AirLand-Battleの日記

思い付きや素朴な疑問、常識の整理など、特段のテーマを決めずに書いております。

「喧嘩両成敗」の有効性

 「喧嘩両成敗」について、皆さんはどのように理解ししているでしょうか? 誰もが一度は聞いたことがあるこのフレーズは、日本の古き良き時代から受け継がれた、普遍的な知恵のように響くかもしれません。あるいは「イジめられる方も悪い」とか「ダマされる方も悪い」といった理不尽な判定として受け止められるでしょうか?

 この言葉が持つ本当の意味と、それが現代社会においてどのように解釈され、適用されるべきなのかを深く掘り下げていくと、伝統的な知恵と現代の価値観との間に横たわる、やや複雑な相違です。

 

伝統の知恵「喧嘩両成敗」とは?

 まず、「喧嘩両成敗」という言葉のルーツと、その伝統的な意味について考えてみましょう。この言葉は、文字通り「喧嘩した両方を成敗する」、つまり、争いに関わった双方に何らかの罰を与えるというものです。直感的に考えれば、喧嘩の発端を作った方が悪いに決まっていると感じるかもしれません。では、なぜこのような考え方が、古くから日本に根付いてきたのでしょうか?その背景には、いくつかの理由が考えられます。

1. 争いの泥沼化を防ぐための現実的な解決策

 かつての日本では、個人間の争いがコミュニティ全体の大きな揉め事に発展するリスクがありました。特に武士の時代には、些細な小競り合いが血で血を洗う対立へとエスカレートする可能性をはらんでいたのです。このような状況で、どちらか一方を「善」、もう一方を「悪」と決めつけることは、残された側からのさらなる反発を招き、争いがいつまでも終わらない泥沼状態を作り出す恐れがありました。そこで、両者ともに責任を認めさせ、罰することで、その場での事態収拾を促し、争いをこれ以上大きくしないという目的があったとされます。これは、閉鎖的なコミュニティにおいては、非常に現実的で有効な解決策だったと言えるでしょう。

2. 真相究明の困難さと集団の和の優先

 また、喧嘩や口論の真相を究明することは、現代のように客観的な証拠収集が容易ではなかった時代において、非常に困難なことでした。どちらが先に手を出したのか、どちらが先に侮辱的な言葉を投げかけたのか、当事者の言い分は食い違うことがほとんどです。このような状況で、完璧な事実認定をすることは不可能に近く、無理に一方に責任を押し付けることで、かえって遺恨を残すことにもなりかねませんでした。

 そのため、「お互いに悪い部分があった」として両者に一定の責任を負わせることで、集団全体の和を優先し、コミュニティの安定を図るという考え方が採られたのです。これは、個人の感情や権利よりも、集団の秩序が重んじられた当時の社会構造を色濃く反映しています。

3. 争いを起こすこと自体への抑制効果

 「喧嘩をすれば、たとえ自分に言い分があったとしても、自分も罰せられる」という認識が広まることで、人々が安易に争い事を起こすこと自体を抑制する効果も期待されました。無用な争いごとを避け、平和を保つための規範として、「喧嘩両成敗」は機能していたと言えるでしょう。

 このように、「喧嘩両成敗」は、特定の歴史的・社会的背景の中で生まれた、当時の人々にとっての合理的な「知恵」だったのです。それは、現代の私たちから見れば一見不公平に見えるかもしれませんが、当時の社会が直面していた課題に対する、ある種の解決策だったと言えるでしょう。

 

現代社会における「喧嘩両成敗」の危険な乱用

 しかし、時代は移り変わり、社会の価値観も大きく変化しました。現代社会において「喧嘩両成敗」の考え方を安易に適用することは、極めて危険であり、深刻な問題を引き起こす可能性があります。

 現代社会では、個人の人権の尊重法治主義、そして何よりも公平性正義が重視されます。明確な被害者がいる場合や、力関係に不均衡がある状況での「喧嘩両成敗」は、正当な言い分や合理的思考を無視し、一方的な加害行為を黙認することに繋がりかねません。

