今回は、日常で当たり前に存在しているようでいて、実は日本という文化圏において非常に微妙な位置にある「友情」や「友愛」という概念について、少し掘り下げて考察してみたいと思います。
「日本人の心性には、他国に見られるような『友情』が希薄なのではないか」
こう聞くと、多くの方は「そんなはずはない。自分にも大切な友人がいる」と反論したくなるでしょう。しかし、歴史、文学、政治、そして現代の社会構造を見直していくと、日本人が築いてきた人間関係は、欧米や中国などのそれとは本質的に異なる部分があることが見えてきます。
私たちが「友情」と呼んでいるものは実際には何なのか。そして、それが希薄であることでもたらされる現代社会の「不利益」とは何なのか。
詩歌が語る「日本人の関心事」
まず、興味深い文化的な指標をご紹介します。世界の「詩のテーマ」を分類した際、多くの文化圏で普遍的に見られるテーマが「自然」「恋愛」そして「友情(友愛)」です。ところが、日本の古典詩歌(和歌や俳諧)を分析すると、圧倒的に多いのは「自然美」であり、次いで「男女の恋」となります。驚くべきことに、他の文化圏で大きな柱となっている「友情」を題として真正面から扱った作品は、日本では極端に少ないのです。
もちろん、友人を想う歌が皆無なわけではありません。しかし、日本の詩歌において友への情愛は、往々にして「共に同じ月を見る」「共に散る花を惜しむ」といった、自然の風景を通した共鳴として描かれます。
西洋や中国の詩が、友と対面してその徳や志を語り合うのに対し、日本人は友と横に並び、同じ景色を眺めることで心を通わせてきました。ここには、人間同士のダイレクトなぶつかり合いを避け、情緒的な「空気感」の中に人間関係を溶け込ませる日本特有の美意識が反映されているようです。
日本社会を支配する「伝統的なタテの関係」
なぜ、日本では対等な「友情」が言語化されにくかったのでしょうか。その背景には、日本社会を貫く強固な「上下関係(縦の社会)」があるのでしょう。
伝統的な日本社会では、主君と家臣、親と子、夫と婦、兄と弟といった、明確な序列に基づく関係性が重視されてきました。こうした「上意下達」の構造の中では、対等な個と個が結びつく「友情」は、時として組織の秩序を乱す不純物と見なされることすらあったのです。
しかし、歴史を詳細に眺めれば、その強固な縦社会の「隙間」で、横の連帯を模索した人々もいました。 例えば戦国時代の武士たちが見せた「一味同心」の精神。彼らは神仏に誓う起請文を書き、その灰を混ぜた水を回し飲む「一味神水」という儀式を通じて、身分を超えた運命共同体としての絆を確認しました。また、江戸時代の「講」や「連」といった趣味の集団では、一時的に身分の上下を忘れ、学問や芸術を通じて対等に語らう「朋友」のつながりもありました。
これらは、がんじがらめの縦社会から解放されるための、日本的な「友愛」の萌芽だったと言えるのかもしれません。
近代日本における「友情」
日本人が「友情」という概念を、個人の内面的なドラマとして真正面から捉え直したのは、明治・大正期の近代化以降になります。
その象徴的な作品のひとつが、武者小路実篤(1885~1976)の小説『友情』です。大正デモクラシーの奔流の中で書かれたこの作品は、それまでの「義理人情」や「集団の論理」を脱ぎ捨て、自立した「個」と「個」が本音でぶつかり合い、時には失恋の苦しみさえも自己成長の糧にする姿を描きました。当時の若者たちは、この「新しい人間関係のモデル」に熱狂しました。
また、政治の場では、元総理大臣の鳩山由紀夫氏が「友愛」という言葉を掲げたことが記憶に新しいでしょう。彼の説く友愛は、祖父・鳩山一郎(1883~1959)が欧州の思想から取り入れたもので、「自立」と「共生」を柱としていました。
しかし、これらの「友情・友愛」の訴えは、日本社会の主流派からはどこか「理想主義的すぎる」「浮世離れしている」と受け止められ、時には「変人(あるいは宇宙人)」というレッテルを貼られる要因にもなりました。これは、日本社会がいかに「対等な個による論理的な結びつき」を、自らの血肉として受け入れることに苦労してきたかの証左かもしれません。
「友愛」の欠如
「詩歌に友情がなくても、実生活に困らなければいいではないか」そう思われるかもしれません。しかし、この「対等な友愛(横の連帯)」が機能不全に陥っていることは、現代日本において深刻な「実害」を生み出しています。
その最たるものが、組織における「自浄作用の喪失」です。 企業でのデータ改ざんや不正会計、あるいは大規模な交通インフラの事故。これらの多くは、現場が「おかしい」と気づいていながら、上下関係の圧力(忖度)によって声を上げられなかったことに起因します。 もしそこに、役職を超えた「プロフェッショナルとしての友愛」があれば、「友として、あなたの過ちを止めたい」という進言が可能だったはずです。しかし、帰属意識が強すぎる組織では、沈黙こそが美徳とされ、破滅的な事故が防げない事態が常態化しています。
また、社会問題化している「孤独死」や「いじめの深刻化」も無関係ではありません。 日本はOECD諸国の中でも「家族以外に頼れる人がいない」人の割合が突出して高いと言われています。現役時代を「会社という上下関係」の中だけで過ごした結果、退職後に対等な友人を作るスキルがなく、社会から孤立してしまう。あるいは、学校という閉鎖的な集団の中で、特定の個を排除する論理が働いたとき、それを止める「個の勇気」よりも「集団への同調」が優先されてしまう。
これらはすべて、私たちが「対等な他者を認め、守り、時には正す」という「友愛」の交際の技術を、社会の共通認識として育ててこなかったことの代償と言えるのではないでしょうか。
これからの「友情」
日本社会に「友情」が存在しないわけではありません。しかし、それは多くの場合、特定の組織や季節感の中に「埋没」した形で存在してきました。
福澤諭吉(1835~1901)が説いた「独立自尊」に基づく知的な交友や、賀川豊彦(1888~1960)が実践した「生活を守るための協力(共助)」のように、私たちは今、改めて「自立した個」としての友愛を再定義する必要があります。
誰かに依存するのでもなく、誰かを支配するのでもない。互いの違いを認めつつ、同じ志や目的のために手を取り合う「横のつながり」。この軽やかで、かつ強靭な「友情」を社会の中に組み込んでいくことこそが、閉塞感の漂う現代日本を救う一つの鍵になるのかもしれません。