AirLand-Battleの日記

思い付きや素朴な疑問、常識の整理など、特段のテーマを決めずに書いております。

もうひとつの孫子! 孫臏の新しい本を待望

 古代中国の兵法書「孫子13篇」に関しては、現代日本において数多くの解説本が出版されています。これは今後も継続しそうな印象ですが、背景に何があるのかと簡単に推察してみるに、

  • 先の大戦の日本に戦略や戦術の面で合理性が乏しかったという反省、ひいては現代の競争社会においても日本人を多くの場面で不幸にしている精神主義偏重への反省が永く課題となっていること。
  • 戦略論や組織論を学習するにあたって、広汎かつ簡潔手短な古典の教えなので取り組み易いこと。

ざっとこうした背景になっているのではないでしょうか。

 (いやそれにしても、中国古典をずっと偏愛するよりも現代の軍事組織運営か欧米で定評のある経営学について、一般会社員向けに簡潔に解説できないものだろうかとも思います。)

 

 さて、数多くの孫子の関連書籍を数年間にわたって興味を以って手に取っていると、個人的には段々面白味が薄くなったと感じます。歳をとって感受性が低下したから、というのが半分の理由で、残り半分は出版の多い割に解説の切り口や対象読者層がお決まりになっていて内容に新鮮味が無いためでしょう。

 その一方で「こういう孫子解説本が読みたいなぁ」と(これも個人的に)以前から待望しているのが「孫臏兵法」の解説本です。

 何冊か孫子の解説本を読んだことがある方なら、「孫子」には”呉の孫武”と”斉の孫臏”という二人の孫子がいたことはご存じでしょう。「孫子13篇」を書いたのは果たしてどちらなのか?というのが、頻繁に解説論点として登場します。(結局はどちらでもなく、二冊ともそれぞれ後世の弟子達が編纂したもののような気がします。)ところが「孫子13篇」とは別にもう1冊、別の内容の「孫子」が1972年に発掘されており、日本でも解説本が既に出版されて、わたしの手元には古本で入手した以下の2冊があります。

  • 「孫臏兵法」 徳間書店 (1976/2/10発行) 村山孚(1920~2011)・
  • 孫臏兵法 もうひとつの『孫子』」 筑摩書房 (2008/10/10発行) 金谷治(1920~2006)・訳+注   『孫臏兵法 : 銀雀山漢墓竹簡』東方書店(1976/7/20発行)を底本として文庫化。

 「なんだ、もう出版されているのであればいいでしょ?」と思った方もおられることでしょう。また、後続の出版がほとんど無かったということは、あまり人気が無かったのかもしれません。たしかに孫臏兵法といわれても、普通は題名の「臏(ピン)」が読めない上に、発掘された竹簡の損傷が激しく、何か所も判読不能であったため、訳文を読んでもなお文意を掴めきれないところが残っていたので、不満を感じる読者がいたのかもしれません。(わたしなどはかえってこれで史料に向かい合う研究者の困難な現実や古代史料の散逸問題の一端に触れることで楽しめましたけれど....。)

 とはいえなにせ上記の2冊は共に出版が1976年なのです。間違いなく現在では、出版当時は不明だった文字の解読や語順の整理などが中国の研究者の努力によって進展しているに違いありません。こうした最新の学術研究に基づく解説本は、孫子好きの多い日本に提供されてしかるべきと信じます。おそらく今後のゲームや小説のためのネタ本としても重宝されることでしょう。

 ただし「なんでも評論家」による安直な内容や浅薄な解説ならがっかりです。村山や金谷のような定評ある中国思想研究者による和訳と詳細な解説こそが長期的に価値の高いものになるに違いありません。さらに「孫子派」の理解のためのマニアックな解説も望まれます。構成としては最初の章で(村山本にある「解題」ように)初心者を含む読者に豊富な事前知識を提供し、続いて「原文(白文)」、「読下し(書き下し)」、「語意」、「訳文」、「補足・解説」を揃えてほしいと思います。そして「孫子13篇」との連続性や独自性に関する分析、批判も必要になります。さらには要所要所で陸上自衛隊の元幹部による現代との比較解説などがあれば面白くなりそうです。ざっとこれくらいの構成と内容ならば、日本の辛口の孫子好きにも歓迎されることでしょう。

 待っていればきっといつの日にか.....

 

 

以下は、「おまけ」として作ったまとめ資料です。ご参考まで。

参考:孫子関連の年代データ

紀元前515年 呉王・闔閭が孫武を宮中に呼び出して兵法を問う逸話。

紀元前342年 馬陵の戦い。斉軍が孫臏の計略により、龐涓の率いた魏軍に大勝。

紀元前1??年 (この頃に銀雀山で兵法書などが墓に副葬された事あり。)

西暦  23年 漢王朝の蔵書目録『七略』を父とともに整理した劉歆が死去。

        七略には「呉孫子兵法」と「斉孫子兵法」の2本が記録されていた。

西暦 220年 『魏武帝註孫子』の注釈者である魏王・曹操が死去。

        ここで引用のため整理された13篇が現代に至るまで底本となる。

西暦 735年 717年の第9次遣唐使・吉備真備が帰朝。(第12次にも派遣。)

        吉備が最初に孫子を日本へ持ち込んだというのが定説です。

西暦1072年 武経七書が武官登用試験「武挙」の必須科目に制定。

        「孫子13篇」がこの七書に含まれていた。

西暦1797年 代表的な10人の注釈を集めた『十家孫子会注』を孫星衍が編集。

西暦1972年 山東省臨沂市銀雀山で『孫臏兵法』などの古代の兵法書が発掘。

 

