尾や手抜きは大きな問題にならない。そうした労働環境で働く労働者の気質は果たして、完全性と継続性を要求される他の労働環境の労働者と同等以上の職業倫理を持ちうるのかは疑問だ。

 

 冒頭に述べたとおり、基本的に観光業が現在よりも改善され振興することには期待している。しかしこの日本の長期展望からすると、あまり大きな比重を占めて日本人全体の労働者意識や使命感が劣化するような状況には決してなって欲しくない。

 

下衆な納税意識

 学校の社会科の中には租税・財政教育があり、社会に出てから国税庁の税務広報を少しは目にすることはあっても、日本人の一般的な(社会保険も含めて)納税意識というのは一般に、納めるというよりは取られる、税金の使途についてはとにかく何でも不満という意識になっている。学校で習ったとおりの従順な理解を超えているというのはある意味珍しいことで、これはこれで尊重すべきなのかもしれない。ジャーナリストによる「お上」への批判活動の成果、あるいは政治不信の産物であろうか。

 

 しかし「払い損」とか「なんとかして取り戻そう」という考えに行き過ぎを感じると、さすがに下衆な印象を受けることがある。例えば生活保護などの補助金の不正受給を狙う人や、脱税のための不正会計に手を染めようとする中小零細から国際的大企業にいたる経営者について見聞すると、そうした人たちには社会の公正と自身の義務について大いに考え直してほしいと感じる。

 ジャーナリストは行き過ぎの事例があると取り締まるべき役所が甘いといった批判をすることもあるようだが、そもそも日本国民の中にいる遵法精神が低く社会制度に無理解な人々をもっと指弾すべきとも思ってしまう。

 

 「払い損」は納税者にとっての(強制義務とはいえ)社会貢献であり誇りとすべきだ。誰かに寄生したりせずに、社会資本の整備や社会的弱者の保護を支えているのだ。そのことをあらためて考えることで、下衆な考えを日本社会から払拭してゆければと思う。(毎年11月には「税を考える週間」があり、国税庁のホームページで関連情報が載るのでこれで勉強し直すのも良いだろう。)

 

健康保険の恩恵を受けていない? 医者の世話にならず健康なのは慶賀すべきです。

失業手当を受け取ったことがない? 永年勤続おめでとうございます。

年金は返ってこない? その前にまずご自身が早死にされないようにご注意を。

 

「考えさせる教育」に注意

 日本の公教育については以前から暗記重視や知識偏重という批判があり、その反省から論理性や問題解決能力を求める意見が絶えず見受けられる。そして具体的な対応策として様々な学習方法が研究されるとともに一部で実際に取り組まれているようだ。その中でも「考えさせる教育」といった、学生に討論や試行錯誤、調査などを委ねるパターンもあるようだ。

 

 企業内研修などを含めて教育現場でそうした取組みをされ、その欠点にも向かい合っている熱意のある責任者には敬意を表したいと思うが、ちょっと気にかかるのは字面だけで「考えさせる教育」を直ぐに分かった気になる人間が現れることだ。例えば教育する範囲や進行、評価方法などについて綿密な計画も無しにとにかく学生にやらせて事足れりとする事例が蔓延するといった事態だ。要するに「考えさせる教育」が教える側にとって都合の良い手抜きの大義名分とされてしまうことが懸念される。

 

 「考えさせる教育」については、個々の学生の意欲に差異がある点や適切な教材を用意することが難しいという点、教育成果にバラツキが発生しやすい点などの課題が挙がっているようなので、そもそも教える側がこうした多くの課題を理解した上で計画することが必須条件と考える。つまり従来の教育よりも教える側の工夫や労力が求められるものであって、決して手抜きができる教育手法では無いだろう。しかしもしも半可通に名前を長所だけを聞きかじって、手抜きができる目新しい教育方法として実施されたら、教わる側はとにかく困るし成果も不十分になることは容易に想像できる。

 

 少なくとも「考える」ということは、基礎知識を確実にしているか必要な情報を入手できることが前提と思う。また「試行錯誤」は非常に重要だが、何も手応えや達成感が得られないのであれば、苦手意識や意欲喪失につながるのが普通だ。こう考えると、とにかく暗記させてテストを受けさせるという教育方法は、なかなかどうして確実で捨てたものではないとい見方もできるだろう。

 

「考えさせる教育」には大いに期待しているが、教える側になってその能力に自信が無い限りは、従来からの一般常識のとおり、懇切丁寧な教材作成や熱意と根気をもった説明に専念した方が順当に思えるのだが、皆さんはどうお考えになるでしょうか。