私たちは日々、何気なく器を手に取り、口に運びます。その一つひとつの所作には、狩猟採集時代から受け継がれた知恵や美意識、そして文化の物語が宿っています。今回は、一見異なる食文化を持つ日本とフランスに共通して見られる「持ち手のない器」という伝統から、それぞれの文化が大切にしてきた根源的な価値を見つめ直してみたいと思います。
持ち手のない器が語る、日本の「根源的な美」
私たち日本人にとって、お茶碗やお椀、湯呑みなど、ほとんどの食器に持ち手がないことはあまりに自然なことです。しかし、この「当たり前」の背後には、私たち日本人の感性の奥底に流れる、奥深く野趣あふれる文化のルーツが隠されています。
この伝統の起源は、はるか狩猟採集時代にまで遡ると言われています。当時の人々が食器として使っていたのは、身近にあった葉っぱや木の皮、割った竹や木材といった自然素材でした。これらのシンプルな素材に、わざわざ複雑な持ち手をつけるという発想自体がなかったでしょう。食事は、自然の恵みをそのままの形で享受する、まさに根源的な行為でした。
そして、その後の日本の食文化の発展とともに、この持ち手のないスタイルは、私たちの食習慣に深く根付いていきます。(しかし、外国人にはしばしば奇異に映るようです。)
まず、日本の食事作法として特徴的なのは、器を手に持ち上げて食べることです。温かいごはんのお茶碗、出汁の効いたお味噌汁のお椀。これらを両手で包み込むように持ち、口元に運び、温かい湯気を吸い込みながら、心地よい重みと肌触りを感じる――これは、単に食事をするという行為を超え、器と一体となり、食べ物への感謝を五感で味わう、豊かな体験なのです。持ち手がないからこそ、器の形状や素材の感触、温かさが手のひらにダイレクトに伝わり、食べ物と自分との隔たりがなくなるかのような感覚を与えますます。
また、日本の美意識の根幹をなす茶道の文化も、持ち手のない器の普及に大きく貢献しました。茶碗を両手で丁寧に持ち、その形や釉薬の表情、手触りまでもを鑑賞する。これは、器そのものを芸術作品として見つめ、その中に込められた作り手の魂や自然の風景を感じ取る、日本ならではの美意識の象徴です。持ち手がないことで、茶碗の造形美が余すことなく際立ち、より深くその世界に没入することができます。
さらに、生活の知恵としても、持ち手のない器は優れていました。限られた空間を有効活用する日本の家屋事情において、積み重ねて収納できるという実用性は非常に重要でした。持ち手がないことで、デッドスペースが生まれず、効率的な収納が可能です。
このように、日本の持ち手のない食器は、単なる機能的な選択ではなく、狩猟採集時代からの自然との一体感、両手で器を包み込むことによる五感を通した充足感、そして精神的な美意識が結びついた、私たち日本人が誇るべき固有の文化であり、その根源的な魅力を今に伝えるものなのです。
フランスの「カフェオレボウル」に宿る、豊かな朝の情景
一方、海を隔てたフランスでは、ナイフとフォーク、スプーンを使い、持ち手のある器で食事をするのが一般的です。しかし、そんなフランスの食文化の中で、ひときわ異彩を放つのが、伝統的な「カフェオレボウル」です。この大きな持ち手のない器は、フランスの朝の食卓には欠かせない存在であり、そこには日本人とは異なる、しかしどこか通じる「根源的な心地よさ」が宿っているように感じられます。
カフェオレボウルの起源は、19世紀以前にフランスの家庭で使われていた「スープボウル」だと言われています。当時のフランスでは、朝食にスープにパンを浸して食べる習慣がありました。そこにコーヒーが普及するにつれ、このスープボウルに温かいカフェオレをたっぷりと注ぎ、バゲットやブリオッシュを浸して食べるというスタイルが定着していきました。スープボウルには元々持ち手がなく、その流れでカフェオレボウルもまた、持ち手のない形が自然と受け継がれていったのです。
フランス人がカフェオレボウルを手に取る様子は、まるで日本人がお茶碗を持つ姿に似ています。両手でボウルを優しく包み込み、温かいカフェオレの熱を手のひらに感じる。そして、その大きな口径の器に浸されたパンの香りが、湯気とともに立ち上る――これは、フランス人にとって、忙しい一日が始まる前の、心と体を温め、落ち着かせる大切な「儀式」なのです。
ナイフとフォークを使ってスマートに食事をこなすフランス人ですが、朝のカフェオレボウルを前にすると、まるで肩の力が抜けたかのように、素朴で飾り気のない表情を見せます。この瞬間、彼らはきっと、温かい飲み物とパンがもたらすシンプルな充足感、そして両手で器を包み込むことによる安心感を無意識のうちに求めているのではないでしょうか。それは、彼らの文化の中にある、根源的で人間的な感情への回帰なのかもしれません。精緻なテーブルマナーとは異なる、素朴で直接的な感覚。そこにフランス人の豊かな感性と生活への愛着を感じ取ることができます。
いや、ひょっとするとカフェオレボウルを使うと狩猟採集時代の記憶や感覚に、無意識のうちに触れているのではないかとも思っています。畏るべしカフェオレボウル。
また一点だけ余談になりますが、私自身が生まれて初めて「カフェオレ」という言葉を知ったのは、ポプラ社の怪盗ルパン全集にある一冊(タイトルは失念してしまいました)の中の一場面でした。そこにはコーヒーにミルクと「香料」を加えたものという、括弧書きの説明があったはずです。そのため今でも、コーヒーにミルクを加えただけのものは「カフェラテ」であって、「カフェオレ」を名乗るにはバニラやアーモンド、シナモンといった「香料」が必須だと信じています。
異なる文化、通じ合う心
このように、日本の持ち手のない食器とフランスのカフェオレボウルは、その起源や背景は異なりますが、両手で器を包み込み、温かさや感触を直接感じ取るという共通の所作を通じて、私たちに根源的な心地よさや安心感を与えてくれるという点で深く通じ合っています。
日本の食器が語るのは、自然との調和、五感を大切にする美意識、そして日常の所作に宿る精神性です。そこには、遥か昔の祖先から受け継がれた、素朴で力強い文化の息吹が感じられます。私たちはこの固有の文化を誇り、次世代へと受け継いでいくべきでしょう。
一方で、フランスのカフェオレボウルは、洗練された食文化の中に息づく、温かく人間的な日常の喜びと、質素な中に見出す豊かな感性を教えてくれます。彼らが大切にする朝のひとときは、まさに生活の豊かさを象徴する光景であり、その文化への深い敬意を抱かずにはいられません。
遠く離れた二つの国の、一見些細な「持ち手のない器」という共通点。それは、異なる歴史や環境の中で育まれたそれぞれの文化が、しかし根源的なところで「心地よさ」や「豊かさ」の感覚を共有している証拠なのかもしれません。器が語る物語に耳を傾けることで、私たちは自らの文化の奥深さを再認識し、同時に他文化への理解と敬意を深めることができるでしょう。私たちの手のひらに宿る温かさは、文化を超えて、心と心をつなぐ架け橋となるのです。