三国志ファンの多くは、諸葛孔明(181~234)の「出師表」(すいしのひょう)を感動的な名文のひとつとしてご存知の事かと思います。そのファンの方も更にマニアックになると、「出師表」に並ぶ名文があと他に二つあるという説を知ることになるでしょう。それは晋代の李密(りみつ / 224~287)による『陳情表』(ちんじょうのひょう)と、唐代の有名な詩人である韓愈(かんゆ / 768~824)による『祭十二郎文』(さいじゅうにろうぶん)です。
残念なことにこの二つの文章については、市販の書籍はもちろんインターネット上でも、なかなか触れることができないようです。そこで今回、原文(漢字だけの白文)を元にAI(Gemini)を通じて現代語訳を作成しましたので、以下の文章を是非ご参照ください。なお、「第一段」といった区分けは、AIによって設けられたものです。
そしてもっと知りたいと思われた方や、やはり読み下し文で味わいたいという方は市販の専門書籍で鑑賞するようにしましょう。
現代語訳をご紹介する前段として、なぜ『出師表』と『陳情表』、『祭十二郎文』が並び称されるようになったかという背景を簡単にご説明します。
南宋時代の皇族の一員であった趙与時(ちょうよし / 1172~1228)は、当時博識で知られた文化人であり、来客を見送った後に、そこでの会話や読書で得た知識を『賓退録(ひんたいろく)』というメモに残していました。その全10巻中の「巻九」に、文人であった安子順(あんしじゅん / 1158~1227)の言葉が以下のように記録されていたのです。
「『出師表』を読んで涙を流さない者は不忠(忠義がない)であり、
『陳情表』を読んで涙を流さない者は不孝(親孝行ではない)であり、
『祭十二郎文』を読んで涙を流さない者は不慈(慈しみの心がない)である。」
この一人の文人の評価が後世の人にも広く賛同されたことで、現代の日本にまで知られるようになったということです。
それでは李密の『陳情表』について、この名文が書かれた経緯について簡単に紹介しておきましょう。 李密はもともと蜀の文官(諸葛孔明のすぐ後の世代)でした。しかし蜀の国は滅ぼされてしまい(263年)、そのさらに後(280年)に呉の国も滅ぼすことで中国を統一した晋の武帝(司馬炎 / 236~290)から出仕するよう命令されたのですが、祖母の介護のために今は仕官できないという事情を切々と訴えたというものです。当時の徳目として非常に重要視されていた祖母への「孝」と、国家への「公」の間で苦しむ切実さが感じられる名文とされています。
韓愈は日本の漢文の教科書にもしばしば作品が掲載されるほどの有名な詩人ですので、日本語でも彼の作品を集めた類書をあたれば『祭十二郎文』に触れることができるのに対して、李密は詩人などではないため、「陳情表」に触れるには『文選』巻三十七 に収録されているものを選り抜いてくる必要があるでしょう。
『陳情表』 李密
第一段:不遇な生い立ちと祖母との絆
臣(わたくし)密が申し上げます。私は不運にも幼くして不幸に見舞われました。生後六か月で父を亡くし、四歳の時には母が再婚(伯父が母の意志をねじ曲げて再婚させた)して去ってしまいました。祖母の劉氏は、孤児となり弱り切った私を不憫に思い、自ら手元で育ててくれました。
私は幼少期から病気がちで、九歳になっても歩けませんでした。孤独で苦労しながら成人しましたが、父方の叔父もおらず、兄弟もいません。門地は衰え、幸も薄く、遅まきながら息子を授かったものの、外には親戚(期功の親)もおらず、家の中には門番をさせる下男もおりません。たった一人で、自分の体と影が互いに慰め合うような孤独な暮らしです。
その上、祖母の劉氏はずっと病に伏せっており、床から離れることができません。私は薬を煎じて差し上げ、ひと時も側を離れたことはありません。
第二段:板挟みの苦しみ
(現在)聖朝(陛下のご治世)を奉じ、清らかな教化に浴しております。かつて太守の逵は私を「孝廉」に推挙し、後に刺史の栄は私を「秀才」に推挙しました。しかし、私は祖母を養う者がいないことを理由に、拝命しませんでした。
ところが、詔書が特に下され、私を「郎中」に任命し、さらに重ねて国恩を蒙り「洗馬」に任ぜられました。卑しい身分の私が、皇太子殿下に侍る大役を仰せつかったことは、命を懸けても報いきれない光栄です。私は具(つぶさ)に表を奉り、事情を説明して辞退いたしましたが、詔書は厳しく、私の不届きを責め立てました。郡や県は出発を急かし、州の役人は門前にやってきて、星火のごとく(火急に)私を追い立てます。
