日常の平穏を守る警察官や機動隊、あるいは刑務官といったプロフェッショナルたち。彼らが現場で直面する局面は、私たちがテレビや漫画で目にする「格闘技の試合」や「戦場の古武術」とは異なる条件設定になっています。
武道やスポーツ格闘技の根底にあるのは「対等な条件のもと、1対1でどちらが強いかを競う」という、いわば一対一の美学です。しかし、狂乱した暴漢や刃物を持った危険人物を前にしたとき、この美学に固執することは、警察官自身の命を危険にさらし、さらには対象者にも不要な大怪我を負わせる結果につながりかねません。
格闘技や武道の愛好者の間でしばしば「最強の武術は何か?」という話題が挙がりますが、個人でなく社会で考えた場合にはまた別の視点があるはずです。現代の法執行機関(ロー・エンフォースメント)にとって本当に必要な武術は、美学を排し、安全と確実性を最優先にした「集団戦術の実学」になるのではないでしょうか。
今回は、現代のトラブルや凶悪犯罪を最小限のリスクで抑え込む上で想定できる3つの条件を挙げて、それぞれの可能性について分析・整理してみたいと思います。
想定条件1【うつ伏せに抑え込むこと】
アメリカの警察のボディカメラ映像や映画のワンシーンを思い浮かべてみてください。激しく暴れる危険人物を拘束する際、警察官たちは最終的に必ずといっていいほど、相手を地面に「うつ伏せ」にしています。これには解剖学的・戦術的な明確な理由があります。
人間は、仰向けの状態だと、手足を自由に動かしてパンチやキックを繰り出せますし、最悪の場合は警察官の武器を奪おうと抵抗することができます。しかし、完全にうつ伏せ(腹臥位)にされ、背中に体重をかけられると、手足の可動域が極端に制限され、有効な反撃が一切できなくなります。また、手錠をかけるという最終目的を達成するためにも、両腕を背中に回させることができる「うつ伏せ」は十分条件になるのです。
日本の逮捕術や各種武道では
日本の警察では、専用の防具を着用して行う「逮捕術」という独自の訓練が存在します。しかし、この逮捕術の「競技ルール」では、うつ伏せに抑え込むことを直接のゴール(一本の条件)とはしていません。逮捕術の試合は、剣道の小太刀に似た短刀や警棒を用い、有効な打突や、投げ技・関節技が決まった瞬間に勝敗が決まります。これは「間合いの確保」や「武器の無力化」に主眼があるためで、寝技の泥沼に陥ることを競技上避けているからです。
もちろん、実際の警察学校や現場の術科訓練では、このルールを補う形で、技を決めた後にうつ伏せにひっくり返して手錠をかける実践訓練がセットで行われています。しかし、競技ルールそのものがうつ伏せを要求していない点には、実務とのギャップが存在します。
既存の格闘技に目を向けると、柔道やレスリングは「相手の背中を床につける(仰向けにする)」ことで一本やフォールを奪うルールです。そのため、これらの経験者がそのまま現場に立つと、無意識に相手を仰向けにキープしようとしてしまい、かえって反撃を受けるリスクが生じます。
どの武術が適しているか?
この条件において、特異な輝きを放つ候補が「合気道」でしょう。合気道の多くの型では、相手の手首や肘を極めた後の最終形として、相手を地面にうつ伏せに突っ伏せさせ、腕を伸ばさせて貼り付ける形をとります。「過度な負傷をさせずに、うつ伏せで動けなくする」という合気道の思想は、警察の法執行理念に完璧に合致しており、有力な候補となります。
ただし、現代の合気道の多くは「相手が協力して受身をとってくれる前提」の型稽古が主流です。薬物中毒などで狂乱し、フルパワーで抵抗してくる1人の暴漢に対して綺麗に技を決めるのは容易ではありません。
そのため、地面に倒れた後の泥臭いコントロール技術として、現代の法執行機関では「ブラジリアン柔術」や「総合格闘技(MMA)」の技術が熱心に取り入れられています。相手の後ろに回り込んで完全に背中側から制御する「バックキープ」の技術は、現代格闘技の中で最も強固であり、合気道の関節力学と組み合わせることで初めて実戦的な効果を発揮することが期待できます。
想定条件2【複数で1人を制圧すること】
一般的な格闘技やスポーツは、そのほぼすべてが「1対1で戦うこと」を前提に作られています。護身術や伝統武術では不意に後ろから掴まれたり、2人以上の敵に囲まれたりといった「不利な状況」も想定することはあっても、「こちらが多数で、敵が1人」という有利な状況を想定した訓練は、スポーツの美学に反するためか、ほとんど行われません。
しかし実学の観点から言えば、例えば1人の暴漢に対して警察官が2人で前後から挟み撃ちにしたほうが、暴漢にとっても警察官にとっても、はるかに安全に事態を終わらせることができるはずです。実際に、刑務所で1人の囚人が房内で暴れ出した場合などは、3人から5人といった複数の屈強な刑務官がチームを組んで一気に抑え込む「房内制圧チーム」の手法が世界中で採用されています。
複数人制圧に求められる「システム」
1人を複数人で抑え込む「集団戦術」は、一見簡単そうに思えますが、訓練を受けていない人間がこれを行うと現場はパニックに陥ります。
例えば、1人の暴漢に対して左右から同時に2人の警察官がタックルしようとして、お互いの頭を激突させて共倒れしてしまったり、全員が相手の同じ右腕を掴もうとした結果、ガラ空きになった下半身で強烈なキックを喰らったりといった事故がリアルに起こるのです。また、興奮した4人が一斉に1人の背中に乗っかってしまうと、うつ伏せの対象者が呼吸できなくなって死亡するという「体位性窒息」の痛ましい過剰防衛事故にもつながります。
そのため、ここでの練習は格闘技術そのものよりも、徹底した「役割分担の自動化」が必要になります。
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1人目(リーダー): 相手の頭部や首、視界をコントロールし、全体の指揮を執る。
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2人目・3人目: 左右の腕(特に肘から先)をそれぞれ完全に確保し、壁や地面に固定して武器を抜かせないようにする。
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4人目: 相手の下半身(膝や足首)を抱え込み、キックによる逆襲や、暴れて反転する力を奪う。
どの武術が適しているか?