 ご指摘の通り、学校の教師や一部の裁判官が、いまだにこの「喧嘩両成敗」の価値観に縛られているかのように感じられることがあります。彼らが相対的に上位の立場から、生徒や紛争当事者を「軽い存在」と見なし、その間で生じる争いもまた「軽微なもの」として捉えているが故に、安易な「両成敗」が適用されるのではないか、という懸念は、決して的外れではありません。

 この安易な適用が引き起こす、現代社会の具体的な歪みを見てみましょう。

1. いじめ問題の隠蔽と被害者の孤立

 学校現場におけるいじめ問題は、その最たる例です。教師が子どもたちの間のトラブルを「双方に原因がある」「どちらも悪かった」と一括りにしてしまうことで、いじめの本質を見逃し、被害生徒を孤立させ、問題の長期化・深刻化を招くことになります。いじめは、一方的な加害行為であり、そこには明確な被害者と加害者が存在します。両成敗の原則を適用することは、加害行為を矮小化し、被害者の訴えを軽視する行為に他なりません。結果として、「いじめ問題など無い」という発表に繋がる可能性も否定できません。

2. 司法における不公正な判決と社会の不信

 司法の場においても、当事者の複雑な背景や力関係を無視した「両成敗」的な判決は、素人目にも不公正に映り、社会の司法への信頼を揺るがしかねません。法律は、個人の権利と義務を明確にし、公正な社会秩序を維持するためのものです。曖昧な「両成敗」の精神で判決を下すことは、法の原則に反し、真の解決には繋がりません。信頼を失った司法社会では、その遵法精神は低下してゆく懸念があります。

3. ハラスメント問題への誤った対処

 職場でのハラスメント(パワーハラスメント、セクシャルハラスメントなど)も同様です。上司と部下、先輩と後輩など、明確な力関係が存在する中で発生したトラブルを「双方に問題があった」と両成敗的に処理することは、ハラスメントの本質を見誤り、被害者をさらに苦しめることになります。ハラスメントは、一方的な加害行為であり、被害者の人権を侵害する深刻な問題です。

 

真相究明と公正な判断・対処こそが現代の基本

 これらの問題が示すのは、「喧嘩両成敗」が現代社会において、安易に乱用できる価値観ではないということです。現代において求められるのは、争いの真相を粘り強く、そして丁寧に究明することです。

 当事者双方の言い分に耳を傾け、客観的な証拠を丹念に集め、誰にどのような責任があるのかを明確にすること。そして、その上で、被害者がいる場合にはその救済を最優先し、加害者に対しては然るべき責任を負わせるという、短期かつ適切な判断と対処を下すことこそが、現代社会における争いごとの解決の基本であるべきです。

 もちろん、些細な口論や、お互いに感情的になってしまい、明確な被害が生じていないようなケースで、「お互いに反省しよう」と促すことは、人間関係の円滑化に役立つ場面もあるでしょう。しかし、それはあくまで限定的な状況であり、決して「喧嘩両成敗」の原則を全面的に肯定するものではありません。

 

「常識」の転換を求める

 私たちは、「喧嘩両成敗」が単なる「伝統的な知恵」であり、現代の複雑な人間関係や社会問題に対しては不適切であるという認識を、社会全体の「常識」として確立する必要があります。教師や裁判官といった、社会の規範を司る立場にある人々には、この古い価値観から脱却し、常に公平性、正義、そして個人の尊厳を基盤とした判断を下すことが強く求められます。

 無用な争いを抑制することの重要性は言うまでもありません。しかし、それは決して、不当な行為を見過ごしたり、被害者の声を封じ込めたりすることによって達成されるべきではありません。争いの本質を見極め、真相を究明し、公正な判断を下すという、現代社会にふさわしい解決のあり方を、私たちは常に追求していかなければならないのです。

 皆さんは、この「喧嘩両成敗」について、どのように考えますか? ぜひ、皆さんのご意見も聞かせてください。