詔に従って駆け付けようとすれば、祖母の病状は日増しに重くなり、かといって私情を優先しようとすれば、訴えは聞き入れられません。進むことも退くこともできず、実に途方に暮れております。
第三段:烏鳥の私情
伏して考えますに、陛下は「孝」をもって天下を治めておられます。お年寄りは皆、慈しみを受けておりますが、まして私の孤独と苦しみは格別です。また、私はかつて偽朝(滅亡した蜀)に仕え、役職に就いておりました。もともと立身出世を望んでおり、節義を重んじて(新朝への出仕を)拒んでいるわけではありません。
今、私は亡国の卑しい捕虜であり、微々たる存在です。それなのに、過分な引き立てをいただき、その恩命はあまりに手厚いものです。どうして躊躇して、さらに高い望みを抱くことなどありましょうか。
ただ、祖母は「日、西山に薄(せま)る(沈もうとしている太陽)」のごとく、息も絶え絶えで、その命は非常に危うく、朝には夕べの命すら計り知れません。私には祖母がいなければ今日まで生き長らえることはできず、祖母は私がいなければ残された余生を全うすることができません。祖母と孫の二人は、互いに命を預け合っているのです。ゆえに、この切実な思いから、介護を離れて遠くへ行くことができないのです。
私、密は今年四十四歳、祖母の劉氏は九十六歳です。私が陛下に忠節を尽くせる日は長く、祖母に報いることができる日はもう短いのです。「烏鳥(カラス)が親に餌を運んで恩返しをするような私情」をお汲み取りいただき、どうか最後まで祖母を養うことをお許しください。
第四段:決意と結び
私の苦境は、旧蜀の人士や州の長官が見ているだけでなく、天地の神々も等しく照覧されているところです。願わくは陛下、私の愚かで誠実な思いを憐れみ、小さな願いをお聞き入れください。幸いにして祖母が余生を全うできましたなら、私は生きている間は命を懸けて尽くし、死してのちも「結草」の故事のごとく恩返しをいたします。
私は犬馬のような(陛下を恐れ敬う)恐縮の至りに堪えず、慎んで表を奉り、申し上げます。
韓愈の『祭十二郎文』の現代語訳の前に、この名文についても書かれた経緯を簡単に説明しましょう。793年頃のこと、韓愈の甥(兄の息子)である韓老成(十二郎)が若くして亡くなってしまい、その突然の別れに際しての痛切な思いを葬儀に向けて綴ったというものです。(「祭」というのはここでは葬式、「祭文」といえば弔辞の意味となります)
健康だと思っていた若い甥が先に逝き、老境に入って健康を害している自分が生きながらえていることに対する不条理さへの嘆き、再会を約していたにもかなわなかった不運へのうらみ、実の弟のようにも思っていた年若い身内への「慈」愛が溢れてくる気持ちが表現されています。
『祭十二郎文』 韓愈
第一段:突然の訃報
年月日、叔父の愈(韓愈)は、お前(十二郎)が死んで七日目に、ようやく悲しみをこらえて誠意を捧げる。建中に命じ、遠方より旬の供え物を用意させて、お前の霊に告げる。
ああ、私は幼くして父を亡くし、大人になっても父の記憶はない。ただ兄(お前の父)と兄嫁を頼りにして生きてきた。中年になって兄が南方の地で没すると、私とお前は共に幼く、兄嫁に従って河陽の地へ帰り葬儀を営んだ。その後、お前と共に江南で暮らしたが、孤独で苦しい暮らしの中、一日たりとも離れることはなかった。
私には三人の兄がいたが、皆早くに亡くなった。先祖の跡を継ぐ者は、孫の世代ではお前一人、子の世代では私一人だけだ。二代にわたって一族は一人ずつ(両世一身)であり、影と形が寄り添うような孤独な状態だった。兄嫁は常にお前を撫で、私を指さして「韓氏の家系で生き残っているのは、二代でこの二人だけになってしまった」と言っていた。お前はまだ幼かったので覚えていないだろうが、私はその言葉の意味を覚えていたものの、その悲しみまでは理解できていなかった。
第二段:すれ違いの再会と別れ
私は十九歳で都(長安)へ行き、その四年後に帰ってお前と会った。その四年後、河陽の墓参りに行った際、兄嫁の葬儀を終えて戻ってきたお前と再会した。さらに二年後、私は汴州(べんしゅう)で董丞相の補佐をしていたが、お前が訪ねてきて一年ほど留まった。しかしお前は、家族を迎えに行くと言って江南へ帰っていった。翌年、丞相が亡くなり私は汴州を去ったため、お前の再訪は叶わなかった。
その年、私は徐州で軍の仕事に就き、お前を迎えにやる使いを出したが、出発してすぐに私は罷免されてしまった。そのため、またもお前は来ることができなかった。私は思った。「お前が東(江南)にいるのは客居(仮住まい)にすぎない。長く留まるべきではない。将来を考えるなら、西(故郷の河陽)に帰って家を成し、そこにお前を呼び寄せるのが一番だ」と。
