今年(2025年)は芸能関係の不祥事が続いたためにテレビCMを見送るスポンサー企業が続出し、TBSなどでは顕著にACによるCMが増える時期がありました。ACのCMといえば、個人的に記憶に残っている印象的なものがあります。
「自分の子供なのに、愛し方が分からない。
まず、子供を抱きしめてあげてください。
それはあなたにもできる、言葉を越えた、愛情表現です。」
今から20年以上も前の2003年、公共広告機構(現:ACジャパン)が放送したこの30秒ほどのCM「抱きしめる、という会話」を覚えているでしょうか?子育てに悩む親の心象風景が静かに描かれ、その後に続くナレーションは、多くの人の心に深く刻まれました。当時は、核家族化が進み、地域社会のつながりも薄れ始めた時期。子育てに孤立感や不安を抱える親が増えていました。このCMは、そんな社会の潜在的な課題に光を当て、「抱きしめる」というシンプルながらも強力なメッセージを通じて、親子の愛情表現の重要性を私たちに教えてくれたのです。
スキンシップの科学
このCMがなぜこれほどまでに響いたのか、そこには科学的な根拠があります。人間にとって、スキンシップは単なる身体的接触以上の意味を持つからです。
親が子供を抱きしめたり、頭をなでたりする行為は、子供の脳内に「愛情ホルモン」や「絆ホルモン」と呼ばれるオキシトシンの分泌を促します。このオキシトシンは、親子の間に強い愛着を形成し、子供に安心感と信頼感をもたらすことが分かっています。幼少期に十分なスキンシップを受けて育った子供は、将来的に他者と安定した人間関係を築きやすくなる傾向があるのです。
さらに、スキンシップは子供のストレスホルモン(コルチゾールなど)を減少させ、情緒を安定させる効果も期待できます。これにより、子供はストレスに強く、自己肯定感を高め、新しい挑戦への意欲も湧きやすくなります。脳の健全な発達を促し、学習能力の向上にも寄与すると言われています。そして、この効果は子供だけでなく、親にも及びます。スキンシップは親自身のストレス軽減や幸福感の向上につながり、より一層子供への愛情を深めることにも繋がる、まさに良いこと尽くしの行為なのです。
このスキンシップがもたらすポジティブな効果は、親子関係に限ったものではありません。恋人や夫婦間でのハグや手をつなぐ行為も、オキシトシンを分泌させ、互いの信頼関係や絆を強化します。不安やストレスを和らげ、幸福感を高める効果も期待できます。言葉だけでは伝えきれない感情を伝え、関係性を深化させる非言語的なコミュニケーションとしても機能するのです。
現代の子育ての課題
しかし、この温かいメッセージが響く一方で、現代の子育てには依然として厳しい現実があります。特に、「しつけ」と称して子供に暴力をふるう親、特に男性による深刻な児童虐待のニュースは後を絶ちません。この背景には、複雑な要因が絡み合っています。
核家族化が進み、地域社会のサポートが希薄になった現代では、親は孤立しやすく、子育てに関する知識や経験を得る機会が限られています。自身の育った家庭で体罰を受けていた場合、それが唯一の「しつけ」の方法だと誤って認識し、虐待が世代間で連鎖してしまうケースもあります。また、親自身の精神的な不安定さ、育児や経済的なストレス、夫婦関係の不和なども、感情的な爆発や暴力に繋がってしまう原因となり得ます。
そして、「子供にどう接すればいいか分からない」という親の戸惑いが、虐待の引き金となることも少なくありません。言葉でうまく伝えられない苛立ちや、子供への一方的な期待が裏切られたと感じた時の失望感が、暴力へとエスカレートしてしまうのです。特に、男女平等が進み、男性も育児参加を求められる現代において、具体的な子育てスキルを持たないまま手探りで参加することが、かえって親子の関係に歪みを生じさせる可能性も指摘されています。
こうした状況を解決するために不可欠なのが、「ペアレンティング・プログラム」です。これは、親が子供と効果的に関わり、健全な親子関係を築くための具体的な知識やスキルを学ぶためのプログラムです。
ペアレンティング・プログラムで学べる具体的なスキル:
- 効果的なコミュニケーション: 子供の気持ちに寄り添って耳を傾けるアクティブリスニングや、非難ではなく自分の気持ちを伝える「私メッセージ」、具体的な行動を褒める言葉かけなど。
- 肯定的な行動の強化: 子供の良い行動や努力を具体的に認め、褒めることで、自己肯定感を高め、望ましい行動を促す方法。
- 問題行動への対処: 感情的にならずにルールを設定する限界設定、感情が高ぶった時に落ち着かせるタイムアウトなど、感情的な叱責ではない効果的なしつけ方。
