AirLand-Battleの日記

思い付きや素朴な疑問、常識の整理など、特段のテーマを決めずに書いております。

言葉の省略を忌む

 今回は日本語の使っている日々で、ふと気づいた注意点あるいは問題点を共有したいと思っています。

効率化の陰で失われるもの

 以下に例を挙げておきます。どれも聞き慣れてしまっているかもしれませんが、省略や短縮される前の表現の方が意味が明解なことは明白でしょう。 また、例は挙げませんが、インターネット上では独特の省略や短縮表現にあふれていることはご承知のことと思います。

  • 「目から鱗」 :「目から鱗が落ちる」が正しい。
  • 「語るに落ちる」 :「問うに落ちず、語るに落ちる」が正しい。
  • 「やぶへび」 :「藪をつついて蛇を出す」が正しい。
  • 「泥縄」 :「泥棒を捕らえて縄を綯う」が正しい。
  • 「タメ元」 :「ダメでもともと」が正しい。
  • 「胸アツ」 :「胸が熱くなる」が正しい。

 そもそも言葉は、私たちの思考を形作り、感情を伝え、他者との繋がりを築くための根幹です。その言葉が、時に「簡略化」され、「省略」されることがあります。日常会話における些細な省略は、コミュニケーションの効率性を高める側面もありますが、過度な省略や、背景にある意味を置き去りにした短縮形の氾濫は、言語の豊かな表現力を損ない、世代間の理解を阻害し、ひいては思考力の低下にも繋がりかねません。

 私たちは日々、膨大な情報に晒され、効率的なコミュニケーションを求められる社会を生きています。このような背景から、冗長な表現を避け、簡潔に意図を伝えるための言葉の省略は、ある程度必然的な流れと言えるでしょう。

 しかし、この効率化の追求の陰で、私たちは多くのものを失っているのではないでしょうか。「油断も隙も無い」を「油断も隙も」と短縮した場合、確かに言葉数は減りますが、「無い」という否定の強調が失われ、注意喚起のニュアンスが弱まる可能性があります。「猫の手も借りたい」を「猫の手」とだけ言えば、切迫した状況や助けを求める気持ちは伝わりにくくなります。

 特に問題なのは、元の表現が持つ文化的背景や歴史的意味合いが、短縮によって抜け落ちてしまうことです。「藪をつついて蛇を出す」を「やぶへび」と短縮して使う場合、この言葉が持つ「余計なことをして災いを招く」という教訓や、具体的なイメージが、単に「やぶへび」という音の響きだけでは伝わりにくくなります。言語は、単なる情報の伝達ツールではなく、先人たちの知恵や経験が凝縮された文化的な遺産でもあるのです。その一部が失われることは、私たちの文化的な基盤を揺るがすことにも繋がりかねません。

 

言語習得への影響と世代間の断絶

 言葉の省略は、特に言語を習得中の幼児や児童にとって、大きな障壁となります。「やぶへび」という言葉を初めて聞いた子どもは、それがどのような状況を表しているのか、全く想像できないでしょう。元の「藪をつついて蛇を出す」という具体的な描写があってこそ、意味を推測し、言葉とイメージを結びつけることができるのです。

 短縮形だけが先行して広まってしまうと、今後生まれて成長してゆく子どもたちは、言葉の表面的な音だけを覚え、その背後にある深い意味やニュアンスを理解する機会を失ってしまいます。これは、語彙力の低下だけでなく、読解力や思考力の育成にも悪影響を及ぼす可能性があります。言葉の意味を深く理解することは、物事を多角的に捉え、抽象的な概念を把握するための基礎となるからです。

 また、短縮形の多用は、世代間のコミュニケーションにおける断絶を生む可能性も孕んでいます。若者を中心に新しい短縮形が次々と生まれる一方で、年配の世代にはそれが理解できず、意思疎通が困難になることがあります。共通の言語基盤が失われることは、社会全体の連帯感を弱め、孤立感を生む要因にもなりかねません。

 

