AirLand-Battleの日記

思い付きや素朴な疑問、常識の整理など、特段のテーマを決めずに書いております。

オールドメディアが消えたら困ること

 2025年の「流行語大賞」に「オールドメディア」という言葉が10点の候補のひとつに選ばれたことは、日本の情報環境における歴史的な転換点を象徴しているようです。かつてはお茶の間の中心にあり、世論を形作ってきた地上波テレビや全国紙ですが、それらは今や「古い仕組み」として揶揄され、その影響力は目に見えて低下しています。

 ちなみにほぼ同義語としてインターネット上でしばしば使われる「マスミ」という言葉も、もっと以前からありました。ちょっと調べた限りでは、2001~2003年ごろに広まった表現ということです。

 SNSやネットメディアの台頭は、情報の民主化をもたらしました。誰もが発信者になれる時代は、一見すると自由で風通しの良い世界に見えます。しかしあえて今、懸念点を提示したいと思います。もしこのまま「オールドメディア」が機能を失い、消滅してしまったら、私たちの社会には取り返しのつかない「副作用」が発生しそうに感じます。それは単に「新聞を読まなくなる」といった嗜好の変化ではなく、日本の民主主義を支えるインフラが根底から崩れる危険性にもつながりに思えています。

 

1. 物理的な「取材網」の断絶

 まず懸念されるのが、日本全国に張り巡らされた「取材網」の解体です。

 新聞社や放送局は、東京のビルの中にだけあるわけではありません。47都道府県、さらにはその先の小さな町や村、外国の主要都市にまで「支局」や「通信部」を置いています。これらは、日本の津々浦々に張り巡らされた「目」や「耳」のようなものです。

 例えば、大規模な災害が発生した際、SNSの情報は迅速ですが、同時にデマや断片的な情報が溢れます。一方で、現地に常駐している(ある程度は訓練された)記者は、その土地の地理や歴史を知り尽くした上で、官公庁の公式発表をはじめとした確実な裏付け(ファクト)を取って情報を吸い上げます。彼らがいるからこそ、私たちは「今、どこで、何が起きているのか」を客観的な事実として知ることができるのです。

 オールドメディアが低迷し、採算が取れない地方拠点が次々と閉鎖されれば、社会は「感覚器」を失います。過疎地で起きている悲鳴や、地方自治体の腐敗、そして災害時の初動情報。こうした「利益にはならないが重要な情報」が誰にも届かなくなる「情報の空白地帯」が、日本中に少しずつ広がることになります。

 

2. 「情報の翻訳者」がいなくなる

 次に、情報の「要約」と「検証」という機能の喪失です。

 日々、霞が関の省庁や大企業の会議室では、膨大な「一次情報」が発表されています。それらは往々にして難解な専門用語で塗り固められ、時に数百ページに及ぶ資料として提示されます。一般の市民が仕事の合間に、これらすべてを精読し、本質を見抜くことは不可能です。

 これまでメディアの記者は、いわば「専門的な翻訳家」の役割を果たしてきました。数時間の記者会見を傍聴し、当局者の曖昧な回答を厳しく追及し、私たちが知るべき「核心」を短く、分かりやすくまとめて提示してきたのです。

 もし、この「訓練されたフィルター」がいなくなれば、私たちは膨大な情報の濁流に直接放り出されます。すると何が起きるでしょうか。人々は内容を理解することを諦め、インフルエンサーによる「極端に簡略化された解説」や、刺激的な「切り抜き動画」に依存するようになります。そこには、発信者の意図的な偏向や、重要な文脈の欠落が潜んでいますが、一次情報を確認する術を持たない私たちは、それを「真実」として受け入れるしかなくなります。

 情報の「中抜き」は一見効率的ですが、実際には「情報の精査」という極めてコストのかかる作業を、私たち一人ひとりが背負わされることになり、結果として社会全体の判断力が低下するのです。

 

3. 日本語の劣化

 さらに深刻なのが、言葉の精度の低下です。

 プロのメディアには、記者の背後に「デスク」や「校閲」という、言葉の守り手がいます。彼らは、人名や地名の正確さ、文法の正誤、そして言葉が持つニュアンスの違い(例えば「遺憾」と「不満」の使い分けなど)などを、綿密にチェックし、テレビやラジオのアナウンサーは明瞭な声で読み上げてくれています。

 インターネット上の個人発信は、自由である反面、誤変換や語彙の貧困さ、論理の飛躍、聞き取り難い声が散見されます。これが主流になると、社会全体の「言葉の基準」が崩れていきます。言葉は思考の道具です。道具が錆び、形を失えば、私たちは複雑な事象を細やかに考えることができなくなります。

 「ヤバい」や「ムカつく」といった単純な感情語に集約される世界では、建設的な議論は育ちません。正確な言葉によって記録され、校閲された情報は、後世に歴史を伝える「アーカイブ」としての価値を持ちますが、濁った言葉で溢れたネットの海は、数十年後には意味をなさないゴミの山になっている可能性があります。

 

4. 本来あるべきジャーナリズムが消える

 最後に、ジャーナリズム論が最も危惧する「アジェンダ・セッティング(議題設定)」と「調査報道」の終焉について触れなければなりません。オールドメディアの傲慢さや偏向報道に対する国民の怒りがあるとはいえ、「報道の自由」の重要性をになう主役であるはずのジャーナリストが存分に働いてもらう社会風土があってしかるべきです。

 私たちは、新聞の1面や夜のニュースを見ることで、「今、この国ではこれが問題なんだ」という共通の認識を持ってきました。思想が違えど、同じ土台の上で議論ができました。しかし、オールドメディアが消え、各自がSNSのアルゴリズムに最適化された情報だけを見るようになれば、社会はバラバラに分断される危険性が高いのです。

 また、巨大な権力の不正を暴く「調査報道」には、膨大な時間と資金、そして裁判のリスクを背負う覚悟が必要です。これは、PV(アクセス数)を稼ぐことで広告収入を得るネットメディアには、構造的に不向きな仕事です。「誰も見ていないが、暴かれなければならない不正」を追う力。これが失われることは、権力に対する監視の目が消えることを意味します。

 

何を選択すべきか

 「オールドメディア」を笑い飛ばしたり、けなしたりするのは簡単です。しかし、その後に残る「情報の野蛮状態」に耐えられるほど、現代の日本社会は強くないと思っています。日本は今、情報の「質」を維持するためのコストを、どう支払っていくのかを問われていると言えるのではないでしょうか。