日々の暮らしの中で、贈り物や日用品に思いもよらない意味が当てられていると知って、戸惑ったことはありませんか?
例えば、ホワイトデーに贈るマシュマロには「あなたが嫌いです」というメッセージが込められている……。そんな説を耳にしたことがあるかもしれません。あるいは、印鑑の素材について「水牛や象などの生物の命を奪ったものには怨念が宿る」といった、スピリチュアルなのか動物愛護なのか意味不明な言説。さらには結婚式などの冠婚葬祭で、「切れる」「離れる」といった言葉を極端に避ける伝統的な配慮。
これらは一体、誰が、何の目的で広まり、定着してゆくのでしょうか。今回は、こうした特定のモノや言葉に付着した不合理な意味付けについて、その正体を探ってみたいと思います。私たちがより自由に、そして心地よくモノを贈り合い、大切な場を分かち合える社会にするためのヒントになれば幸いです。
1. そもそも誰が決めているのか
まず結論から申し上げれば、こうしたモノへの意味付けに、公的な決定機関や学術的な根拠は存在しません。多くの場合、以下の要素が複雑に絡み合って、「あたかも真実であるかのように」流通しているに過ぎません。合理的理由や必然性は無く、宗教上の戒律でもありません。
一つ目は、「商業的なマーケティング」です。 ホワイトデーという文化自体、1970年代に日本の菓子業界が「バレンタインのお返し」として提唱したのが始まりです。当初、マシュマロは「愛を優しさで包む」というポジティブな文脈で売り出されました。しかし、市場が成熟し、チョコレートやクッキーなど選択肢が増える中で、他者の商品と差別化を図るために「これはOK、これはNG」という根拠のない分類が後付けで生み出されていきました。
二つ目は、「情報の断片化と増幅」です。 現代のメディアやSNSでは、100の事実よりも1つの「ショッキングな噂」の方が圧倒的に速く拡散されます。「マシュマロはすぐ口で溶けるから、関係もすぐ終わる(=嫌い)」という解釈は、ある種の「こじつけ」ですが、これが「意外なマナー」としてネット記事になれば、何万回と閲覧されます。一度拡散されると、それが現代の「新しい常識」として定着してしまうのです。
2. 「怨念」か「保護」か
次に、印鑑の素材を例に、その「妥当性」について考えてみましょう。 インターネット上では、水牛の角や象牙の印鑑について、「動物の死と引き換えにした素材にはその怨念が宿るため、避けるべきだ」という主張を見かけることがあります。
しかし、印鑑の歴史は数千年に及び、丈夫で朱肉の馴染みが良いこれらの素材は、古来より「一生の宝物」として大切に扱われてきました。昔の人々がこれらを「不吉なもの」として遠ざけていた客観的な記録は、一般的ではありません。
ここで冷静に区別すべきは、「客観的な事実」と「主観的な不安」です。 もし「希少動物の保護」の観点から、特定の素材を避けるべきだという主張であれば、そこには国際的な合意と科学的なデータという社会性が存在します。しかし、「怨念」という言葉は、証明も反論もできない、個人の思い込みに過ぎません。こうした「怨念説」が広まる背景には、高価な買い物をする消費者の不安を煽り、特定の素材へと誘導しようとする、一部の販売戦略が潜んでいる可能性も否定できません。
3. 花言葉の光と影
私たちが親しんでいる「花言葉」も、実は「多分に主観的な物語」の集まりに過ぎません。 例えば「ダリア」には、その華麗な姿とは裏腹に、「移り気・裏切り」といった好ましくない意味が付けられています。
この由来を辿ると、19世紀のフランス、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌ(1763~1814)にまつわる逸話に突き当たります。彼女が自慢のダリアを独占しようとしたのに対し、ある貴族がその球根を盗み出したという、たかが200年前の一つの「人間ドラマ」に過ぎません。これを現代に咲くすべてのダリアにずっと当てておくのは、あまりに非論理的です。
特定の植物に対して、科学的な理由なく不吉だとするのは、美しい花を育てる生産者にとっても、一種の風評被害になりかねない、社会的な害悪を含んだ行為と言えます。
(もっとも「花言葉」の世界をより広く充実したものにするためには、好ましくない意味も含ませることにも、ある程度の意義はあるのでしょう。)
4. 冠婚葬祭の「忌み言葉」
一方で、結婚式や葬儀などの冠婚葬祭における「忌み言葉(切れる、別れる、重ね重ねなど)」は、日本の伝統的な配慮としての側面も持っています。相手の悲しみや別れを連想させないようにという「思いやり」から生まれた文化です。
しかし、現代においてこれがあまりに神経質になりすぎている点は、見直すべき時期に来ているのかもしれません。 言葉尻を捕らえて「礼儀がなっていない」と厳しく断じる風潮は、若い世代が各種の「式」を敬遠し、伝統継承から気持ちが離れてしまう一因となり得ます。本来、式とは「祝う気持ち」や「悼む気持ち」を共有する場であるはずです。形式的な言い回しに縛られすぎて、本質である「心の交流」が損なわれるのであれば、それは本末転倒と言わざるを得ません。
5. 無用な詮索や勝手な意味付けは無用では?
ここまで、モノや言葉に付けられた悪い意味の不条理性について述べてきました。 しかし本来、モノを選んだり言葉を交わしたりする基準は、まずは贈る側の気持ちだけで良いはずです。
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「相手がマシュマロが好きだから、一番美味しいものを選んだ」
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「この素材は丈夫で、自分の人生の決意を刻むのにふさわしいと感じた」
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「このダリアの色が、相手の笑顔に似ていた」
こうした、個人の好意からくる選択や判断こそが、何よりも優先されるべき健全な社会の基礎になっていると思います。また、定着しているとされる「常識」や「ならわし」であっても、結局のところ誰かが事前に教えてくれなければ分からないのは当然のことです。そして「恥をかかせて覚えさせる」といった「目下の人間」を侮辱させる発想はもうやめるべきであると考えています。
特定の品物や言葉に、理由もなく悪い意味を付ける風潮は、私たちの選択肢を狭め、コミュニケーションに余計な疑心を招きます。「これを受け取った相手は、嫌われていると思うのではないか?」という不安は、本来そこにあるべきはずの「感謝」や「愛情」を曇らせてしまいます。
たしかに世の中には皮肉や嫌がらせ、当てこすり、冷笑を仕掛けてる人は一定数存在します。また、それを面白いと感じる人も一定数存在します。しかしこれまでの確認を経た読者であれば、そうした姿勢からは距離を取ることとにしてはいかがでしょうか。もしも仮に贈り物の意図が分からなければ、真正面から選んだ理由を尋ねるだけのことです。
根拠のないネガティブな言説を聞いたとしても「情報のノイズ」として受け流し、ポジティブな意図にもっと自信を持ち、受ける側も素直に受けるようにしたいものです。モノに宿る意味は、誰かに決められるものではなく、贈る側と受け取る側との関係性の中で、その都度新しく生まれるものでしょう。
自分の目と心でモノの価値を見極めること。それが、贈る側も受け取る側も、そしてモノを作る側も幸せになれる、風通しの良い社会を作る第一歩になると信じています。