AirLand-Battleの日記

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「一利を興すは一害を除くにしかず」の普及委員会

 現代の社会や企業組織は、常に「新しい何か」を求められます。「社会問題の解決のための新制度を」「売上を伸ばせ」「新規事業を立ち上げろ」。現代は常に「足し算」の方策で動いています。

 しかし、古代の賢人たちは、こうした「足し算」の先に疲弊と混乱が待っていることを知っていました。彼らが口を揃えて説いたのは、「引き算」の強さです。

 今回は、モンゴル帝国を支えた文官の一人、耶律楚材(やりつそざい 1190~1244)の座右の銘を元に、日本の戦国武将、武田信玄の統治哲学も紐解きながら、なぜ「一利を興すは一害を除くにしかず」という抑制的かつ本質的な思想が、現代の政治や経営においてこそ採用すべき原則でありながらも、定着しにくい原則であるのかを考察したいと思います。

 

Ⅰ. モンゴル帝国を救った「引き算の政治哲学」

 13世紀、モンゴル帝国の建国者チンギス・ハンとその子オゴデイ・ハンに仕えた契丹人の文官、耶律楚材のは以下の言葉を座右の銘としていたそうです。

「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生やすは一事を減らすにしかず」 (興一利不如除一害、生一事不如減一事) 【元史・巻146耶律楚材伝】  

 これは、短期間に巨大な領域を征服したモンゴルに対し、略奪や皆殺しではなく、持続可能な統治の重要性を説くために有用だったのでしょう。

 

🔸 言葉の核心

  1. 「一利」より「一害」の除去

    • 新しい利益(一利)の創出は、往々にして初期投資とリスクを伴います。

    • それよりも既にある害悪(一害)、すなわち過度な税制、腐敗した慣習、人道的な問題などを取り除く方が、民の安定と信頼という確実な基盤を築くことができる。これは、土台が腐っていては、いくら華美な上物を建てても崩れるという真理を示しています。

  2. 「一事」の増加より「一事」の削減

    • 新しいルールや事業、役所仕事(一事)を増やすことは、組織を複雑化させ、やがて機能不全を引き起こします。

    • 無駄な事柄(一事)を減らすことで、リソースを本当に必要な業務に集中させ、組織を身軽で効率的に保つことができます。

 

🔸 禅の精神の継承

 耶律楚材は熱心な仏教徒(禅宗)であり、この思想には禅の「無」や「放下」(執着を捨てる)の精神が深く反映されています。華美で一時的な「利」や「事」への執着を捨て、本質的な弊害の除去に注力するという抑制的な哲学は、彼の実務的かつ穏健な政治姿勢の基礎となりました。また、この抑制的な思想は、父である耶律履からの家訓に由来するという説も存在し、彼ら漢民族エリート層の共通認識であった可能性を示唆しています。

 

Ⅱ. 戦国の智将も同じ真理を知っていた

 この「減らす統治」の哲学は、時代と場所を超えて、別の偉大な統治者にも共有されていました。その一人に日本の武田信玄(1521~1573)も挙げることができるでしょう。

 

信玄の「法度が多い国は滅びる」論

 武田信玄は、他国の状況を探らせた際、「あの国は新しい法度(法令)が次々と発布され、条文の数が多い」という報告を受けました。信玄はこれを聞き、「その国の為政者は優秀ではない。あの国は長くは持たないだろう」と断言したと伝えられます。

 

🔸 信玄が洞察した本質

  1. 法令は対症療法である: 法令が多発するのは、現場で問題や不正が次々と発生している証拠であり、統治者がその根本原因を解決できていないことの裏返しです。優秀な統治者は、民や家臣の心を治め、道徳を確立することで、法令に頼らない秩序を築きます。

  2. 法は社会を疲弊させる: 複雑で多すぎる規制や法令は、民衆や企業(当時の商人・農民)の活動を制限し、経済的な活力を削ぎます。法が多ければ多いほど、社会は身動きが取れなくなり、その国は衰退に向かいます。

 この逸話は、新しい制度(一事)を増やすことが、むしろ統治の未熟さを示すバロメーターであるという、耶律楚材の思想と一致しています。実際に、信玄が定めた分国法『甲州法度之次第(信玄家法)』も、非常に簡潔で実務的な内容で知られています。

 

Ⅲ. なぜ「減らす論理」は現代社会で定着しないのか

 耶律楚材や武田信玄の知恵は、現代の規制緩和(2対1ルール)や業務効率化の議論につながる考え方でしょう。にもかかわらず、企業や行政で「減らす」施策が主流になりにくいのはなぜでしょうか?

 規制緩和策として一時的に導入された「2対1ルール」(新しい規制を1つ作るなら、既存の規制を2つ廃止する)のようなアイデアは、この思想を簡単に具現化したものですが、根付く前に頓挫しがちです。

 しかしこの普及を阻む三つの障壁があるようです。

 

1. 心理的・評価的な障壁

  • 視認性と評価の困難さ: 「一利を興す」(新規事業の売上や成長)は、数字で明確に評価できます。しかし、「一害を除く」(例えば、トラブルの未然防止や業務ミスの削減)は「何もしなかったこと」として現れるため、成果として目立ちにくく、昇進や報酬に結びつきにくい。

  • 現状維持バイアス: 人は、慣れ親しんだ既存の仕組みや権限(一事)を手放すことに強い抵抗感を覚えます。それが不要な無駄だとわかっていても、「減らす」ことは失敗や権力の縮小と結びつきやすいからです。

2. 組織的・構造的な障壁

  • 加算主義と予算主義: 組織において「成長」は、しばしば予算と人員の増加(一事を生やす)と同一視されます。新しいプロジェクトや部署は予算を要求できますが、無駄を削る部署には予算がつきにくいという構造的なジレンマがあります。

  • 縦割り組織: 本当に大きな「一害」(例えば、複雑な承認プロセスやシステム連携の不備)は、複数の部署にまたがって存在します。これを「除く」ためには、部署間の権限と責任の調整が必要となり、責任の押し付け合いが発生して改革が進まなくなります。

3. 日本特有の文化的背景

  • 「努力の美徳」と「手間の肯定」: 日本では、手間をかけること、汗を流すことを美徳とする文化が根強く残っています。「無駄を減らす」ことは、時に「手抜き」や「努力の不足」と批判されがちです。

  • 集団的な不安: ハンコや過剰な書類といった「一事」は、「これがないと不安だ」「手順を踏まないと責任が取れない」という組織全体の不安によって温存され、非効率なプロセスが固定化されやすい土壌があります。

 

今こそ「引く力」をトップダウンで評価せよ

 耶律楚材の教えは、「本質的なシンプルさが永続的な力となる」ことを教えてくれます。現代の組織がこの偉大な原則を取り戻すには、単なる精神論ではなく、評価基準の抜本的な改革が必要です。

  1. 「減らす力」の評価: 業務を削減し、規制を廃止し、不必要なプロセスを解消した従業員や管理職に対し、新規事業の成功に匹敵する、あるいはそれを上回る明確な報酬と評価を与える。

  2. リーダーシップによる断行: 現場の慣習や抵抗を押し切ってでも、「一害」や「一事」を断つトップダウンの強いリーダーシップが不可欠です。

 新しい「利」を追い求めるのは容易ですが、既存の「害」と「事」のしがらみを断ち切るのは、勇気と哲学が必要です。

 最強の統治とは、多くの法令や事業を誇ることではなく、必要最低限のルールで国民が自発的に安定すること。 この歴史の知恵を、私たちは今こそ真剣に胸に刻むべきではないでしょうか。