現代社会において、日々、膨大なニュースと向き合っており、複雑化した経済政策や社会問題を理解するために、テレビやネットのニュース番組には「専門家」や「学識経験者」が登場し、その解説を述べています。
しかし、視聴者として彼らの解説に耳を傾けていると、ときどきある種の違和感を抱くことはないでしょうか。本来、複雑な問題を判断するための全体像や一般論を教えてほしいのに、特定の専門家が自身の信条や偏った自説を語り、議論を一方的な方向に導こうとしているように見える。そんな場面です。
なぜ中立的な解説を期待されている専門家が、”自説”に固執してしまうのか?そして、それを受け止める報道機関や私たちは、どのような不都合を受けることになるのか。この問題について一度考えてみたいと思います。
1. 専門家が「解説者」ではなく「宣教師」になる理由
たとえば、政府の財政政策について解説を求められた場面を想像してください。本来、財政論には「支出を抑えて健全化を目指す緊縮財政」と「積極的に投資して経済を回す積極財政」という、大きく分けて2つの対立する考え方があるはずです。読者や視聴者は、両方のメリットとデメリットを知った上で判断を下したいと考えます。
ところが、登場した専門家が番組の最初から最後まで「緊縮財政こそが唯一の正解である」という論調で終始してしまう。これには、専門家側の心理と、彼らを取り巻く環境が深く関わっています。
第一に、専門家にとっての誠実さの定義が、一般の感覚とズレている点です。多くの学識経験者にとって、教科書的な両論併記は、誰にでも言える浅い話に映ります。彼らは何が正しいのかという問いに対し、自分が長年研究し、最も合理的だと確信している論理を提示することこそが、プロとしての責任だと考えています。
第二に、彼らの商品価値の問題があります。メディアから声がかかる専門家の多くは、中立な解説者としてではなく、特定の意見の代表として呼ばれています。10分間のニュース枠で、5分ずつ公平に話すよりも、独自の視点でズバッと切り込む方が、メディアにとっての使い勝手が良いのです。
こうした環境下では、自説以外の説を述べることは時間の無駄であり、自身のブランドを薄める行為だと無意識に判断されてしまいます。専門家が自分の理論というフィルターを通して世界を見ている以上、本人には押し付けているという自覚すらなく、ただ正しい知識を伝えているという感覚に陥っているのです。
2. 報道機関にとっての「公平性」
こうした専門家の”自説”は、近年のオールドメディア(新聞やテレビ)に対する偏向報道という批判の火種にもなっています。しかし、報道機関の側にも、法律と現実の板挟みになった深刻な悩みがあります。
日本の放送法では、政治的な公平性や、多角的な論点の提示が求められています。しかし、この公平性をどう解釈するかが極めて難しいのです。
もし「形式的な公平」を貫くのであれば、選挙の際に、当選の可能性が極めて低い候補者にも、有力候補と全く同じ秒数だけ発言時間を与えなければなりません。しかし、限られた放送時間の中でそれを徹底すれば、肝心の政策論争が深まらず、有権者にとっての判断材料が乏しくなるという逆転現象が起きます。
一方で、報道機関が実質的な重要性を判断して比重を変えようとすれば、今度はその判断自体が「偏向している」と叩かれることになります。特にSNSが普及した現代では、特定の意見を持つ層から「なぜ反対側の意見を報じないのか」という24時間体制の監視を受けることになります。
報道機関は、視聴率というビジネス上の数字も追わなければなりません。淡々とした中立的な事実は、往々にして数字が取れないものです。その結果、対立を煽りやすい、極端な自説を持つ専門家をキャスティングしてしまうという悪循環が生まれています。
3. 海外の事例と視聴者の限界
ここで少し視点を外に広げてみましょう。欧米、特にアメリカでは「中立性」の捉え方が日本とは根本的に異なります。
かつてアメリカにも、放送局に公平な時間を求める「公平原則」が存在しましたが、1987年に廃止されました。その背景には「メディアの数がこれだけ増えたのだから、社会全体でバランスが取れていれば、個別の放送局が中立である必要はない」という市場原理的な考えがあります。
その結果、アメリカの報道は「保守派向けの放送局」と「リベラル派向けの放送局」に明確に二極化しました。これは一見、多様性を認めているようですが、結果として人々が「自分の見たい現実」しか見なくなる分断を招いたという反省の声も上がっています。
さて、日本もそうした道を歩むべきでしょうか。あるいは、視聴者が自分自身で「この専門家は偏っている」と見極めるべきでしょうか。 現実的に考えて、それは非常に困難でしょう。現代のニュースは、国際政治から先端技術、複雑な金融派生商品まで多岐にわたります。これらを全て正確に理解し、専門家の言葉の裏にある「偏り」を一般の視聴者が見抜く(目利きになる)ことを求めるのは、不可能に近い要求です。
簡単な答えは無い社会
現代では専門家の「自負」と、メディアの「構造的課題」、そして情報の「高度化」が三つ巴になった、極めて難しい時代になっています。
専門家に「自説を述べるな」と強制することは、彼らの知見を殺すことにもなりかねません。しかし、彼らが「解説者」の仮面を被った「宣教師」として振る舞うのであれば、国民の知る権利は質の面で大きく損なわれます。
読み手もまた、目の前の専門家が語っているのは「唯一の正解」ではなく、広大な議論の中の「一説」に過ぎないということを、常に意識しておく必要があるでしょう。