昨今、ニュースやSNSを開くと頻繁に目にする言葉があります。「ダイバーシティ(多様性)」と「ポラライゼーション(分断)」です。
一見すると、多様性を認めようというポジティブな動きが、なぜか激しい対立や社会のギスギスした空気、つまり分断を生んでいるように見えます。「多様性が大事だと言うけれど、そのせいで社会がバラバラになっているのではないか?」そんな違和感を抱いている方も少なくないでしょう。
今回は、この「多様化」と「分断」という一見矛盾する二つの現象について、概要をりかいできるように整理したいと思います。抽象的な道徳論ではなく、現代社会が今後も継続・発展できるような「生存戦略」として、この問題を考えてみましょう。
(以前に「『複雑系』と『多様化』:日本社会に潜むリスク」という題名で投稿したことがありますが、この難題に対するまた別の視点になります。)
1. なぜ「多様化」が必要なのか?
まず明確にすべきは、社会が多様化を目指すのは「それが正しいこと(善)だから」だけではない、という点です。もっと冷徹で合理的な理由があります。それは「集合知」によるリスク回避を想定しているからです。
認知科学の世界では、人間には「確証バイアス」という強力なバグがあることが知られています。これは、自分の信じたい情報だけを集め、都合の悪い情報を無視してしまう性質です。似たような教育を受け、似たような価値観を持つ人間だけで集団(同質的な集団)を作ると、このバイアスが互いに増幅され、全員が同じ死角を持つようになります。これを「集団浅慮(グループシンク)」と呼びます。
かつての右肩上がりの時代のように、正解が決まっている単純な社会なら、同質的な集団による「スピード感のある実行」が武器になりました。しかし、現代のように予測不能で複雑な課題が次々と現れる時代では、同質性は致命的な弱点になります。
ミシガン大学のスコット・ペイジ教授(「『多様な意見』はなぜ正しいのか」の著者)の研究が示す通り、「能力の高い均一な集団」よりも「そこそこの能力だが多様な視点を持つ集団」の方が、困難な問題に対して高い正答率を出すことが数学的に証明されています。多様性とは、社会というシステムが予期せぬショックで崩壊しないための「保険」であり、未知の課題に対する「探査能力」を高めるための投資なのです。
2. 「分断」はなぜ起きるのか?
多様性が合理的である一方で、なぜ「分断」という副作用がここまで深刻化しているのでしょうか。そこには、人間の本能的な性質と、現代のデジタル環境が引き起こした「最悪のミスマッチ」があります。
① 「内集団バイアス」という本能
人間は進化の過程で、自分の属するグループ(内集団)を愛し、それ以外(外集団)を敵視することで生き残ってきました。多様化が進み、自分の馴染みのある世界観が揺るがされると、脳はそれを「生存への脅威」と見なし、排他的な反応を示します。
② 「フィルターバブル」による情報の隔離
行動経済学的に見れば、現在のSNSアルゴリズムは分断の加速装置です。プラットフォーム側は、ユーザーを長く滞在させるために「その人が見たい情報」だけを優先的に表示します。結果として、私たちは「自分の意見が世界の正解である」という錯覚を強化し続ける「フィルターバブル」あるいは「エコーチェンバー」の中に閉じ込められます。
③ 「怒り」の経済性
ネット上では、冷静な論理よりも、怒りや恐怖を伴う過激な意見の方が圧倒的に拡散されやすい(約20%以上高いというデータもあります)ことがわかっています。対立が深まるほどプラットフォームの収益が上がるという、歪んだ構造がそこにはあります。
3. 「統制」なき多様性はカオスを生む
ここで重要な問いが生じます。「多様性が大事なら、どんな極端な意見や、法を無視するような存在も受け入れなければならないのか?」という点です。
結論から言えば、答えは「ノー」です。
哲学者カール・ポパー(1902~1994)が提唱した「不寛容のパラドックス」が教える通り、無制限な寛容は、最終的に「寛容を破壊しようとする不寛容な勢力」によって、寛容な社会そのものを自滅させます。多様性を維持するためには、その土台となる「共通のプロトコル(法、ルール、マナー)」を厳格に守るための「統制」が不可欠なのです。
システム理論で考えれば、多様な個体(個人)が互いに通信し、協力するためには、共通の通信規格が必要です。違法行為を働く層や、暴力で他者を屈服させようとする層は、この「規律(社会のOS)」そのものを破壊する存在です。
したがって、長期的利益としての「社会の安定(統制)」を維持するために、特定の極端な層を制限・排除することは、多様性を否定することではありません。むしろ、「安全に多様な意見が戦える場」をメンテナンスするための、必要不可欠なコストであると評価すべきです。
4. あらためて考えるべきコミュニケーションのルール
多様性の果実を享受しつつ、分断の毒に回らないために。これからの日本社会を生きる私たちが身につけるべき「具体的処方箋」を挙げてみましょう。
第一に、「メタ認知」のリテラシーを持つ
「自分は正しい」と思った瞬間に、「これは確証バイアスではないか?」と疑う習慣を持つことです。人間は構造的に間違える生き物である、という謙虚さを「知識」としてではなく「技術」として習得する必要があります。
第二に、「スティールマニング」を実践する
相手の意見を弱く見せて叩く「ストローマン(藁人形)」ではなく、相手の主張を一度自分の中で「相手以上に論理的で強力な形」に再構築(スティールマン:鉄人形)してみることです。その上で反論を試みる。このプロセスが、不毛な感情対立を建設的な議論に変えます。
反対意見を主張する人を「分かってないなぁ」と簡単に見下すのは間違いです。仮にその主張が低レベルに思えたり、誤解を含んでいるように聞こえたとしても、その背後にある価値観や問題点などを十分に推察して再確認するが求められます。
第三に、「共通の問い」を立てる
「AかBか」という属性の対立に陥ったとき、視座を一段上げ、「そもそも我々が解決すべき上位の課題は何だったか?」を問い直すことです。共通の敵を作るのではなく、共通の「解決すべきパズル」を持つことで、異質な存在は「敵」から「異なるパーツを持つ協力者」へと変わります。
整理してみれば常識的なこと
多様化とは、単に「みんな違ってみんないい」という甘い言葉ではありません。それは、異なる視点という「劇薬」を取り込み、社会の免疫力を高めるためのタフな戦略です。
そして、その戦略を成功させるためには、法やルールの尊重という「強固な統制」がセットでなければなりません。私たちは、自由を謳歌するためにこそ、その自由を支える枠組みを厳格に守る知性を持たなければならないのです。
「分断」が叫ばれる荒波の中で、本当になすべきことは、対立する相手を打ち負かすこと(「ハイ!論破!」というヤツ)ではありません。自分の頭の中にある「コミュニケーションのルール」をアップデートし、この複雑な世界を乗りこなすための新しいルールを、対話を通じて作り上げることなのです。