Wikipedia「孫子」にある13篇の概要

計篇 - 序論。戦争を決断する以前に考慮すべき事柄について述べる。
作戦篇 - 戦争準備計画について述べる。
謀攻篇 - 実際の戦闘に拠らずして、勝利を収める方法について述べる。
形篇 - 攻撃と守備それぞれの態勢について述べる。
勢篇 - 上述の態勢から生じる軍勢の勢いについて述べる。
虚実篇 - 戦争においていかに主導性を発揮するかについて述べる。
軍争篇 - 敵軍の機先を如何に制するかについて述べる。
九変篇 - 戦局の変化に臨機応変に対応するための9つの手立てについて述べる。
行軍篇 - 軍を進める上での注意事項について述べる。
地形篇 - 地形によって戦術を変更することを説く。
九地篇 - 9種類の地勢について説明し、それに応じた戦術を説く。
火攻篇 - 火攻め戦術について述べる。
用間篇 - 「間」とは間諜を指す。すなわちスパイ。敵情偵察の重要性を説く。

 

村山本と金谷本を参照して”ど素人”が作成した「孫臏兵法」30章の概要

 上記のWikipediaにあった「概要」を真似て記述しましたが、ど素人ゆえの誤解や錯誤が含まれているはずですので引用や転載はご遠慮ください。

 章名に括弧”[ ]”がついている9か所は、中国の発掘・整理チームによって設けられたものということです。

【上篇】

擒龐涓 - 桂陵の戦いで勝利し、魏の軍師・龐涓を捕虜にした「囲魏救趙」の故事。

[見威王] - 斉の威王との初会談で、徳治主義でなく現実的な軍備体制の必要性を説く。

威王問 - 威王から9問、将軍・田忌から7問、窮地に陥った場面の対応策を解答。

陳忌問塁 - 堅塁や城郭が無い野戦での防備態勢について田忌から質問されて解答。

簒卒 - 軍事組織における人事適性や組織運営、君主との関係などの要点を挙げる。

月戦 - 戦争は時季を選んで確実に成果を得るようにし、長期連戦は避けるべき。

八陣 - 将たる者に求められる資質や心得と、兵器や地形などに応じた陣地の配備方法。

地葆 - 行軍や陣地に関して、地形による有利不利の説明。

勢備 - 陣立てと遠距離射撃、騎馬・船団、白兵戦の4件の使い分けについて解説。

[兵情] - 硬く重厚になった矢尻が兵卒。強く正確に撃つ弓が将軍。その射手が君主。

行簒 - 君主は人材登用に努め、誠実で公平な統治をすることが戦時への備えとなる。

殺士 - 必死に戦う兵士を養成すべき。

延気 - 兵士の戦意を維持高揚させるための方策。

官一 - 具体的な隊内統制策、布陣の選択、敵情偵察など行軍の多くの要点を短く列挙。

[強兵] - 軍備強化策に統一見解が無い、との威王の困惑に、経済力こそが重要と返答。

 

【下篇】

十陣 - 方陣や錐行陣、雁行陣など10種の陣形について、配置や戦闘方針を解説。

十問 - 敵軍と自軍が対峙する10種の状況において、攻略方法を解説。

略甲 - (史料の損壊が激しく詳細不明。十陣と十問に続く乱戦時の戦略か?)

客主人分 - 侵攻軍(客)と防衛軍(主人)で同数なら防衛有利だが、集中と分散に注意。

善者 - 地形と進軍方向などを考慮して主導権を握り優勢に導くのが「善者」。

五名・五恭 - 軍隊の5種の雰囲気(五名)、5度の侵攻時の鎮撫と略奪(五恭・五暴)。

[兵失] - 敵の優位に当たる戦いや自軍の準備不足、優柔不断などの失敗例を短く列挙。

将義 - 将軍に求められる資質は義・仁・徳・信・智勝。(智勝とは戦法理解?)

[将徳] - (史料の損壊が激しく詳細不明。将軍に求められる徳目は温情や公平さ?)

将敗 - 将軍として不適格な資質や態度を短く20件列挙。

[将失] - 将軍として失敗を招く行動や組織の統制不足の事例を短く32件列挙。

[雄牝城] - 地理的条件から見て、攻略が困難な城(雄城)と可能な城(牝城)の説明。

[五度九奪] - 食糧や訓練など自軍の準備5種と、兵站や拠点など敵軍の攻撃目標9種。

[積疏] - 密集(積)は分散(疏)に対比優位で勝つ。他に盈虚、径行、疾徐、衆寡、逸労。

奇正 - 正攻法と奇策。老荘的な流転する自然や法家的な社会の安定秩序を述べる。

 

おまけのおまけ

 太極拳や少林拳、酔拳などは多くの人にとって聞き覚えのある中国武術の流派名だと思いますが、「孫臏拳」という名前の拳法が実際に伝えられているそうです。偉大な兵法家であった孫臏に仮託して命名したものなのでしょう。

 

追記 (2025年12月1日)

 先日、孫臏の兵法に部分的に触れている本を見つけました。しっかり理解するためには何度か読み直す必要を感じるものの、手に取って良かったと思います。

  • 「『孫子』の読書史」講談社 (2024/11/12発行)  平田昌司(1955~)著 「『孫子』 解答のない兵法」岩波書店(2009/4/17発行)を底本として文庫化

 この第Ⅱ部第三章で、孫臏兵法の「奇正」をキーワードとして論じています。広く流布されている「孫子本」のような、孫子に書かれている内容の解説を中心としたものではなく、より詳細な字義研究や他の思想書や兵法書との関係、古代からの伝承などなど、広い学術研究に触れることのできる本です。