「スピリチュアル」という言葉を聞くと、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?もしかしたら、怪しいセミナーや、現実離れした非科学的な話を連想するかもしれませんね。しかし、実はこの「スピリチュアル」という概念は、私たち人間の健康や幸福を考える上で、非常に重要な鍵を握っています。
今回は、世界保健機関(WHO)が健康の定義に「スピリチュアル」を含めることを議論した背景から、その真の意味、そして日本における「霊性」という概念や、社会背のある理性的な議論の必要性まで、考えていきましょう。
WHOの健康定義と「スピリチュアル」をめぐる議論
1948年に定められたWHOの憲章では、健康は「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」と定義されています。これは、単に身体的な健全さだけでなく、心の状態や社会とのつながりも健康に不可欠であるという、画期的な視点でした。
しかし、時は流れ、1980年代になると、WHOではこの健康定義に第4の側面、すなわち「スピリチュアル」な側面を加えるべきではないかという議論が持ち上がります。特に1998年には、アラブ圏の理事国からの強い提案があり、「スピリチュアル」の追加が本格的に検討されました。
なぜ、WHOは「スピリチュアル」という、一見すると個人的な、あるいは宗教的な概念を、全世界共通の健康定義に含めようとしたのでしょうか?
その背景には、以下のような深い洞察があります。
- 健康概念のさらなる拡大: 病気でない、心も安定している、社会とつながっている。これだけでも十分に思えますが、それでもなお、人生の意味や目的、生きがいを見出せない、漠然とした苦悩を抱える人がいることが明らかになってきました。特に、終末期医療や緩和ケアの現場では、身体的な苦痛や精神的な落ち込みとは異なる、「魂の痛み」とでも呼ぶべき苦悩、すなわちスピリチュアル・ペインの存在が認識され始めたのです。
- 「薬では解決できない」苦悩: スピリチュアルな苦悩は、脳の機能不全による「精神疾患」とは異なり、薬だけで解決できるものではありません。それは、自己の存在意義や、死への向き合い方、人生の価値といった、より根源的な問いに関わるからです。
- 多様な価値観への配慮: WHOは、世界中の多様な文化や宗教、価値観を尊重する国際機関です。「スピリチュアル」という言葉は、特定の宗教に縛られることなく、人間に共通する普遍的な「内面の充足」や「意味の探求」を指し示す概念として、その重要性が議論されました。
結局、健康の定義に「スピリチュアル」が正式に追加されることはありませんでしたが、この議論自体が、健康を単なる生物学的・心理学的側面からだけでなく、人間の「存在」全体として捉えようとするWHOの姿勢を明確に示しました。
「スピリチュアル」の意味と多様な評価
では、WHOが議論した「スピリチュアル」とは、具体的にどのような意味合いを持つのでしょうか?そして、それが世界各地、特に日本でどのように受け止められているのかを見ていきましょう。
「スピリチュアル」と「霊性」
WHOの文脈で用いられる「スピリチュアル(Spiritual)」は、特定の宗教信仰を指すものではありません。最も適切に日本語で表現するならば、それは「霊性(れいせい)」と訳されることが多いです。「霊性」とは、以下のような側面を包括する、人間の普遍的な本質を指します。
- 人生の意味と目的: 自分自身の存在意義や、何のために生きるのか、人生において何を大切にするのかという問いに対する認識。
- 自己受容と自己超越: ありのままの自分を受け入れ、さらに自分を超えた大きな存在や、普遍的な価値観とのつながりを感じること。
- 希望とレジリエンス(回復力): 困難な状況においても希望を見出し、精神的に立ち直る力。
- 他者や自然、宇宙とのつながり: 個人が孤立するのではなく、他者や社会、自然、あるいはより大きな存在(神、宇宙の法則など)とのつながりを感じ、調和を求める感覚。
