皆さんは、こんな議論を見聞きしたことはありませんか?
「刑務所の食事や医療が、真面目に働いて生活保護を受けている人より手厚いのはおかしい。受刑者の待遇を制限すべきだ」
これに対し、必ずと言っていいほど返ってくる反論があります。
「上が高いのを叩くのではなく、下の生活水準を底上げして、みんなが豊かになれば解決する話だ。他人の足を引っ張るな」
一見すると、後者の意見はとても人道的で、建設的で、誰も傷つけない「正解」のように聞こえます。しかし、私はこの「みんなが豊かになればいい」「下を底上げせよ」という心地よい言葉の響きに、ある種の欺瞞を感じずにはいられません。
なぜ、この「正解」にモヤモヤするのか。その正体を探ってみたいと思います。
1. なぜ「下を底上げせよ」という意見は魅力的なのか
まず公平を期すために、なぜこの意見がこれほど支持されるのか、その論理的背景(レトリック)を整理しましょう。彼らの主張には、それなりの「正当性」があることをまずは理解しておく必要があります。
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経済的合理性(限界効用): 100万円を富豪に渡しても何も変わりませんが、貧困層に渡せば命が救われ、消費が生まれます。社会全体の「幸福の総量」を増やすには、下に投下するのが最も効率的だという考え方です。
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社会の保険(ジョン・ロールズの正義論): 「自分がもし明日、不運にも転落したら?」と考えたとき、セーフティネットが厚い社会の方が安心です。これを「無知のヴェール」という思考実験で説明します。
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治安維持のコスト抑制: 貧困を放置して犯罪が増えるより、最初から支援して「犯罪をしなくて済む社会」にする方が、長期的には警察や監獄の維持費(社会的コスト)が安く済む、という予防医学的な発想です。
これらは非常に説得力があります。しかし、ここには決定的な「現実の欠落」があります。
2. 「不公平感」というリアリティ
社会学者のロバート・K・マートン(1910~2003)は、人間は絶対的な生活水準ではなく、他者と比較した自分の立ち位置で幸福や不満を感じる「相対的剥奪」という概念を提唱しました。
想像してみてください。朝から晩まで必死に働き、税金を納め、切り詰めた生活をしている人が、自分の納めた税金で「自分より良い暮らし」をしている受刑者を見たらどう思うでしょうか。「あちらを上げろ」と言われて納得できるでしょうか。
ここにあるのは単なる「嫉妬」ではありません。「公正な報い(レキシカルな正義)」への欲求です。近代刑罰学における「応報刑論」が教える通り、罪を犯した者が自由を制限され、真面目な市民より低い生活水準に置かれることは、社会秩序を維持するための「負のインセンティブ」として機能しています。
「下を底上げすればいい」という論理は、この「真面目に生きている人の納得感」という、社会を支える最も重要な感情を「足の引っ張り合い」という言葉で切り捨てているのです。
3. 現実社会の資源の有限性
さて、ここからが本題です。この主張に「欺瞞」を感じる最大の理由は、経済学の根本原則である「資源の稀少性」を完全に無視している点にあります。 社会にあるおカネ、人手、モノ、時間はすべて有限です。これを経済学では「予算制約線」と呼びます。
「刑務所の待遇を下げずに、生活保護の基準を上げればいい」 口で言うのは簡単ですが、その原資はどこから来るのでしょうか?
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増税か、他の予算のカットか: 道路の補修を諦めるのか、教育予算を削るのか、あるいは現役世代の社会保険料をさらに引き上げるのか。
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トレードオフの拒否: 何かを増やすには、必ず何かを削らなければならない。これが現実です。しかし、「下を上げろ」と主張する人々の多くは、「誰がそのコストを支払うのか」という具体的な痛みの議論を、意図的に避けています。
まるで魔法の杖を振れば、どこからか資源が湧いてくるかのような前提で語る。これは、現実の政策論ではなく、単なる「願望の吐露」に過ぎません。
4. 左翼的悪平等
哲学者のニーチェ(1844~1900)は、弱者が強者を自分たちのレベルまで引き下げようとする心理を「ルサンチマン(怨念)」と呼びました。
「下を底上げすればいい」という主張は、一見するとこのルサンチマンとは無縁(他人を下げようとしていない)に見えます。しかし、実態は異なります。無限に「下」を底上げし続けようとする要求は、結果として中間層や富裕層に過大な負担を強いて、社会全体を「依存的な横並び」へと向かわせます。
これは一種の「変形された悪平等」です。頑張っても報われず、罪を犯したり困窮したりした際の手厚い保護ばかりが強化される社会。そこでは、自立して社会を支えようとする意志(生の肯定)が、不透明な「平等の理想」によって摩耗していきます。
現実は「有限な正義」
「下を底上げせよ」という意見は、一見すると慈悲深く、知的な解決策に見えることでしょう。そのために時折りそうした批判が今でも上がるのです。しかし、その実態を解剖すれば、以下の2点において致命的な欠陥を抱えています。
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「資源が無限にある」という甘い前提に立っていること。
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「増税や予算削減という痛み」を議論から切り離し、善意の仮面を被っていること。
実務的・現実的な視点から見れば、これは「欺瞞」と言わざるを得ません。本当の意味で誠実な議論とは、「限られたパイを、どう分けるのが最も納得感があるか」という泥臭いトレードオフの議論です。「上を制限せよ」という声は、単なる攻撃性ではなく、「限られた資源を、真面目に生きている者に優先的に配分せよ」という、生存をかけた切実な訴えなのです。
理想論という「お花畑」に立って現実的有限性から目を逸らすのではなく、有限な資源の中で「何が本当の公平か」を理解した上で社会の課題に向き合うべきでしょう。