この集団戦術のルーツは、日本の古流武術における「捕手術(とりてじゅつ)」に見ることができます。江戸時代の岡っ引きや同心たちは、1人の罪人をなるべく殺さずに生け捕るため、1人が突棒(つくぼう)などで相手の動きを止め、その隙に左右から別の人間が組み付いて縄をかけるという、非対称な集団戦術を実践していました。
現代においてこのベースとなるのは、クリンチ(組み付き)とテイクダウンにおいて圧倒的な構造の強さを持つ「レスリング」や「柔道」、そして軍隊・警察用に開発された近接格闘術である「クラヴ・マガ」などが挙げられるでしょうか。一人が相手の注意を引きつけている1秒の間に、もう一人が背後から組み付いて体幹の安定性を奪うといった、組織的な連携のドリルを繰り返すことで、この条件は達成できるようになるでしょう。
想定条件3【2人の間に入り込む仲裁の術】
最後の条件は、一般的な格闘技や護身術のカテゴリーにはまず入らない、しかし日常の警察活動や社会生活で最も頻出する技術――「仲裁に入り込むこと(介入)」です。
これは、ボクシングの試合で終了のゴングが鳴った瞬間、レフリーが猛烈に殴り合っている2人の選手の間に自らの体を滑り込ませ、両者の攻防を強制的にストップさせるような技術を想定しています。
日常生活における人間関係のトラブルを思い浮かべてみてください。2人の人間が激しい口論になっている場合、まだ距離が離れていれば、言葉によって鎮静化させる(仮に”A段階”とします)ことも可能かもしれません。しかし、すでに掴み合いや殴り合いが始まってしまった後(”B段階”)では、1人の仲裁者がどちらか片方を後ろから羽交い締めにしたところで、もう片方からのパンチを防ぐことはできず、求められるような「仲裁」にはなりません。
最も難易度が高いのは、ボクシングのレフリーのように、まさに殴り合っているその中間に自らの身体を投げ入れる("C段階")技術です。タイミングが早すぎても遅すぎても不首尾となり、一歩間違えれば仲裁者自身が両者から殴られてノックアウトされるという大きな危険を伴います。
仲裁を成功させる物理と身体操作
この技術において、相手を「倒す力」は不要です。必要なのは、激しく衝突している2人のエネルギーのベクトルを相殺し、物理的にその空間を占有する能力です。
正面から割り込むのは自殺行為であるため、仲裁者は2人の視線が交差する直線の死角(斜め横など)から進入する必要があります。そして、自らの前腕を強固な三角形の「楔(くさび)」のように組み、2人の胸の間に突き刺すように割り込むことで、パンチが届かない2メートルの物理的距離を強制的に作り出すのです。
どの武術が適しているか?
一対一の競技でありながら、この「間に入って分断する」という物理的なパワーにおいて極めて優秀なのが「相撲」かもしれません。相撲の「体当たり」や、相手の脇を押し上げる「ハズ押し」の技術、そして両者から同時に圧力をかけられても絶対に潰されない下半身の軸の強さは、激しく動く2人を物理的に押し分けるための最高のベースになります。
同時に、直線の衝突を受け流すという意味では、「合気道」や「太極拳」が持つ「円運動のセオリー」の実用化にも可能性を感じます。2人の攻撃線のわずかな隙間に滑り込み、その直線のエネルギーを円の動きでいなしながら、自分の背中と胸でそれぞれの身体を押し分けるような身体操作が求められます。
この訓練には、2人の人間がミットを嵌めて激しく殴り合っている真ん中に、第3者が死角から突入して怪我をせずに2人を引き離し、自らが「壁」となって両手を広げる、といった専用のシミュレーション・ドリル(レフリー・ドリル)の反復が有効になるかもしれません。
まとめ
以前に「日本武術の二つの顔。一対一の美学と集団戦術の実学」という投稿をしましたが、今回はその発展形のようなテーマで検討してみました。
さて上述の3種類の条件をもう一度振り返ってみましょう。
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最終的に「うつ伏せに抑え込む」こと
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チームの優位を活かして「1人を複数人で包囲・制圧する」こと
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戦う2人の間に割り込んで不可侵の壁となる「仲裁の術」を持つこと
これらはすべて、これまでの伝統的な武道やスポーツ格闘技が重んじてきた「1対1の対等な決闘」という常識と美学の対極にあるものです。しかし、現場の警察官や刑務官に求められるのは、己の強さを証明することではなく、市民と自分自身の命を守り、暴れる者さえも必要以上に傷つけずに事態を平和裏に収束させるという、極めて現実的な任務です。
柔道やレスリングの「強固なフィジカルと構造」、合気道の「うつ伏せへの誘導と円のいなし」、そしてブラジリアン柔術や現代格闘技の「緻密な寝技の固定術」。これらを「組織の戦術」というシステムの中に落とし込んだとき、初めて私たちは、固定観念の先にある真の「現代的集団戦術」を構築できるのではないかと期待しています。