AirLand-Battleの日記

思い付きや素朴な疑問、常識の整理など、特段のテーマを決めずに書いております。

「できちゃった結婚」と「シングルマザー」

 今日は、ここ30年ほどの間に日本人の「結婚観」がどう変わったのか、そしてその裏側に隠された「無責任な男性の増殖」という、少し耳の痛い、しかし避けては通れない社会問題について深く掘り下げてみたいと思います。

 かつての日本では、妊娠=結婚という等式が、ある種の常識として機能していました。しかし現在、その掟が崩れた先にあるのは、自由なライフスタイルではなく、女性がひとりで重荷を背負わされる「シングルマザーの貧困」という残酷な現実です。なぜこうなったのか、2つのキーワードから解き明かしていきましょう。

 

「できちゃった結婚」という名の社会的ブレーキ

 まず1つ目のキーワードは「できちゃった結婚」です。1990年代後半から2000年代にかけて、この言葉はテレビドラマのタイトルになるほど一般的になりました。

 この形態は、本来なら結婚に至る前の交際段階で妊娠が判明し、それをきっかけに婚姻届を出すというものです。一見、計画性のなさを揶揄する言葉のようにも聞こえますが、実はこの言葉が流行していた時代には、まだ保守的な「男の責任」というブレーキが社会に機能していました。

 「妊娠させたからには、男として責任を取って結婚し、家族を養うのが当たり前」 「世間体やメンツを考えて、親戚や周囲に筋を通す」

 こうした伝統的な価値観が、男性をなかば強制的に「結婚」という枠組みに引き止めていたのです。つまり「でき婚」は、男性の無責任を封じ込めるための、最後のセーフティネットだったと言えるかもしれません。

 

「シングルマザー」という言葉の裏側に潜む「逃げ」

 しかし、時代が進むにつれて2つ目のキーワード、「シングルマザー」という言葉が広がり始めます。1980年代後半から90年代にかけて輸入されたこの言葉は、当初、自立した新しい女性の生き方を肯定するようなポジティブな響きを含んでいました。

 ところが、その実態はどうでしょうか。現在、シングルマザーという言葉が指し示す現実の多くは、「自律した選択」というよりは、多くの場合は男性が責任を放棄した結果、取り残された母子の苦境です。

 かつてなら「でき婚」という形で責任を負わされていたはずの場面で、現代の男性は「結婚という不自由」を巧みに回避するようになりました。一度は結婚しても、価値観が合わなければ容易に離婚を選びます。その結果、残されるのは子どもを抱えた女性です。

 ここで注目すべきは、離婚や未婚によるシングルマザーの急増が、日本の離婚率の上昇(ピーク時には3組に1組が離婚)と密接に関係している点です。自由な選択の代償として、男性が「世帯を支える責任」から軽やかに脱却してしまったことが、この言葉の広まりの背景にあるのです。

 

「無責任な男性」が許容される社会

 「シングルマザー」の問題がなぜこれほど深刻な社会問題として扱われるのか。それは、現代の日本社会が「男性の無責任」を事実上許容してしまっているからです。

 本来、一人の男性が父親としての責任を果たさないのであれば、社会がそれを厳しく律する仕組みが必要です。しかし、今の日本はそのどちらも中途半端な状態にあります。

 まず、経済的な「逃げ得」の問題です。別れた後の養育費を継続して支払っている父親は、全体のわずか2〜3割に過ぎないと言われています。法的な強制力が弱く、男性が支払いを拒んだり行方をくらませたりしても、国がそれを強力に徴収し、立て替える仕組みはまだ完成されていません。

 次に、労働環境の問題です。日本の社会構造はいまだに「夫婦二人三脚で生計を立てる」ことを前提に設計されています。女性一人の給与で、十分な育児支援も受けられないまま子どもを育てることは、構造的に「不利な立場」に追い込まれることを意味します。

 つまり、男性は「責任」という重荷を下ろして自由になれる一方で、女性は「自律」という名の下に、経済的困窮とワンオペ育児という二重苦を背負わされているのです。

 

消えた「伝統」と、来ない「先進福祉」

 私たちが直面しているのは、伝統的な「家族の絆」による強制力が失われた一方で、それを代替する「北欧のような手厚い公的支援」も整備されていないという、空白の時代です。

 かつての男性は、地域の目や親の圧力によって「責任ある父親」であることを強いられていました。現代ではその圧力は消え、個人の自由が尊重されます。しかし、その「自由」が、単に「面倒なことから逃げる自由」にすり替わっているのが現状です。

 もし男性の無責任を社会が認めるというのなら、シングルマザーが一人で働いても十分に中流以上の生活ができ、24時間365日いつでも公的な育児サポートを受けられ、養育費は国が100%保証するという、高度にシステム化された社会でなければなりません。しかし、今の日本にそこまでの覚悟はありません。

 

私たちが考えるべき「責任」の再定義

 「できちゃった結婚」が消滅し、誰もが自由に「シングルマザー」を選択できる社会。それは一見、進歩的に見えます。しかし、その裏側で、妊娠させた側、あるいは一度は家族を作った側の男性が、法や倫理の隙間を突いて責任を放棄し、悠々と独身生活に戻っていく。そんな不条理が今の日本を覆っています。

 私たちが今、考え直すべきなのは「個人の自由」の定義なのかもしれません。それは他者に、特に自分との間に生まれた子どもに犠牲を強いた上での自由であっていいはずがありません。

 男性側の無責任をこれ以上許さないための法整備(養育費の強制徴収や国による立て替え)を急ぐのか。あるいは、もう一度「家族として責任を持つこと」の尊さを社会の規範として育むのか。

 「でき婚」を嘲笑い、「シングルマザー」を自己責任と突き放す。そんな冷淡な視線を向けている間に、この国の家族の土台は、男性の無責任という地割れによって崩れ去ろうとしています。 皆さんは、この歪んだ「自由」の形を、どのように思われますか?