「野暮」という名の思考停止

 「全部言うのは野暮である」という感覚も、言葉の省略を助長する一因と考えられます。もちろん、状況によっては、冗長な説明を避けることが円滑なコミュニケーションに繋がることもあります。しかし、「野暮」という言葉を免罪符にして、思考停止に陥ってはいないでしょうか。

 言葉を丁寧に使うことは、相手への敬意を示すことでもあります。状況を的確に把握し、相手に誤解を与えないように、必要な情報を過不足なく伝える努力は、「野暮」とは対極にある、成熟したコミュニケーションのあり方と言えるでしょう。安易な省略は、思考の深さを欠き、表面的な理解に留まる危険性を含んでいます。

 

紋切り型を避ける工夫と安易な短縮の線引き

 また、紋切り型の表現を避け、少し工夫した言い方をしたいという気持ちは、創造性を育む上で重要な要素です。しかし、その工夫が、単なる言葉の切り捨てや意味の曖昧化に繋がっては本末転倒です。

 大切なのは、言葉の表面的な形を変えるのではなく、その言葉に込められた意味合いを深く理解し、状況に応じて適切な表現を選ぶ力です。安易な短縮は、この言葉を選ぶという思考プロセスを省略し、言語表現の貧困化を招く恐れがあります。

 

教育現場と社会全体で取り組むべきこと

 言葉の省略がもたらす負の側面を理解した上で、私たちはどのような対策を講じるべきでしょうか。

 以下に挙げてみた対策は、すぐに効果が現れるものではありません。しかし、粘り強く継続していくことで、言葉に対する意識を高め、豊かな言語文化を次世代に継承していくことができるはずです。

 個人としては、日常会話の中では面倒なのも分かりますので、まず文章表現についてだけでも、無闇に省略する表現を避けること、減らすことから始めてはいかがでしょうか。

 

教育現場においては、

  • 幼児期から、絵本や物語を通して豊かな言葉に触れる機会を提供し、言葉とイメージを結びつける力を養う。
  • 小学校以降の国語教育において、慣用句やことわざなどの元の表現とその意味、背景にある文化を丁寧に教える。短縮形との関係性や、使い分けについても指導する。
  • 言葉の語源や成り立ちを探求する学習を取り入れ、言葉に対する興味関心を高める。
  • ディベートやグループワークなどの活動を通して、相手に分かりやすく、正確に意図を伝えるための言葉を選ぶ力を育成する。
  • 図書館を活用し、言葉に関する書籍や資料に触れる機会を提供する。

社会全体においては、

  • メディアが、正しい日本語の表現や言葉の持つ意味、背景に関する情報を積極的に発信する。短縮形を使用する際には、必要に応じて元の表現を併記するなどの配慮をする。
  • 家庭において、親が子どもとの会話の中で、丁寧な言葉遣いを心がけ、様々な表現に触れる機会を作る。昔ながらの言い回しや、地域特有の言葉などを伝えることも重要である。
  • 地域社会の活動やイベントを通して、世代間の交流を促進し、言葉に関する知識や経験を共有する機会を作る。
  • 公共施設(図書館、博物館、公民館など)が、言葉や文化に関する講座や展示会などを開催し、分かりやすい言語コミュニケーションの意識向上を図る。
  • インターネット上でのコミュニケーションにおいても、安易な短縮形やスラングの使用を避け、相手に配慮した丁寧な言葉遣いを心がける。

 

言葉を大切にするということ

 「言葉の省略を忌む」ことは、決して時代に逆行することではありません。言葉を丁寧に扱い、その意味を深く理解しようと努めることこそが、より豊かなコミュニケーションを生み出し、私たちの思考力や文化的な感性を磨くことに繋がるものと考えています。今一度、私たちが普段何気なく使っている言葉たちに意識を向け、「もう慣用句なんだから....」と言わず、その一つひとつを大切にする姿勢を取り戻す必要があるのではないでしょうか。

 

 そのうち「コスパ」なんて誰も分からなくなるんだろうな。