師を越えるには

 教育の目標を大きく言うならばそれは、師を越えることがひとつ挙げられるでしょう。

 教育を受けた人が全員、新しい分野の開拓や発見、進歩を実現することはないにせよ、次世代での目標という意味でそれを当然のこととして目指すべきと思います。

 もちろん例外もあって、芸術やスポーツの分野は個人的な素質と才能への依存度が大きいので、なかなか師を越えるのは難しいですし、科学技術の分野は多くの面で企業組織が貢献しているので、師弟関係だけでなく競争関係の中でも育まれているという状況があります。

 それでも常識とされる知識を受け継ぐだけになってしまったら、将来の社会の発展は全く望めません。

 

 そもそも教える側は自分を越えることを心から期待して教えているのでしょうか。

 「守」「破」「離」のうち、「守」の強調で終始しているような姿勢では代を重ねるにつれて器が小さくなるばかりですから、自由に見直して「破」に取り組めるように導き、奨励するようでなければなりません。そのうちに「離」の新境地に到達できる人も出てこようというものです。また、自身が1年かけて覚えたことを生徒には半年で覚えて欲しいと、本心から思っていてほしいです。間違っても、未熟な生徒を見て優越感に浸っていたり、自身の苦労をそのまま追体験させようと考えていたりといった心得違いをした人はいないと信じたいです。

 だいたい高齢の大物になると、後世のために自分の考えに基づいた教育に取り組むという事例はいくつかあるようです。松下幸之助(1894~1989)が松下政経塾を始めたのは有名ですが、孟子も「君子三楽」の三番目に「天下の英才を得て、之を教育するは、三楽なり。」(「孟子」尽心上)としているくらいですので、自然な要求なのかもしれません。

 

 また、教わる側は師を越えるという気概をもって学んでいるのでしょうか。

 何かを学び始めた当初に師を越えるということは、通常は想定しにくい目標に違いありません。それでも志をもって始めたことであれば、積極的に倦まず弛まず取り組んでゆくことで進歩は必ず見られるものでしょう。

 福沢諭吉(1835~1901)は英語の勉強を始めた当初、英語の先生の教え方から、大したことはないと感じて、後年にはその先生が福沢の元に学びにきたことがあったそうです。(「福翁自伝」)

 

 それにしても、相当前近代的な環境と目されている相撲の世界でも先輩に勝つことを「恩返し」と呼んでいるというのに、他の世界で出藍の誉を希求しないのには困ったものです。