選挙のときに、最高裁判所の裁判官を国民が信任するかどうかを決める、あの「国民審査」については、制度が始まって以来、罷免された裁判官は一人もいません。つまり結果的には、無意味な投票制度を何十年も継続しているとも言えるのです。 今回は、この国民審査制度の現状の問題点、海外の制度との比較、そして、私たちがこの制度を通じて民意を反映させることの重要性、そして改革への道のりについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
なおタイトルはNHK党のキャッチフレーズを真似させていただきました。試しにNHK党の現実的な政策を調べてみると、受信料義務を廃止すること、官僚的で肥大化した問題点を解消して透明性を高めることなどを唱えており、一斉にNHK職員全員を失業させたり、報道の自由を制限しようとしているものでないことは分かります。そして今回のこのブログでの主張も同じです。
衆議院議員選挙や内閣総理大臣を選ぶ選挙では、私たちは貴重な一票を投じます。国民の代表を選び、私たちの暮らしに直接影響を与える政治(「立法」と「行政」)の方向性を決める、とても大切な機会です。
それに対して、最高裁判所の裁判官はどうでしょうか?彼らは、私たちの権利や自由、社会のあり方を左右する重要な判断を下す、「司法」の最高責任者たちです。そんな彼らの適格性を、私たち国民が直接チェックできる制度がある。それが国民審査なわけですが…正直、どれだけの人が真剣にこの制度に向き合っているでしょうか?
形骸化が進む国民審査制度、その問題点とは?
現行の国民審査制度は、日本国憲法第79条と国民審査法に定められています。その目的は、国民主権の原理に基づき、国民が最高裁判所の裁判官の適格性を直接審査し、不適格と認める場合に罷免する権限を持つことで、司法に対する民主的なコントロールを確保することにあります。
理想はそうですが、現実はどうでしょうか?上でも述べましたが、制度が始まって以来、罷免された裁判官は一人もいないというのが実状です。これは、全ての裁判官が国民から絶対的な信頼を得ている証拠でしょうか?残念ながら、そうとは言い切れないでしょう。
その背景には、以下のような大きな問題点があると考えられます。これらの問題点が複合的に作用し、国民審査制度は形骸化が進み、「あってないようなもの」になっていると言わざるを得ない状況です。
1. 国民の関心の低さと情報不足
一番の問題は、国民の関心の低さです。最高裁判所の裁判官がどのような判断を下しているのか、どんな経歴を持っているのか、私たちはほとんど知りません。国民審査の投票用紙を見ても、名前と簡単な紹介文が載っている程度で、判断材料としてはあまりにも不十分です。これでは、誰に信任・不信任を投じれば良いのか分からず、結果的に「よく分からないから信任」という、形式的な投票になりがちです。投票率自体も、衆議院議員総選挙と同時に行われることが多いものの、国民審査単独で見ると低い傾向にあります。
ジャーナリストも、議員や大臣に問題発言や汚職、政策論議などがあれば盛んに報道していますが、裁判官について取り上げることはまずありません。そもそも、大事件や憲法判断などが無い限りは、あまり取材対象として見ていないように感じます。
2. 罷免のハードルの高さ
罷免に必要な要件も非常に厳しいです。有効投票数の過半数の不信任票が必要とされます。組織的な反対運動でも起きない限り、このハードルを超えるのは現実的に困難です。つまり、制度としては「罷免できる」と謳っているものの、実際には「ほぼ罷免できない」仕組みになっていると言わざるを得ません。
3. 判断基準の不明確さ
何をもって「不信任」とすべきかの明確な基準が示されていません。「憲法や法律に著しく反する判断をした」というような明確な基準があれば判断しやすいのですが、現状では、国民一人ひとりの主観的な判断に委ねられています。これでは、感情的な理由や誤解に基づいて不信任票が投じられる可能性も否定できません。
海外の最高裁判所裁判官の制度
では、海外の先進国では、最高裁判所の裁判官はどのように選ばれ、その地位はどのように保障されているのでしょうか?
