2025年3月、京都大学の柏原正樹特任教授に“数学のノーベル賞”とも呼ばれる「アーベル賞」を日本人として初めて授与されることに決まり、報道されました。代数解析学における「D加群の理論」を確立された業績に対して、ということですが、残念ながら私には偉大さが分かりません。なにはともあれ日本人が数学の世界で貢献できたことを共に慶賀したいと思います。
とはいえ、こうして世界的な顕彰制度に日本人が選ばれたときにだけ話題になるのも、何か小市民的なさもしさを感じます。どこのだれであれ、科学や芸術などで世界的・歴史的に大きく貢献した人や組織があれば、その名と業績を理解しつつ敬意を払うべきでしょう。
では日本人の授賞者がいなくても、毎年アーベル賞やノーベル賞の授賞者とその業績を案内する報道があったら見聞きするかというと、それも需要が非常に限られそうです。それでも誰かに手掛けて欲しいものですね。(ん?誰もやらないのであれば、このブログで手掛けるか?それには流石に力不足か...)
さて今日の本題は、ノーベル賞やアーベル賞といった世界的な顕彰制度について調べてみたいと思います。これらの賞は、人類の進歩や文化の発展に大きく貢献した個人や団体を表彰する、非常に名誉あるものです。しかし、その一方で、時には受賞を拒否する人が現れることも事実です。顕彰制度を設立する側の純粋な願いと、それを受け取らない側の揺るぎない信念について、じっくりと考えていきましょう。
顕彰制度を設立する側の願い
まず、ノーベル賞を始めとする顕彰制度は、どのような思いや願いによって設立されたのでしょうか。その根底には、人類の進歩を願い、貢献した人々を称えたいという、温かい眼差しが存在すると言えるでしょう。以下のような要素が複雑に絡み合い、顕彰制度は、単なる賞以上の、人類の進歩と幸福を願う設立者たちの深い愛情と希望の証と言えるでしょう。
1. 偉大な功績への敬意と称賛:
顕彰制度の最も基本的な動機は、歴史に名を刻むような偉大な功績を成し遂げた人々への深い敬意と、惜しみない称賛の念です。アルフレッド・ノーベルの遺言にあるように、「人類に最大の貢献をした人々」に栄誉を与えることで、その功績を未来永劫に称え、後世の人々の模範としたいという願いが込められています。
2. 分野の発展を願う手助け:
顕彰は、単なる過去の功績への報酬ではなく、未来への投資でもあります。受賞者の業績が広く知られることで、その分野への関心が高まり、若い世代の研究者や活動家を刺激し、新たな挑戦へと駆り立てる力となるでしょう。また、賞金が研究資金や活動資金として活用されることも、分野全体の発展を力強く後押しします。
3. 人類の幸福への貢献という世界観:
多くの顕彰制度は、科学技術の発展だけでなく、平和の推進や文化の創造といった、人類の幸福に直接的に貢献した業績を重視しています。ノーベル平和賞はその象徴であり、科学分野の賞も、最終的には人々の生活を豊かにしたり、社会の課題解決に繋がる発見や発明を表彰する傾向があります。設立者たちは、自身の財産や理念を通じて、より良い世界を築くという明確な世界観を持っているのです。
4. 未来へ繋ぐ歴史を紡ぐ:
顕彰は、重要な業績を過去の出来事として閉じ込めるのではなく、歴史の中にしっかりと刻み込み、未来へと語り継ぐための架け橋としての役割も担っています。受賞者の名前や業績は、それぞれの分野の歴史における重要なマイルストーンとなり、学術的な系譜や知識の伝承に貢献します。
5. 設立者の情熱と信念:
ノーベル賞におけるアルフレッド・ノーベルの平和への強い願い、アーベル賞におけるニールス・ヘンリク・アーベルの数学への情熱など、顕彰制度には設立者自身の個人的な理念や価値観が色濃く反映されています。彼らは、自身が重要だと考える価値観を社会に広め、後世に受け継いでいきたいという、熱い情熱と固い信念を持っているのです。
栄光の褒賞を拒む矜持
しかし、このように素晴らしい理念に基づいて設立された顕彰制度に対して、時には受賞を拒否する人が現れます。それは、一見すると理解しがたい行為かもしれません。彼らは一体どのような価値観や理由に基づいて、栄誉ある褒賞を拒むのでしょうか。
1. 個人の信条と哲学
- 謙虚さという名の美徳: 真に偉大な業績を成し遂げた人物の中には、名誉や賞賛を求めず、自身の研究や活動そのものに絶対的な価値を見出している場合があります。彼らにとって、賞を受け取ることは自己顕示欲の表れと捉えられ、自身の謙虚さという信条に反する行為となる可能性があります。
