あまり多くはありませんが、サッカーの試合で選手Aが選手Bを蹴ってしまい、怒った選手Bは選手Aを蹴り返して倒したという場面では、「報復行為」として選手Bの方に重い反則が与えられる事例があります。おそらくは報復を認めているとエスカレートして大きな乱闘などに繋がり易いから、などという経験法則から生まれたルールなのでしょうけれど、個人的には「『おあいこ』ならばレフェリーは流してしまっても良いのでは?」、「選手Aが身長190cmで選手Bが165cmなら、より危険な選手Aに反則かな」、「そもそも選手Aが蹴った時点でレフェリーは笛を吹かなくてはいけない」、「選手Aが蹴ったのは、その前に見えない所で選手Bから何か反則をされていたのかな」などといろいろ考えてしまいます。
非常に不潔な架空の例話を出します。知らない誰かが、落ちていた犬のフンを手づかみで拾って自らの口に入れ、よく噛んだ後で、あなたの顔に吹きかけ、「悔しかったら同じことをしてみろ!」と言ったらどうしますか? 反撃(報復)する必要は十分にあると思いますが、したくとも同じことは決してできないでしょう。 (更に言うと、不意打ちを受けるのと、待ち構えて受けるのでは大きく違いますので、同じことにはできません。)
これに似たかたちとして、SNSなどで非常に下品で毒々しい表現で批判をしてきたからといって、同じように下品で毒々しい表現による反論(報復)をすることは理性や矜持があればできません。言論と言論であれば平等かというと、口八丁手八丁の出まかせと勢いで話す人と、口下手な大人しい人であれば、(相当優秀な判定人がいない限りは)勝負にならないのではないでしょうか。他にも暴力的かつ威圧的な人の暴力や暴言に対して、多くの人は物理的かつ精神的に対抗(報復)することができない場合というのも間違いなく存在します。
サッカーや別の想定例のように、報復ということは一般論としてすべきではないとしながらも実在すること、また報復したくてもできない場合があることについて、少し考えてみたいと思います。
報復とは何か?
「報復」とは、一般的に、受けた害や不利益に対して、同じような害や不利益を相手に与える行為を指します。その背景には、怒り、憎しみ、復讐心などの感情が存在することが多く、個人的なものから国家間のものまで、様々なレベルで発生します。
報復が否定される理由
報復というものが一般的に否定されていることはご承知のことと思いますが、あえてここで理解を整理してみましょう。どれも順当で理性的な価値観に基づいていることが分るでしょう。
- 応酬とエスカレーション:
- 報復は、相手からのさらなる報復を招き、終わりのない応酬に発展する危険性があります。
- 感情的な報復は、冷静な判断を欠き、行為がエスカレートし、過剰な報復につながることがあります。
- 道徳的・倫理的観点:
- 「目には目を、歯には歯を」という考え方は、一見公平に見えますが、暴力を連鎖させ、社会全体の暴力を増幅させる可能性があります。
- 報復は、憎悪や敵意を増幅させ、和解や相互理解を妨げる可能性があります。
- 法的・社会的観点:
- 私的な報復は、法秩序を乱し、社会の安定を損なう可能性があります。
- 法治国家においては、報復は法によって禁止されており、法的手段による問題解決が推奨されます。
- 心理的観点:
- 報復は、一時的な感情的な満足感をもたらすかもしれませんが、長期的に見ると、心の傷を癒すことにはなりません。
- 報復に囚われることは、過去の出来事に縛られ、前向きな未来を築くことを妨げる可能性があります。
報復を肯定する理由
一方で、報復を完全に否定することには、現実的な問題も存在します。
上の「報復が否定される理由」で述べられていた理想論は、全人類が皆理性的で、何か不当なことがあったら、どこからともなく赤いマントをつけた警察官や裁判官が飛んで来て、いつでもその場で判断や仲裁を円満完全に遂行してくれるような社会でなければ実現しないでしょう。理想論とは別に、実生活(特に学校や会社などの組織、路上や街頭で生じる理不尽な行為)を見聞したり、実体験するうちに、報復する心構えと強さが無ければならない、という考えに至ることも当然です。
- 自己防衛の必要性:
- 一方的な攻撃や不当な行為に対して、何らかの形で自己防衛を行うことは、生存権や尊厳を守るために必要となる場合があります。
- 特に、弱い立場にある者や、法的な保護を受けられない状況にある者にとっては、自己防衛が唯一の手段となることもあります。
- 抑止力としての効果:
- 報復の可能性が、攻撃や不当な行為を抑止する効果を持つ場合があります。
- 特に、力の不均衡が存在する場合、弱い側が毅然とした態度を示すことが、相手に抑止力として働くことがあります。
- 感情的な側面:
- 不当な攻撃を受けた場合、怒りや憎しみなどの感情を抱くことは自然な反応です。
- 報復は、そのような感情を一時的に解消し、心のバランスを取り戻す手段となることがあります。
報復と区別すべき行為
「報復」という言葉は、本来区別されるべき行為を曖昧にしている場合があります。「報復はするな」と言っても、それは「何があっても無抵抗で我慢しろ、反論や反撃をすると必ずエスカレートしてしまう」という意味とは限りません。
- 質問・反論:
- 不当な主張や批判に対して、その主旨や詳細について「質問」して確認することや、事実に基づき論理的に「反論」することは、自己の権利を守るための正当な行為です。
- これは、感情的な「報復」とは異なり、建設的な議論や相互理解を促進する手段として認められるべきです。
- 自己防衛・抵抗:
- 暴力や暴言など、身の危険を感じる行為に対して、最低限の自己防衛を行うことは、生存権を守るための正当な行為です。
- これも「報復」とは異なり、緊急避難的な現実的措置として認められるべきです。
報復に関するより深い理解を
日本の一部にはレフ・トルストイ(1828~1910)やマハトマ・ガンジー(1869~1948)の「無抵抗主義」という言葉を非常に尊重する傾向が見受けられるように思いますが、正確には「非暴力的抵抗運動」あるいは「非暴力不服従」です。「無抵抗」と「非暴力的抵抗」とは字面だけで相違が容易に推測できるでしょう。「無抵抗」では何も好転しないということは前提になっているのです。こう考えてみると日本社会の思想的土壌の談大から、報復に対する理解を広げる必要がありそうに思えます。
報復ということを本当に止めさせたいのであれば、そもそも発端となるような肉体的・精神的な暴力、不当な攻撃、根拠なき差別の方を先に絶滅させなければなりません。これが現実的には不可能であることは十二分に承知しているからといって、それに続く報復の方に注目・注力するというのは、やはり考え方や手順としてピントがズレています。
「発端」を生んだ人や組織を止めるには、言論や実力行使で納得させる必要があります。往々にして「発端」を生むような人や組織は、社会性などの理性が未熟なことがあり、(TBSドラマより)「倍返し」くらいの苦痛を与えて初めて実感して納得するのかもしれません。報復を責めるよりは発端を責めるべきであるということを、忘れないようにしたいものです。