- 感情のコントロール: 親自身がストレスや怒りの感情に適切に対処するアンガーマネジメントや、子供の感情を受け止める共感スキル。
- 発達段階の理解: 子供の年齢に応じた発達段階を理解し、適切な期待値を持つことで、親の過度な期待やストレスを防ぎます。
日本では、ペアレント・トレーニングやトリプルP(Positive Parenting Program / 前向き子育てプログラム)など、様々なペアレンティング・プログラムが普及しつつあります。これらは主に、子育て支援センター、児童相談所、NPO法人などが提供しており、孤立しがちな親が学び、他の親と繋がる貴重な場となっています。
しかし、これらのプログラムが公教育で必修化される動きは、残念ながら現状ではありません。カリキュラムの圧迫や指導者の確保、また「親になること」の強制感といった課題があるためです。しかし、将来親になる可能性のある若者への子育て教育の重要性は、引き続き議論されるべきテーマであり、家庭科教育などでのより実践的な内容の導入が望まれます。
家庭から社会へ
親子のスキンシップがもたらす「安心感」「信頼感」「相手への肯定的な感情」といった根源的な効果は、何も家庭内だけに留まるものではありません。これらの価値観や理解は、社会の中の様々な組織、例えば職場、学校、地域コミュニティなどでも大いに役立ちます。スキンシップが難しい場では、その代替となる「非言語的コミュニケーション」や「心理的安全性」を意識することが重要です。
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肯定的(ポジティブ)なフィードバックと承認:
- 親子関係で子供の良い行動を具体的に褒めるように、職場では同僚や部下の具体的な貢献や努力を認め、褒めることが重要です。「よくやったね」だけでなく、「〇〇のデータ分析、とても分かりやすかったよ」と具体的に伝えることで、相手は自身の価値を認識し、モチベーションを高めます。
- 結果だけでなく、その人の存在自体を肯定的に受け止める「いつもありがとう」「助かっているよ」といった言葉は、相手に安心感と所属意識を与えます。
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傾聴と共感:
- 相手の話を真剣に聞き、その言葉の裏にある感情や意図を理解しようと努めるアクティブリスニングは、組織内の信頼関係を築く上で不可欠です。うなずきやアイコンタクト、そして「~ということですね?」と確認する行為は、「あなたの話を真剣に聞いている」というメッセージを伝え、相手への関心と受容を示すことができます。
- 困難を抱えている相手に対して、「それは大変だったね」と共感を示すことで、孤立感を和らげ、より深い信頼関係を築くことができます。
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心理的安全性:
- 子供が親に守られていると感じて安心して挑戦できるのと同じように、組織内でも「自分の意見や疑問を表明しても、バカにされたり罰せられたりしない」という心理的安全性が必要です。これにより、メンバーは臆することなく意見を出し、助けを求め、新しい挑戦をすることができます。リーダーが率先して弱みを見せたり、質問を歓迎したりする姿勢が、この心理的安全性を育みます。
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適切な距離感と尊敬:
- 親子関係で子供の成長に合わせて適切な距離感を保つように、組織内では、相手の個性や価値観、パーソナルスペースを尊重し、不必要に踏み込まないことが重要です。
- メンバーの自律性を尊重し、マイクロマネジメントを避けることは、信頼関係を築き、個人の成長を促します。
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透明性と一貫性:
- 組織の目標や方針、決定プロセスを可能な限り透明にすることで、メンバーは組織への信頼感を持ちやすくなります。
- ルールや対応に一貫性を持たせることで、予測可能性と安心感が生まれ、公平性が保たれます。
家庭での温かい親子関係の構築を目指す中で培われるこれらのコミュニケーションスキルや価値観は、私たちが社会の中で他者と協調し、より良い関係を築くための普遍的な原理であると言えるでしょう。2003年のあのCMが私たちに与えてくれた「愛の表現」というメッセージは、形を変えながらも、現代社会のあらゆる場面で、人間関係を豊かにする力を持っているのです。私たちは、この「愛の表現」の重要性を忘れずに、それぞれの場所で実践していくことが求められています。