昔の幼稚園児のサッカーを見て

 正確な月日は忘れてしまいましたが、以前に近所の幼稚園で園児がサッカーをしているのを偶然外から眺める機会がありました。それなりのサッカー指導者はついているようでしたが、なにせ学んで間もない幼稚園児なので、ゴールキーパー以外の全員でボールを触ろうと敵味方入り乱れた集団でボールをずっと追いかけ回しているのが愉快で可愛かったという記憶が残っています。しばらく経験してゆけば、ちょっと離れたポジションに待機した別の子供にパスが通って、その子供が楽にゴールを脅かす場面に出会うことになるでしょうから、「今のは危なかった」とか「離れておくのは頭の良い方法だ」という発見をいずれ思い知ることになったでしょう。

(ちなみに故意に後ろから蹴ったり、倒されたふりをしたりする幼稚園児は全く見ませんでした。)

 

 しかし幼稚園児に限らず、その場その場で自分のなすべき役割を見つけて行動を考えて実行するというのは案外難しいことなのかもしれません。

 なすべきことや容易にできることがあるにも関わらず察知できない無邪気な人がいれば、できる能力も資源もあるのに無関心で何もしようとしない事なかれ主義の人、ただの野次馬で騒ぐだけの邪魔な人、幼稚園児のようにまっすぐに行動するけれど少し工夫に欠けている人、少し離れて様子を見ながら的確に指示を出せるリーダーシップのある人、立ち止まってずっと考えているだけの長考型の人などなど様々な類型が現実には存在していそうです。

 

 ジャーナリストの本多勝一氏が問題提起として、日本は「メダカ社会」であって、周りの人と同調してゆくことを行動原理としてしまっており、自分の頭で考えて行動する人が少ないという主旨の批判をしていたのを読んだことがあります。確かに日本人は自分の考えで行動する人が少ないという点は同意できますが、行動するだけでも未だましな気もします。

 

 そもそもなぜ皆で同じことをやってしまうか、という点について個人的に考え直してみると、短期的あるいは局所的には頭を使うか手足を使うかはともかく自主的に行動すべき事柄を見つける姿勢をもっておくこと、長期的あるいは大局的には周囲の同調圧力や日々の定型業務に流されずに自主的に自身の価値観に従ってより良く変化してゆくことを指向する意識が鍵になるのかなと考えています。もちろん次の問題として、自主的に行動すべき事柄を見つける姿勢とより良く変化してゆくことを指向する意識をどう身につけるかという更に抽象的な課題への取り組みがあるわけですが、これはまた別の機会に紹介したいと思います。

 

 皆さんも幼稚園児のサッカーを見る機会があれば、是非ご覧になることをお勧めします。いろいろ考えさせることが浮かぶことでしょう。