ああ、誰が予想しただろう。お前が急に私を置いて亡くなってしまうなどと。私とお前は共に若かったので、一時的に離れても、最後には長く一緒に暮らせると思い込んでいた。だからこそ、お前を置いて都で旅暮らしをし、わずかばかりの禄(給料)を求めたのだ。もしこうなると分かっていたなら、万乗の国の公卿や宰相のような地位であっても、一日たりともお前と離れて出仕などしなかっただろうに。
第三段:運命への問いかけ
去年、孟東野(韓愈の友人で詩人 / 751~814)がそちらへ行く際に、お前に手紙を送った。私はこう書いた。「私はまだ四十前だが、目はかすみ、髪は白くなり、歯もぐらついている。父や兄たちは皆頑健だったのに早く亡くなった。私のように衰えた者が、長く生きていられるだろうか。私はお前の元へ行けず、お前も来ようとしない。もし私が急に死んでしまったら、お前に終わりのない悲しみを与えてしまうのが怖いのだ」と。
ところが、誰が予想しただろう。若い者が死んで年長者が生き残り、健康な者が早く亡くなって病弱な者が生き長らえるなどということを。ああ、これは真実なのか、夢なのか。伝聞の間違いなのか、現実なのか。
もし真実だとしたら、わが兄の盛んな徳がありながら、その跡継ぎを死なせてしまうというのか。お前のように清らかで聡明な者が、祖先の恩恵を蒙ることができないというのか。若い健康な者が死に、衰えた年長者が生き残る。そんなことは信じられない。 夢であってほしい、間違いであってほしい。だが、東野の手紙も耿蘭(召使い)の訃報も、なぜ私の手元にあるのか。ああ、やはり真実なのだ。わが兄の徳がありながら、その跡継ぎは絶えてしまった。家を継ぐべきお前の純明さも、恩恵を受けることはなかった。天というものは実に測りがたく、神というものは実に不可解だ。道理で推し量ることもできず、寿命というものは全く分からない。
第四段:絶望と決意
とはいえ、私は今年に入ってから、白いものが混じっていた髪は白一色になり、ぐらついていた歯は抜け落ちてしまった。血気は日に日に衰え、気力も弱まっている。お前の後を追って死ぬまで、あとどれほどの時間があろうか。死んで意識があるならば、再会までいくらもかからない。もし意識がないならば、悲しむのもあとわずかな時間であり、その後は永遠に悲しみを感じることもない。
お前の子はまだ十歳、私の子はまだ五歳だ。若くて強い者ですら保障がないのに、この幼児たちが無事に成人することをどうして期待できようか。ああ、悲しいかな。
お前の去年の手紙には「最近、脚気(軟脚病)にかかり、時々ひどくなる」とあった。私は「江南の人間にはよくある病気だ」と高を括り、心配もしなかった。ああ、結局その病で命を落としたのか、それとも別の病だったのか。
お前の手紙は六月十七日付だった。だが東野は、お前が六月二日に亡くなったと言う。耿蘭の報告には日付がなかった。おそらく、東野の使いは遺族に日付を問うことを忘れ、耿蘭も日付を書くべきだと知らなかったのだろう。東野が私に手紙を書く際、使いに問いただすと、使いが適当に答えただけなのか。それが本当なのか、そうでないのか。
今、私は建中を遣わしてお前を祭り、残された孤児(お前の子)と乳母を弔わせる。彼らが喪が明けるまでそこでおれる食料があるなら、喪が明けてからこちらへ連れてくる。もし生活できないなら、すぐに連れてくる。他の奴婢(召使い)たちは、お前の喪を守らせる。私が改葬できるだけの力を蓄えたら、いつの日か必ず先祖の墓所にお前を葬ってやる。
第五段:永遠の別れ
ああ、お前が病の時も私はそれを知らず、お前が死んだ日も私は知らなかった。生きていれば共に暮らして養い合うこともできず、死んではその亡骸を撫でて悲しみを尽くすこともできなかった。入棺の際に棺に寄り添うこともできず、埋葬の際にも立ち会えなかった。私は神明に背く行いをしたために、お前を早くに死なせてしまった。伯父として慈しまず、甥として孝行できず、共に生きて助け合い、共に死んで守り合うこともできなかった。
一人は天の果てに、一人は地の隅に。生きている間もお前の影が私の形に寄り添うことはなく、死んでからもお前の魂が私の夢に現れることもない。これはすべて私のせいだ。誰を恨むことができよう。
あの蒼い天よ、この悲しみはいつ終わるのか。今後はもう、この世で出世する望みも失った。伊水や潁水のほとりに数頃の田畑を求め、余生を過ごしたい。私の子とお前の子を教え、幸いにも成長することを願い、私の娘とお前の娘を嫁がせる、ただそれだけだ。
ああ、言葉は尽きても、この情念は尽きることがない。お前はこれを知っているのか、いないのか。ああ、悲しいかな。どうかこの供え物を受けておくれ(尚饗)。