多くの国では、日本の国民審査のような制度はありません。主流なのは、任命制と議会の承認を組み合わせた制度です。
例えば、アメリカ合衆国では、大統領が最高裁判所判事を指名し、上院の承認を得る必要があります。この承認プロセスでは、指名者の適格性、憲法解釈、政治的信条などが徹底的に議論されます。
カナダやイギリス、オーストラリア、ドイツ、フランスなども、首相や大統領、君主などが任命し、議会が関与する仕組みが一般的です。
これらの国々では、裁判官の専門知識や経験、人格、公正さなどが重視され、厳格な審査を経て任命されます。国民による直接的な信任制度がないのは、司法の独立性を重視し、裁判官が一時的な国民感情や政治的圧力に左右されることなく、法と良心に基づいて判断を下せるようにするためと考えられています。
ただし、アメリカの一部の州には、裁判官の信任投票制度が存在したり、任命後の一定期間を経て住民による信任投票が行われる制度(メリット・システム)があったりします。これは日本の国民審査に近い要素を持つと言えますが、連邦最高裁判所では採用されていません。
海外の制度と比較すると、日本の国民審査制度は、国民が直接的に司法に関与できるという点でユニークですが、その実効性には大きな課題があると言わざるを得ません。
なぜ民意の反映が必要なのか?
「たしかに司法の独立は重要ですね。それでは国民の意見なんて入らない方が良いのでは?」そう思われる方もいるかもしれません。しかし、民主主義国家において、司法もまた国民の信頼の上に成り立つべき存在です。 最高裁判所の判断は、私たちの社会の価値観や倫理観、そして未来のあり方に大きな影響を与えます。例えば、憲法の解釈一つで、私たちの自由や権利の範囲が変わることもあります。
もちろん、裁判官は法律の専門家であり、感情論ではなく法に基づいて判断を下すことが求められます。しかし、その判断の根底には、社会の共通認識や正義感といったものが反映されるべきです。
国民審査制度は、直接的に裁判官の判断を評価するものではありませんが、「国民が見ている」という意識を裁判官に持たせることで、その職責に対する自覚を促し、国民の信頼に応えるような行動を期待する、という側面があります。
もし国民が全く司法に関与できないとなると、司法は社会から乖離し、国民の感覚とズレた判断を下してしまう可能性も否定できません。民主主義の根幹である「国民が主権者である」という原則を考えると、司法に対しても何らかの形で民意を反映させる仕組みは必要不可欠と言えるでしょう。
改革への道のり、立ちはだかる壁
では、もしもこの形骸化した国民審査制度を、より有意義なものに変えようとしたときには、どのような改革案が浮かぶでしょうか?そして、その先にはどのような障害があるでしょうか?
考えられる改革案:
- 情報公開の徹底と質の向上: 裁判官の経歴、判断の傾向、過去の判例などを分かりやすく国民に提供する。
- 国民審査公報の改善: より詳細な情報や、第三者による評価などを掲載する。
- 判断基準の明確化: 何をもって「不信任」とすべきかの目安となる基準を示す。
- 国民の関心喚起: 教 育や広報活動を通じて、制度の重要性を啓発する。
- 審査方法の見直し: 不信任票のハードル引き下げや、信任・不信任以外の選択肢の導入など。
改革への障害:
- 国民の関心の低さ: そもそも国民の関心が低い中で、制度改革の必要性を訴え、具体的な行動に繋げるのは容易ではありません。
- 憲法改正の困難さ: 抜本的な制度改革には憲法改正が必要となる可能性があり、現行憲法下での改正は非常にハードルが高いのが現状です。
- 司法の独立性への配慮: 改革によって国民の意向が過度に反映され、裁判官が独立した判断を下せなくなるのではないかという懸念も根強くあります。
- 政治的な合意形成の難しさ: 制度改革は、与野党間の合意形成が不可欠ですが、意見の対立などにより実現が難しい場合があります。
「ぶっこわす」その先へ
今回のブログでは、国民審査制度の問題点や改革の必要性について考えてきました。その形骸化を打破し、より国民の意思が反映されるような有意義な制度へと進化させることこそが私たちの本当に目指すところであると信じています。 そのためには、まず私たち国民一人ひとりが、最高裁判所の役割や国民審査制度についてもっと関心を持ち、学ぶことが大切です。制度の改革には、国民の声が不可欠です。このブログが、皆さんが国民審査制度について考えるきっかけとなり、より良い未来に向けて行動する一助となれば幸いです。