- 世俗的な評価への静かなる反抗: 社会的な評価や権威に対して懐疑的な考えを持っている場合、そうした権威から与えられる賞を受け取ることに抵抗を感じることがあります。彼らにとっては、自身の内なる信念や真理の探求の方が、外部からの一時的な評価よりも遥かに重要なのかもしれません。ジャン=ポール・サルトルのように、いかなる公的な栄誉も拒否するという一貫した哲学を持つ人物もいます。
2. 政治的・社会的なメッセージ
- 権力構造への批判という名の行動: 賞を授与する団体や国、あるいはその背景にある政治体制やイデオロギーに反対の立場をとっている場合、その賞を受け取ることは自身の信念を裏切る行為となると考えることがあります。レ・ドゥク・トーのように、平和賞を受賞しながらも、真の平和が実現していない状況を理由に拒否する例は、強い政治的メッセージを社会に投げかけました。
- 不正義への抵抗という名の叫び: 受賞することで、自身が問題視している社会的な不正義や抑圧、差別といった問題から目を背けることになるのではないかという強い懸念を持つ場合があります。受賞拒否は、そうした問題に対する沈黙の拒否という、力強いメッセージとなり得ます。大江健三郎氏がエルサレム賞を辞退した背景には、エルサレムという都市が持つ複雑な政治的・宗教的な経緯への深い配慮がありました。
3. 賞のあり方への疑問
- 対象範囲や基準への異議という名の提言: 特定の分野に限定された賞であったり、選考基準が自身の価値観と異なる場合、その賞を受け取ることに違和感を覚えることがあります。彼らは、賞が真に価値ある業績を公平に評価しているのかという根源的な問いを投げかけているのかもしれません。
- 選考プロセスの透明性への要求: 選考過程に不透明さや偏りを感じた場合、その賞の正当性を認められないと考えることがあります。グリゴリー・ペレルマン氏のように、数学界の商業主義や不誠実さを批判し、フィールズ賞を拒否した例は、科学における純粋さの重要性を強く訴えかけました。
4. 個人的な経験とプライバシー:
- 過去の傷跡という名の記憶: 過去に特定の組織や権威から不当な扱いを受けた経験がある場合、そうした組織が関わる賞を受け取ることに強い抵抗感を覚えることがあります。個人的な経験は、時に世間からの賞賛よりも重い意味を持つことがあります。
- 静寂への希求という名の選択: 単に公の場に出ることを好まなかったり、注目を浴びることを避けたいといった個人的な理由から、受賞を辞退する場合があります。ピエール・キュリーも、当初は研究に没頭したいという強い思いから、受賞に消極的な姿勢を示しました。
5. 連帯という名の絆:
- 連帯という名の下で共同研究を進めてきた仲間やグループの一人が受賞した場合、自身だけが賞を受け取ることに抵抗を感じることが人もいます。梶田隆章氏がブレイクスルー賞の賞金をグループに寄付した行為は、個人の名誉よりも共同研究の重要性を重視する、日本的な連帯意識の表れと言えるでしょう。
顕彰する側の苦悩と進化
顕彰する側にとって、受賞拒否は決して望ましい出来事ではありません。彼らは、受賞者の業績を認めることで、設立当初の理念や目的を達成しようとしているからです。受賞拒否は、その理念や努力が受け入れられなかったと感じさせ、失望や落胆を招く可能性があります。また、権威ある賞であればあるほど、受賞拒否は賞全体の権威や意義の低下に繋がりかねません。
しかし、近年では、顕彰する側も受賞者の意思を尊重する傾向が強まっています。事前に受賞の意向を確認したり、受賞理由を丁寧に説明したり、授賞式への欠席に対して柔軟に対応したりするなどの対策が見られます。また、受賞拒否の理由が社会的な問題提起である場合、対話を通じて理解を深めようとする姿勢も重要になっています。
結び
顕彰制度は、人類の進歩に貢献した人々を称える、輝かしい栄誉です。しかし、その光を受け取るかどうかは、個人の価値観や信念、そして社会との関わり方によって大きく左右されます。受賞拒否という行為は、時に私たちに、真の価値とは何か、栄光とは何かを深く考えさせる事件となるでしょう。
今回、顕彰制度の設立側の善意と、それに対する受賞拒否という行為の背後にある価値観についてそれぞれ考察することで、顕彰や褒賞の意味、そして人間の多様な生き方について、より深く理解することができたものと思います。