- 道徳的・倫理的な価値観: 自身の行動や生き方を導く道徳的・倫理的な原則を持つこと。
これらは、宗教的な信仰を持つか否かに関わらず、すべての人間に共通する「心のあり方」や「生き方の指針」であり、これらが満たされてこそ、真の健康と言える、というのがWHOの考え方です。
世界における多様な受け止め方
アラブ圏からの提案
WHOの議論で「スピリチュアル」の追加を強く提案したのはアラブ圏の理事国でした。イスラム教をはじめとする宗教が生活の根幹にある地域では、信仰と精神的な充足が健康に不可欠であるという考えが深く根付いています。そのため、彼らにとって「スピリチュアル」は、健康の定義に含めるべき当然の要素だったのです。
西欧諸国の評価
一方、西欧諸国では近年、伝統的な宗教離れが進んでいるという指摘もあります。しかし、これは必ずしも「スピリチュアル」なものへの関心の低下を意味しません。
- 医療現場での導入: 西欧の緩和ケアやホスピスでは、スピリチュアル・ペインへのケアが非常に重視されています。宗教的なチャプレン(病院付き牧師)が常駐し、患者の「魂の痛み」に寄り添うことが一般的です。これは、宗教離れが進んでも、人が死に直面した際に抱く、人生の意味や価値に関する根源的な問いに応える必要があるという認識に基づいています。
- 非宗教的なスピリチュアリティ: 多くの西欧の人々は、特定の宗教組織に属さなくとも、瞑想、マインドフルネス、自然体験、ボランティア活動などを通じて、個人的な「スピリチュアリティ」を探求しています。これは「Spiritual But Not Religious(宗教的ではないがスピリチュアル)」、略してSBNR層と呼ばれ、この層の増加は、宗教の枠を超えた「霊性」へのニーズが高まっていることを示唆しています。
- 法治国家と人権、そして人命: 西欧の法治国家では、個人の尊厳を保障する基盤として「人権」が重視されます。医療においては、患者の自己決定権(インフォームド・コンセント)がその中心です。しかし、「人権」だけでは捉えきれない、生命そのものの「人命」の尊厳、すなわちその人が生きる意味や価値といった深い側面があります。「スピリチュアル」を健康の条件に加えることは、単に身体的な生命を維持するだけでなく、その人が「人間らしく生きる」こと、人生に意味を見出し続けることを支援するという、「人命」の価値をより深く尊重する**視点と言えるでしょう。
日本の「霊性」と「人命」
日本もまた、特定の宗教への帰属意識が薄い人が多い社会です。しかし、八百万の神の思想や祖先崇拝など、曖昧で包括的な「霊性」の土壌は古くから存在します。
- 緩和ケアでの重要性: 日本でも、がん医療における緩和ケアの進展に伴い、身体的・精神的苦痛だけでなく、「霊的苦痛」(スピリチュアル・ペイン)への対応が不可欠であると認識されるようになりました。多くの緩和ケア病棟では、多職種連携による全人的ケアの一環として、この「霊性」への配慮がなされています。
- 「人命」の尊厳の再認識: 日本社会でも、「人命」の尊厳は深く意識されていますが、終末期において患者が「生きる意味が見いだせない」と感じる「スピリチュアル・ペイン」は、QOL(生活の質)を著しく低下させます。このような時、単に命を延ばすだけでなく、その人が「生きがい」や「価値」を感じて人生を全うできるよう支えること、すなわち「人命」が持つより深い意味を尊重する視点が、スピリチュアルケアの根底にはあります。これは、法治国家の基盤である「人権」を尊重しながらも、さらにその奥にある人間の尊厳、つまり「生きる意味」や「存在価値」を支えるという、極めて重要な視点と言えるでしょう。
日本において理性的に議論するために
しかし、日本では「スピリチュアル」という言葉が、残念ながら一部の非科学的な商売や洗脳事件などと結びつき、「怪しい」「いかがわしい」といったネガティブな偏見に晒されてきました。この偏見を乗り越え、理性的に「スピリチュアル」の概念を理解するためには、社会全体での啓発と議論が不可欠です。
