説明「能力」以前の問題

 説明する側の立場の人が「一から十まで教えてはいられない」とか「いちいち説明していたら切りがない」などという言い方で、説明を放棄する場面を見聞きしたことは誰しも経験したことがあるものと思います。

 そもそも日本人のコミュニケーション・スキルが不足しているという指摘は、書店のビジネス書のコーナーにある多くの類書で触れられているところです。さらに、仕事の取り組み姿勢がずっと「勘と経験と度胸」になっていた場所であれば、そもそも言語化する能力が必要とされていなかったことも一因となっているのでしょう。

 

 しかし考えてみると、説明を放棄するに至る真因は能力の高低でなく、そもそも日本人の習慣として(特に目下の人間へ向けては)意を尽くした説明をすることについては非常に面倒くさいと感じているように思えてならないのです。

 

 言葉尻を捕らえた揚げ足取りのようですが、せいぜい「1から10」くらいまで説明事項であれば、順を追ってじっくり説明してゆけば良さそうなものです。10までしか数えられないのでしょうか。またいくら「切りがない」といっても、300以上の分類や類型しかないようなものはそう多くはないはずで、何事もそれこそ3つとか7つとか12くらいの大分類に区分した初心者向けの説明が可能というのが通常ではないでしょうか。

 

 やはり、「お前なんかのために必死に頭を使って説明するなどというのは面倒でやっていられない」という本音を少しだけ曖昧にして説明者側が悪者にならないようにする科白が、冒頭で示した言い方のように思えませんか。

 本当のところは、説明する側が初心者向けの説明の準備に時間を十分に割いていなかったり、そもそも勘と経験と度胸で体得しているので頭の中で明確な体系づけや言語化をできていなかったり、口頭説明も図解表現も文書作成も習熟していないというのが、日本の実情と思えます。

 

 さらに日本には未だなお上下関係が頑然と存在しているため、上にあたる説明する側に対して下から無能や努力不足を指摘することは全く不可能です。仮に下の立場から上の立場に何か説明や報告をする場面であっても、上の立場が勘と経験と度胸で世を渡ってきているとなると説明の品質などはおそらく重要視しないのでしょう。

 

 評論家ぶった口先だけの人間より、職人肌で黙って手を動かす人間の方が今でも多くの人に好ましく感じられるとしても、やはり現代では丁寧な説明することを惜しまないということをより重要な美点としなければならないと思います。

 

 それにしても、2010年くらいから「考えさせる教育」という言葉が増えるにつれて、「マニュアル教育」が批判されているように見受けられますが、未だまだ日本はマニュアルでの十分な説明が全くできていないのには困ったものです。