これぞ「濫訴」。スラップ訴訟
近年、日本でも海外の動向と共に「スラップ訴訟(SLAPP訴訟)」という言葉が注目を集めています。英語で平手打ちことを「slap」と言い、ちょうどそうした意図を含んだ訴訟になっているのかもしれません。
しかし問題はよくある既存の名誉毀損訴訟ではないことです。その本質は、企業や権力を持つ側が、自身への批判的な意見を封じ込めるために、法的な手段を悪用する行為、すなわち「言論封じの裁判」です。
本来、民主主義社会において、公的な議論や権力への監視は不可欠です。しかし、このスラップ訴訟の存在が、市民の心に「訴えられたらどうしよう」という恐怖を植え付け、正当な発言や問題提起を諦めさせる「萎縮効果」を生んでいます。
今回は、スラップ訴訟がなぜ問題なのかを深掘りしつつ、日本の既存法における「濫訴防止」の考え方、そして、この新たな脅威に対抗するための海外の具体的な対策(反SLAPP法)について紹介したいと思います。
1. スラップ訴訟の定義と構造的な問題
SLAPPとは「Strategic Lawsuit Against Public Participation(公的参加を排除するための戦略的訴訟)」の略称です。
誰が、誰を、何のために訴えるのか?
司法制度の悪用ではないか?
スラップ訴訟の最大の問題は、訴訟という「正当な権利行使」という手段の裏で、民主主義の根幹である「表現の自由」を不当に制限するという目的が隠されている点です。原告側が持つ経済力と、被告側に強制される非対称な負担こそが、この制度悪用の核となっています。
2. 日本の法制度における「濫訴防止」の考え方
「濫訴」とは、訴訟制度の趣旨に反する、不当な目的や意図をもって訴えを提起することです。日本の法制度は、古くからこの濫訴を許さないという考え方(濫訴の法理)を内包しています。
既存法における濫訴防止の条文例
日本の法律には、直接「スラップ訴訟」という言葉はないものの、不当な訴訟提起を抑止するための規定が複数存在します。
(1) 民事訴訟法における濫訴に対する姿勢
民事訴訟法には、訴訟行為の信義則違反や、権利濫用といった概念で濫訴を排除する枠組みがあります。
民事訴訟法 第2条(信義誠実の原則) 裁判所及び当事者は、訴訟手続に関し、信義に従い誠実に行動しなければならない。
この「信義誠実の原則」は、訴訟提起が嫌がらせや不当な目的のために行われている場合、それが信義則に反するものとして裁判所が判断を下す根拠となり得ます。
(2) 不法行為に基づく損害賠償請求
さらに、訴訟提起そのものが不法行為にあたる場合は、提訴した側が逆に訴えられた側(被害者)に対して損害賠償をしなければならない、という法理もあります。
民法 第709条(不法行為による損害賠償) 故意又は過失によって他人の権利を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責に任ずる。
判例上、「訴えの提起が、相手方に不当な損害を与える目的で、かつ、訴訟物である権利の存在や勝訴の可能性について確信がないにもかかわらずなされた場合」には、この不法行為が成立し得るとされています。
なぜ既存法・現行法でスラップ訴訟を防ぎきれないのか?
これらの既存の法理があっても、スラップ訴訟が問題化するのは、以下の理由によります。
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動機立証の困難さ: スラップ訴訟は、形式上は名誉毀損など正当な訴訟類型をとっています。「言論封じが目的だ」という悪意を、訴訟の初期段階で裁判所が客観的に認定するのは極めて困難です。
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権利尊重の原則: 日本の司法は「裁判を受ける権利」を最大限に尊重するため、訴訟の提起を安易に却下することは、憲法上の権利を侵害する恐れがあるとして、非常に慎重にならざるを得ません。
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時間と費用の問題: 判決で不当性が認められても、それまでに被告が費やした数年間の時間と数百万円の弁護士費用は、原則として戻ってきません。スラップ訴訟の目的は、この「裁判の長期化と費用負担」を強制することにあるため、最終的な勝訴は防衛策として機能しにくいのです。
3. スラップ訴訟が問題視されるようになった社会背景
日本の法律自体に大きな改正があったわけではなく、問題の顕在化は社会構造とテクノロジーの変化が主因です。
(1) インターネットとSNSの普及
情報拡散のスピードと影響力が爆発的に増大しました。以前は大手メディアを対象としていた訴訟が、今や高い拡散力を持つ一般の個人(インフルエンサー、ブロガー、SNSユーザー)を標的にするようになりました。この結果、訴訟の標的となる層が多様化し、個人の経済的な負担が一気に深刻化しました。
(2) 公益追求活動の活発化
環境問題や消費者問題、内部告発など、市民団体や個人の「公的参加」が活発化しています。これに対し、不都合な事実を公にされた企業や団体が、説明責任を果たす代わりに、コストの高い訴訟で批判者を黙らせるという戦略を取るケースが増加しました。
4. 海外の対策事例:反SLAPP法の効果
スラップ訴訟の脅威にさらされてきたアメリカの一部の州やカナダなどでは、この問題を解決するために「反SLAPP法」という特別法を制定し、効果を上げています。
反SLAPP法の具体的な仕組みと効果
期待される社会的効果
反SLAPP法が機能することで、市民が訴訟のリスクを過度に恐れることなく、公的な問題について自由に意見を述べられる環境が整備されます。これにより、「萎縮効果」が解消され、報道や市民活動がより活発になり、健全な民主主義社会の維持に貢献します。
5. 求められる日本の法整備
スラップ訴訟は、単なる民事紛争ではなく、社会的な正義と民主主義の機能に関わる重大な問題です。
日本の現行法には「濫訴を許さない」という精神はありますが、現代の「言論封じ」という新しい形の司法の悪用に対しては、その仕組みが機能しきれていません。不当な訴訟で数年間にわたる経済的・精神的な苦痛を強いられた被害者の救済のためには、既存の法理に頼るだけでなく、海外の反SLAPP法を参考に、訴訟の動機や目的を初期段階で審査し、不当な訴訟を迅速に打ち切るための特別立法が強く求められています。