1. 医療・福祉分野からの信頼できる情報発信
最も重要なのは、科学的根拠に基づいた情報の発信です。
- 専門学会によるガイドラインと提言: 日本緩和医療学会や日本スピリチュアルケア学会などの専門団体が、スピリチュアルケアの定義、目的、具体的な実践方法、そして倫理的な配慮について、明確なガイドラインや提言を示しています。これらは、医療現場での質の高いケアを保証するだけでなく、一般の方々が「正しいスピリチュアルケア」とは何かを理解するための重要な資料となります。
- 学術機関や専門家による公開講座: 大学の医学部、看護学部、心理学部などが開催する公開講座やシンポジウムは、専門家から直接、スピリチュアルケアの学術的根拠や臨床での実践について学ぶ貴重な機会です。医師、看護師、心理士などが執筆する書籍や記事も、偏見のない理解を助けます。
- 用語の明確化: 「スピリチュアル」という言葉が持つ誤解を避けるため、「霊性」「全人的ケア」「人生の意味の探求」など、より普遍的で具体的な言葉で説明し、その本質的な意味を伝える努力が続けられています。
2. メディアを通じた意識改革
社会全体の意識を変えるためには、メディアの役割が非常に大きいです。
- 質の高いドキュメンタリーや特集記事: 緩和ケア病棟での患者や家族、医療従事者のリアルな姿を描くドキュメンタリー番組や、スピリチュアル・ペインに寄り添うケアの現場を丁寧に取材した特集記事は、視聴者や読者の心に深く響き、偏見を和らげる効果があります。特に、いかがわしさとは無縁の、人間的な温かさや尊厳を重視するケアの側面を強調することが重要です。
- 専門家による解説とコラム: 識者によるコラムやインタビュー記事を通じて、世間で誤解されている「スピリチュアル」と、医療・福祉現場で本当に重視される「霊性」や「スピリチュアリティ」との違いを明確に解説することで、理性的な理解を促します。
- 多様なスピリチュアリティの紹介: 特定の宗教に限定されない、自然との触れ合い、芸術、ボランティア活動など、日常生活の中で育まれる多様なスピリチュアリティが、人々の心の健康や幸福にどう寄与するかを紹介することも有効です。
3. 教育現場での取り組みと市民レベルでの対話
次世代を育む教育の場と、地域社会での対話も欠かせません。
- 生命倫理教育の充実: 学校教育の中で、生命の尊厳、死生観、他者との共生といったテーマを扱う際に、非宗教的な意味での「霊性」の側面を組み込むことで、若い世代が健全な価値観を育むことができます。
- 医療・福祉専門教育の深化: 医療・福祉系の専門教育では、スピリチュアルケアに関するカリキュラムをさらに充実させ、未来の医療従事者が患者の深いニーズに適切に応えられるよう、実践的なスキルと倫理観を養う必要があります。
- 市民参加型ワークショップの開催: 終活セミナーや死生観に関するワークショップなど、一般市民が自身の人生の意味や価値について考え、語り合う機会を増やすことも有効です。このような場は、個人的なスピリチュアリティを探求し、互いの理解を深める助けとなります。
「霊性」を理解し、より豊かな社会へ
WHOが「スピリチュアル」を健康の定義に含めることを議論した背景には、身体や心の健康だけでなく、人間の根源的な「存在意義」や「意味の探求」こそが、真の幸福に不可欠であるという深い洞察があります。
日本において「スピリチュアル」という言葉が持つ偏見は、残念ながら根深いものです。しかし、医療・福祉の現場では、「霊性」という言葉で、その重要性が認識され、患者さんの「人命」の尊厳を支えるケアとして実践されています。
このブログ記事が、皆さんが「スピリチュアル」、すなわち「霊性」について、より理性的な視点から理解を深めるきっかけとなれば幸いです。そして、お互いの「霊性」を尊重し、語り合える社会へと一歩を踏み出すことが、私たち一人ひとりの、そして社会全体の豊かなウェルビーイングにつながるはずです。