AirLand-Battleの日記

思い付きや素朴な疑問、常識の整理など、特段のテーマを決めずに書いております。

「そんなことを聞いてるんじゃない!」は禁句

 私たちは、日々のコミュニケーションの中で、質問と回答というやり取りを繰り返しています。何かを知りたいとき、疑問を解消したいとき、私たちは言葉を紡ぎ、相手に問いかけます。それに対し、相手は何らかの答えを返してくれる。しかし、時折、このシンプルなはずのやり取りが、不快な感情を生み出すことがあります。それが、「そんなことを聞いてるんじゃない!」という返答です。

 質問者が投げかけた問いに対し、回答者が何らかの返答をした際、質問者がその答えを否定し、時に罵倒してくるこの状況。一見すると、回答者の理解力不足や的外れな回答が原因のように思えます。しかし、本質的にこの問題の根源は、発信者、つまり質問者自身にあると考えるべきではないでしょうか。これからの日本社会においては、「そんなことを聞いてるんじゃない!」という言葉は禁句とし、質問者こそがコミュニケーションの成否に対して第一の責任を負うという認識が、新たな常識となるべきだと常々考えています。

 

なぜ「そんなことを聞いてるんじゃない!」が生まれるのか

 この不幸な(そして無分別な、不用意な、身勝手な)言葉が生まれる背景には、いくつかの要因が考えられます。まず、根本的な原因のひとつとして挙げられるのは、質問の不明確さです。質問者が自身の意図や背景、本当に知りたい情報を明確に言語化できていない場合、回答者はどうしても表面的な情報や自身の解釈に基づいて答えるしかありません。曖昧な言葉、不足した前提情報、広すぎる質問範囲などは、回答者を迷わせ、結果的に質問者の意図と異なる答えを生み出すことなります。

 次に、質問者の思い込みも大きな要因です。「これくらい言わなくても分かるだろう」「当然、この文脈ならこの意味で捉えるはずだ」といった安易な思い込みは、質問者と回答者の間に認識のずれを生じさせます。特に、上下関係が根強い日本社会においては、上位者が下位者に対して無意識のうちに前提知識を共有していると思い込んでしまう傾向があるかもしれません。

 さらに、感情的な質問も問題を引き起こします。怒りや焦りといった強い感情を伴った質問は、往々にして論理的な構成を欠き、真に問いたいことが曖昧になりがちです。回答者は質問の感情的な側面に気を取られ、本質的な意図を見誤る可能性が高まります。

 

回答者に「汲み取る努力」は必要か?

 もちろん、コミュニケーションは一方通行ではありません。回答者が質問者の言葉の表面だけでなく、その背景や意図を理解しようと努める姿勢は重要です。言葉の裏にある真意を推察したり、不足している情報を補足するために質問をしたりする努力は、より円滑なコミュニケーションには不可欠でしょう。

 しかし、「汲み取る努力」はあくまで補助的な役割であるべきです。もし質問者の発信があまりにも不明確であったり、前提が共有されていなかったりする場合、回答者が過度な推測や解釈に頼ることは、さらなる誤解を生むリスクを高めます。また、「汲み取る努力」という言葉は、ともすれば発信側の責任を曖昧にし、不明瞭な質問を許容する言い訳になりかねません。

 

発信者責任という新たな常識

 これからの日本社会においては、コミュニケーションにおける第一の責任は、明確に発信する側、つまり質問者にあるという認識を共有すべきです。なぜなら、質問者は自らの疑問や知りたい情報を最もよく理解している主体だからです。その主体が、相手に意図を正確に伝える努力を怠るならば、コミュニケーションの失敗は必然と言えるでしょう。 発信者責任を前提とした場合、質問者は以下の点を心がける必要があります。

  • 明確な言葉で質問する:  曖昧な表現を避け、具体的かつ分かりやすい言葉で問いかけることが重要です。
  • 必要な背景情報を提供する:  回答者が質問の意図を理解するために必要な前提情報や文脈を丁寧に伝える必要があります。
  • 質問の範囲を絞る:  広すぎる質問は回答者を困惑させるため、焦点を絞った質問を心がけるべきです。
  • 感情的な表現を避ける:  冷静かつ論理的に質問することで、回答者は質問の本質に集中しやすくなります。
  • 相手の理解度を確認する:  質問後、相手が自分の意図を正しく理解しているかを確認する姿勢が大切です。

 

日本社会の構造と発信者責任

 日本社会には、依然として上下関係や忖度といった文化が根強く残っています。このような環境下では、下位の立場にある者は、上位の者に対して質問をしたり、不明な点を指摘したりすることに躊躇しがちです。そのため、上位の立場にある発信者こそ、より一層、明確で丁寧なコミュニケーションを心がける責任があると言えるでしょう。

 「そんなことを聞いてるんじゃない!」という言葉は、ともすれば上位者が自身の不明瞭な発信を棚に上げ、下位者の理解力不足を責めるための「誤魔化し」「責任転嫁」となりかねません。このような言葉が横行する社会は、建設的な対話を阻害し、誤解や不信感を生み出す温床となるでしょう。

 

発信者責任がもたらす未来

 発信者責任という考え方が社会の常識となれば、コミュニケーションの質は飛躍的に向上するはずです。まずは質問者が、相手に分かりやすく伝えるために思考を整理し、言葉を選ぶようになります。それを受けて回答者は、明確な質問に対して、的確かつ効率的に答えることができるようになります。

 その結果、職場においては、無駄な手戻りや誤解が減少し、生産性の向上につながるでしょう。教育現場においては、生徒は安心して質問できるようになり、深い理解を促すことができます。日常生活においては、人々はよりスムーズに意思疎通を図り、人間関係を円滑に築くことができるようになるはずです。

 「そんなことを聞いてるんじゃない!」という言葉は、過去の遺物となるべきです。これからの日本社会に必要なのは、お互いの理解を深め、より良いコミュニケーションを築こうとする姿勢です。そのためには、まず発信する側が自らの責任を自覚し、明確かつ丁寧な情報伝達を心がけること。それが、成熟した社会への第一歩となるでしょう。

 私たちは皆、発信者であり、受信者でもあります。だからこそ、まずは自らが発信する言葉に責任を持ち、相手に誤解なく伝わるように努めること。その小さな一歩が、より快適で円滑なコミュニケーションが実現する社会へと繋がっていくと信じています。