日本における死刑制度の存廃論議は数十年来、賛否双方で盛んに行われています。様々な意見が飛び交い、関連書籍も出版され、各メディアでの議論は時に白熱します。しかし、私はこの状況に強い違和感を覚えています。なぜなら、議論自体が「面白さ」を追求する知的ゲームの様相を呈し、本来は政策的により重要な対象であるべき「被害者とその遺族の苦しみ」に関する議論や賠償制度が置き去りにされていると感じるからです。
知的興味の対象としての死刑制度
死刑制度は、確かに多くの興味深い論点を含んでいます。
これらのテーマは、哲学、法学、社会学など、様々な分野の知識を刺激し、非常に知的好奇心をくすぐります。しかし、議論がこれらの抽象的なテーマに終始し、具体的な被害者の苦しみの方に目が向けられないならば、それは単なる知的遊戯に過ぎません。しかし面白いのは事実ですから、言論の自由が基本の社会においては、どうしてもこうしたいつまでも終わらない議論の方に衆人の関心が集まるのも止む得えないことです。
- 生命の尊厳と国家の権力
- 司法の限界と誤判の可能性
- 犯罪抑止力と倫理観
- 被害者感情と社会正義
- 国際社会との関係
置き去りにされる被害者の苦しみ
殺人事件などで被害にあわれた方やご遺族は、想像を絶する苦しみを抱えています。
基本的に殺人者1名に対して、被害者は複数名、そしてそのご親族ないしご遺族を含めると数十名に非常に大きな影響を残しているはずであり、単純に人数から見て、国家として心を砕いて対応すべき優先順位は明らかにご親族ないしご遺族が上になるものと信じます。
- 愛する人を失った悲しみ
- 事件のトラウマによる精神的苦痛
- 経済的な困窮
- 周囲の無理解や偏見
これらの苦しみは、議論の対象ではなく、真摯に向き合い、寄り添うべきものです。しかし、現状では被害者支援は十分とは言えません。
死刑制度存廃論に日々を費やしているほとんどの方も、こうした賠償制度について反対しているようなことは無い様子です。また、存廃論が何らかの形で決着したら次に考えようと思っているわけでもないでしょう。要するに賠償制度は当然の制度と見なしていても、「面白くないから」議論に注力しないものと考えて差し支えないでしょう。しかしその結果、行政・司法関係者の限りある時間のかなりの部分を、死刑制度存廃論で埋める状況になっていると想像します。
被害者支援の現状と課題
経済的賠償に限ってもほとんどの場合、少し想像していただければ分かるはずですが、加害者には十分な資力が無く、あっても賠償金の支払いを拒否することもあるため、賠償を受けることはまず期待できません。では日本国政府による被害者支援制度はどうかというと、海外に比べて遅れていると言わざるを得ません。
日本でも一応は犯罪被害者等基本法(2004年12月1日成立)に基づき、国から被害者や遺族に対して給付金を支給する制度自体は存在します。しかし、給付金の額は限定的であり、精神的なケアや法的支援も十分とは言えないものです。
- 経済的支援の不足
- 精神的ケアの不足
- 法的支援の不足
- 情報提供の不足
これらの課題を解決し、被害者とそのご親族、ご遺族が一日も早く平穏な生活を取り戻せるよう、制度の充実を図る必要があります。
私たちがすべきこと
やはり、死刑制度の存廃論議に多くの時間を費やすよりも、被害者支援の充実に向けた議論を増やし深めるべきと考えます。
- 被害者の声に耳を傾ける:メディアやシンポジウムなどを通じて、被害者の体験や意見を積極的に発信する。
- 制度の問題点を明らかにする:専門家や関係者の協力を得て、現状の課題を具体的に示し、改善策を検討する。
- 社会全体の意識を高める:学校教育や地域社会で、被害者支援の重要性を学ぶ機会を設ける。
- 政策提言を行う:国や自治体に対して、被害者支援制度の充実を求める提言を行う。
議論の質と比重の転換を
念の為に申し添えますが、死刑制度の存廃論議は、決して無意味ではありません。しかし日本社会全体としては、議論の質と比重を転換し、被害者支援の充実という具体的な目標に向かって進むべきです。被害者の苦しみに寄り添い、共に歩む社会を実現するために、私たち一人ひとりができることを考え、行動しませんか。