「五感」以外の感覚機能
私たちは子供の頃から、人間の感覚には「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」の5つ、いわゆる「五感」があると教わってきました。しかし現代の生理学においては、この分類はすでに過去のものとなりつつあります。
実は、人間の感覚機能は細かく分けると20種類以上に及ぶと言われています。例えば、目を閉じていても自分の腕がどこにあるか分かる「固有受容感覚」や、体の傾きを察知する「平衡感覚(前庭感覚)」、さらには体内温度や痛みの感知など、私たちは無意識のうちに多層的なセンサーを駆使して世界を捉えています。
その中でも、特に神秘的でありながら実在が証明されつつあると思っているのが、今回取り上げる「方位感覚」です。
「北」を感じる
2005年ごろ、ドイツのオスナブリュック大学で行われた「feelSpace」というプロジェクトは、世界中の科学者を驚かせました。被験者に「常に北を向くと振動するベルト」を装着させ、数週間生活してもらうという実験です。
結果は驚くべきものでした。最初は「腰に振動を感じる」という単なる外部刺激(触覚)として捉えていた被験者たちが、時間が経つにつれ、振動を意識しなくても「あっちが北だ」という感覚を、まるで自分の身体の一部のように直感的に把握できるようになったのです。
これは脳科学でいう「可塑性(かそせい)」、つまり脳が環境に合わせて自分を書き換える力の証明でした。触覚として入力された情報が、脳内で「空間認識」へと翻訳され、新しい感覚機能としてインストールされたのです。
人間の脳に潜む「磁気センサー」
「人間が方位を感じるなんて、超能力の類ではないか?」 そう感じる方も当然多いことでしょう。しかし、2019年の最新研究(東京大学やカリフォルニア工科大学のチームによる発表)では、人間の脳が地球の磁場に対して無意識に反応していることが科学的に示されているそうです。
渡り鳥やサケが持つような明確な「磁気受容体」は、現代の人間には退化して残っていないと考えられてきました。しかし、私たちの脳の深層には、太古の祖先がジャングルや大海原を移動するために使っていた「天然のコンパス」の機能が今も潜んでいるのです。現代生活においてその必要がなくなったため、使い方が分からなくなっているだけなのかもしれません。
「北」を知ったところでどうする?
方位磁石を見たり、スマホの地図アプリを開けば、自分がどこを向いているか一瞬で分かる現代において、自力で東西南北を知る必要性は、実利の面ではほとんどありません。しかし、ここには「人生の豊かさ」に関わる重要なポイントが隠されているように思えるのです。「視覚がもっと良ければなぁ」「あの人は味覚がなかなか鋭いな」などのように、生身の人間の五感の機能は、優れているのみ越したことはありません。
方位を意識するということは、自分を取り巻く「空間」を鳥の目(俯瞰的な視点)で捉え直す行為です。広く考えれば人間の可能性の追求の一端とも言えるでしょう。
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世界との繋がり: 「次の角を右」ではなく「東に向かって歩く」という意識は、自分を大きな地球というシステムの一部として再定義させます。
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認知能力の活性化: 方位を意識する訓練(ノースアップの地図を使う、太陽の影から方角を推測するなど)は、脳の「海馬」という、記憶や空間把握を司る重要な領域を刺激し、認知の衰えを防ぐと言われています。
原始的な感覚を磨き、人生を豊かにする
私たちは、便利なツールを手に入れた代償として、自らの身体が持つ鋭いセンサーを眠らせてしまっています。「五感」を磨く、あるいは五感の先にある「隠された感覚」を意識することは、解像度の高い世界を生きることに他なりません。
さて誰にでも今すぐ実践できるこの「隠された感覚の訓練方法」があります。
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アンカーを打つ: 家や駅を出る際、スマホを見る前に「北はどっちだ?」と指をさしてみる。
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脳内方位の更新: 曲がり角を曲がるたびに「今、西に向きが変わった」と心の中で呟く。
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地図を回さない: 地図アプリを「北が上」に固定して使う。
これだけの習慣で、数週間後には風景の見え方が変わります。混沌とした街並みが、秩序ある「空間」へと整理され、自分の立ち位置が明確になる感覚。それはまさに、自分の中に眠っていた「原始の力」が目覚める瞬間です。
東西南北を感じる能力は、決して一部の特別な人だけが持つ「超能力」ではありません。それは、私たちが人間として本来持っていた、世界と対話するための標準装備なのです。
効率ばかりを求める現代だからこそ、あえてこうした「原始的な感覚」を磨き直してみる。それは、ただ目的地に着くだけの移動を、世界を五感(あるいはそれ以上)で味わい尽くす「冒険」へと変えてくれるはずです。あなたの脳には、まだ見ぬセンサーが眠っています。明日の外出、少しだけ「北」を意識して歩き出してみませんか?