AirLand-Battleの日記

思い付きや素朴な疑問、常識の整理など、特段のテーマを決めずに書いております。

テレビ局の「停波」の現実味を少し考えてみる

 日々のニュースに接する中で、皆さんは一度ならず「この報道は少し偏っていないか?」「なぜこんな強引な取材が許されるのか?」と疑問を抱いたことはないでしょうか。最近では、大手放送局を指して「オールドメディア」という言葉が定着し、不適切な報道を繰り返す放送局に対しては、法的手段である「停波(放送停止)」を求める声もインターネットを中心に噴出しています。

 また、日本の報道機関の品質は、国際的な非政府組織「国境なき記者団(Reporters Without Borders)」が毎年発表している「報道の自由度ランキング」によると、180か国中62位(2026年4月30日発表)という極めて低い結果になっています。(もっとも個人的にはこうした「国際機関による日本への評価」は鵜吞みにしたくないという姿勢です。)そうした低評価を受けているのにもかかわらず、日本において大きな既得権益集団となってしまっているということに対しては、やはり厳しい目を向けるべきではないでしょうか。

 私たちは一人の国民として、公共の電波を預かる放送局に何を期待し、現在の制度のどこに不公正を感じているのか。今回は「停波」の法的現実から、その議論の裏側に潜む「電波利権」の構造、そして放置された未来に待つリスクについて、整理してみたいと思います。

 

「停波」の現実的な難しさ

 まず、多くの人が疑問に思う「不適切なテレビ局を停波させることは可能なのか?」という点から見ていきましょう。

 結論から言えば、法律上の規定は存在します。放送法第4条には「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」といった準則が定められており、これに著しく違反した場合、電波法第76条に基づき、総務大臣は放送の停止を命じることが可能です。

 しかし、戦後この権限が行使された例は一度もありません。なぜでしょうか。そこには「報道の自由」という民主主義の根幹に関わる高い壁があるからです。もし行政(政府)が「この報道は偏向している」と主観的に判断して電波を止めれば、時の権力による言論弾圧の手段になりかねません。そのため、たとえ特定の番組に偏りがあると感じられても、行政は「指導」や「勧告」にとどめ、メディア側の「自浄作用」に委ねるという形が長らく守られてきました。

 決定を下すのは司法ではなく、あくまで行政の長である総務大臣ですが、大臣が独断で動くことは政治的リスクが大きすぎます。結果として、法的な武器はありながらも、実際には「抜かずの宝刀」となっているのが実情です。

 

格安となっている電波使用料

 「停波」を求める声がこれほどまでに高まっている背景には、単なる感情的な反発だけでなく、経済的な不条理への指摘があります。それは、テレビ局が国から借りている「電波」の賃料があまりに安すぎるのではないか、という問題です。

 具体的な数値を見てみましょう。私たちの生活に欠かせないスマートフォンなどを支える携帯電話業界全体が国に支払っている「電波利用料」は、年間で数千億円規模に達します。大手キャリア1社あたりで数千億円を負担している計算です。

 一方で、日本全国に情報を発信している民放キー局1社が支払っている電波利用料は、年間でわずか数億から数十億円程度にすぎません。携帯電話会社と比較すると、支払っている金額には数百倍から、場合によっては千倍近い開きがあるのです。

 電波は国民の共有財産です。その希少で価値の高い帯域を、特定の報道会社がこれほど安価に、かつ独占的に利用しているという事実は、「メディアは特権階級ではないか」という国民の不満の大きな火種となっているのも頷けます。

 

電波オークションができない日本

 では、なぜこの不公平な料金体系が維持されているのでしょうか。その対極にあるのが、欧米諸国で標準となっている「電波オークション」という仕組みです。

 アメリカやイギリス、ドイツといった主要国では、電波の利用権を「入札(競り)」で決定します。最も高い金額を提示した事業者が利用権を得るため、市場価値が正当に反映され、多額の収入が国庫に入ります。アメリカではこれまでに累計20兆円を超える収入を国が確保しており、イギリスでは3Gの免許オークションだけで約4兆円もの資金を得て、国の債務返済に充てたという輝かしい実績があります。

 日本でもこの導入を求める声は以前からありますが、実現には至っていません。放送業界側は「オークションを導入すれば、資金力のある外資や大企業に電波が買い叩かれ、災害放送などの公共性が失われる」と主張しています。しかし、国民からすれば「格安の特権を享受しながら、報道の質や多様性が伴っていないのではないか」という疑念が拭えません。

 現在の日本では、総務省が審査して特定の事業者に割り当てる「比較審査方式」が続いています。この不透明なプロセスが、政府とメディアの「持ちつ持たれつ」の共依存関係を生んでいるとの指摘も少なくありません。

 

放置の先は...

 もし、こうした不満や制度の矛盾を放置し続けたら、私たちの社会はどうなるでしょうか。10年、20年という長期的なスパンで見ると、事態は「今のまま続く」どころか、さらに深刻な悪化を辿ることが予想されます。

 まず懸念されるのは、メディアの質の底割れです。テレビ離れが進み、広告収入が減り続ける中で、製作費は削られ続けます。多角的な検証が必要な報道は姿を消し、ネットの炎上をなぞるだけの安価な番組ばかりが並ぶようになります。また、経営が苦しくなれば、テレビ局は生存をかけて特定のスポンサーや資本の意向にさらに強く依存せざるを得なくなり、私たちが求める「多様性」は物理的に失われていきます。

 さらに深刻なのは、社会の分断です。メディアが信頼を失い、かといって代替となる信頼できる情報インフラも育たない場合、人々は自分の見たい情報だけを信じるSNSの世界に閉じこもります。20年後には、「何を事実とするか」という前提すら共有できない社会になり、民主主義そのものが機能不全に陥るリスクがあります。

 経済的な損失も無視できません。電波という貴重な資源を有効活用せず、古い特権構造の中に閉じ込めておくことは、次世代の通信技術やイノベーションの芽を摘んでいることに他なりません。これは、国民が本来受け取れるはずの数兆円規模の利益を放棄しているのと同じなのです。

 

何か「きっかけ」はないのか.....

 政府が「停波」や「電波利用料の改正」に消極的なのは、テレビという巨大な広報媒体を敵に回したくないという政治的判断があるからです。しかし、不満のマグマは着実に溜まっています。

 今後、メディアの経営破綻や、放送と通信の完全な融合といった大きな変化が訪れたとき、これまで「報道の自由」という盾で守られてきた既得権益は、もはや通用しなくなるでしょう。「報道の自由」とは、本来、国民の知る権利に奉仕するためにあるものであり、特定の企業の特権を守るための言葉ではないからです。

 公権力による強制的な「停波」という最終手段に頼る前に、まずは電波の市場価値を正当に評価し、新規参入を促す「電波オークション」の導入など、経済的・合理的な改革から進めるべきではないでしょうか。

 メディアが「公共の財産を預かっている」という自覚を取り戻し、国民が納得できる透明な制度へと移行すること。それが、20年後の社会を、分断ではなく対話のあるものにするための道だと信じています。

 

******** 2026年5月2日追記 ********

 以前に「オールドメディアが消えたら困ること」という記事を投稿したとおり、個人的には現在の報道機関がこのまま質が低下してゆくことに対しては、国益を棄損する危険性があると考えています。

 以前は地上波のテレビでしかできないと思われていた、映画やドラマの制作・放映も現在では多くのサブスクリプションという形式でかなりインターネットで代替され普及しています。しかしニュース報道については、部分的に代替はできても、公共性のある放送はインターネットではかなり難しいのではないかと思っています。さてどうなるか.....