ビジネス界には、定期的に流行語が現れます。1990年代、日本の人事担当者や経営者が注目して口にしていた言葉が「コンピテンシー(行動特性)管理」でした。当時、書店のビジネス書コーナーには「コンピテンシー」と名の付く新刊が多くみられていたものでした。
「高学歴で知識も豊富なはずなのに、なぜか成果が出ない社員がいる」
「一方で、学歴は普通でも、現場に行くと驚異的な数字を叩き出す社員がいる」。
この埋めがたい「差」を埋めるための処方箋として期待されたのが、この人事管理手法でした。しかし、多くの日本企業が導入を試みたものの、多くが事実上の失敗に終わったようで、最近は書店で関連書籍を見ることもほぼなくなりました。今回は、「コンピテンシー管理」とは一体何だったのか、なぜ欧米で一定の成功を見たにもかかわらず、日本で苦戦したのかを整理しようと思います。
1. コンピテンシーとは?
まず、コンピテンシー(Competency)という言葉の定義から整理しましょう。これは単なる「スキル(技能)」や「知識」のことではありません。コンピテンシーとは、「特定の仕事において、継続的に高い業績を上げている人に共通して見られる行動特性」を指します。
よく用いられるのが「氷山モデル」という例えです。氷山の水面上に出ている部分は、目に見えやすい「知識」や「資格」、「学歴」です。しかし、実はその下の水面下に沈んでいる「価値観」「動機」「自己イメージ」といった要素こそが、日々の判断や具体的な行動を決定づけています。
従来の評価制度が「何を知っているか(知識)」を重視していたのに対し、コンピテンシー管理は「実際にどのような行動をとり、成果に結びつけたか」という、いわば人間の内面から湧き出る行動特性に着目したのです。
2. 始まりは「外交官の選考」から
この考え方が注目されたきっかけは、1970年代のアメリカにあります。ハーバード大学のデイビッド・C・マクレランド教授(1917~1998)が、米国務省からの依頼で行った調査が有名です。
当時、国務省は「知能テストで選抜されたはずの外交官が、現地でトラブルを起こしたり成果を出せなかったりする」という問題に直面していました。そこでマクレランド氏が調査したところ、優秀な外交官に共通していたのは知識量ではなく、「異文化に対する感受性」や「人間関係構築力」といった具体的な行動特性だったことが判明しました。
この調査は民間企業にも広がります。例えばモービル石油では、トップ営業マンの行動を分析し、「製品説明ではなく、顧客の経営課題に踏み込むコンサルティング行動」が成果の鍵であることを突き止めました。これをマニュアル化し、全社員にトレーニングすることで、組織全体の底上げに成功したのです。
3. 日本企業における導入の罠
1990年代後半、バブル崩壊後の業績低迷に苦しむ日本企業は、この「欧米の成功事例」に飛びつきました。年功序列や職能給の限界を感じていた経営者にとって、成果を生む行動をモデル化してコピーするという発想は、非常に魅力的に映ったのです。
しかし、現実は甘くありませんでした。日本で定着しなかったのには、明確な理由があります。
第一に、「モデル作成のコストと硬直化」です。現場のハイパフォーマーを分析して「モデル」を作るには膨大な時間がかかります。しかし、市場環境が激変する現代では、モデルが完成した頃には、その成功パターンがすでに「時代遅れ」になっているという皮肉な事態が多発しました。
第二に、「観察の限界」です。上司が部下の行動をすべて見ているわけではありません。結局、「数字を出しているから、きっと行動特性も高いはずだ」という逆算の評価や、上司の主観による好感度評価に陥り、形骸化していきました。
第三に、日本独自の「職務の曖昧さ」です。欧米では「ジョブ(職務)」の範囲が明確ですが、日本の正社員は「何でも屋」としてチームで助け合う文化が強く、個人の行動特性だけを切り出して評価することが困難でした。
そして最も致命的だったのが、「表層的な模倣」です。「できる人は顧客訪問数が多い」というデータだけを見て、中身のない訪問を繰り返す社員が量産されるなど、手段が目的化する現象が起きたのです。思考プロセスを伴わない形だけの真似は、成果には結びつきませんでした。
4. 成功した企業は何が違ったのか?
一方で、日本でもリクルートや花王、旧損保ジャパンなどのように、現在もこのエッセンスを活かし続けている企業もあります。
これらの成功企業に共通しているのは、コンピテンシーを「給料を決めるための冷徹な査定道具」ではなく、「人材育成のための共通言語」として活用した点です。
例えば、「うちの会社で活躍する人は、こういう局面でこう動くよね」という理想の姿を言語化し、上司と部下の面談で「この行動を意識してみよう」と具体的にアドバイスする材料にしたのです。また、採用において「自社の文化に合うかどうか(カルチャーフィット)」を見極める基準として、行動特性を深掘りするインタビュー手法も、現代の優良企業で広く取り入れられています。
5. 現代におけるコンピテンシーの意義
コンピテンシー管理は決して「死んだ手法」ではありません。かつてのように「一律の行動マニュアル」で社員を縛ろうとする運用は失敗しましたが、そのエッセンスは形を変えて生き残っています。
現代のような変化の激しい時代において、過去の成功者の行動をそのままなぞることに意味はありません。しかし、「変化を恐れず自律的に動く」「他者の意図を汲み取りチームを動かす」といった普遍的なコンピテンシーの重要性は、むしろ高まっています。
コンピテンシーの本質とは、誰かの「型」を無理やり押しつけることではなく、その組織で価値を生み出すための「望ましい振る舞い」を可視化し、対話のきっかけにすることにあります。
かつてビジネス書が説いたような「魔法の管理術」は存在しませんでした。「コンピテンシー管理」はよくある一過性のブームのひとつだったのかもしれません。しかし、私たちが働く上で、どのような意識を持ってどのような行動をとるべきかという問いに対し、コンピテンシーという概念は今もなお示唆を与え続けてくれています。