AirLand-Battleの日記

思い付きや素朴な疑問、常識の整理など、特段のテーマを決めずに書いております。

もっとフリガナを! 2026

 以前に「もっとフリガナを!」という題名で投稿をしましたが、今回はその続編となります。前回の投稿で触れていなかった例を補足いたしますので、あらためてフリガナの必要性や重要性について、ご理解を深めていただければと願う次第です。

 

 

フリガナが必要と考えられる例・1

 日本語の漢字を使った表記の中で訓読みが2通りあって、送り仮名からも読み分けできない例があり、これらについて書き手の意図した読み方をするにはフリガナを振るほかありません。以下の具体例で確認していただけると思います。(投稿者の思い付いた限りの例であって、他にも未だ存在するはずです。ひょっとすると3通りの読み方を持つものも存在するのかもしれません。)


行く  「いく」と「ゆく」

抱く  「だく」と「いだく」

辛い  「つらい」と「からい」

難い  「かたい」と「にくい」

支え  「ささえ」と「つかえ」

叩く  「たたく」と「はたく」

臭い  「くさい」と「におい」

怒る  「いかる」と「おこる」

汚す  「よごす」と「けがす」

下す  「おろす」と「くだす」

避ける 「さける」と「よける」

空いた 「あいた」と「すいた」

誘い  「さそい」と「いざない」 

被る  「かぶる」と「こうむる」

見える 「みえる」と「まみえる」

堪える 「たえる」と「こたえる」

入れる 「いれる」と「はいれる」

寂しい 「さびしい」と「さみしい」

細やか 「ささやか」と「こまやか」

(以上、順不同。)


 意味に明らかな相違があるもの、例えば「つらい」と「からい」は意味が大きく異なる形容詞です。こうしたものについては、前後の単語や文脈(コロケーション)から読み方を判断できるので誤読する心配は少なく、たいていはフリガナ無しでも正しく読むことはできるとは思います。例えば「あの店のインドカレーは真っ赤な色をしていて、口が痛く感じるほどつらい。」とは読まないでしょう。

 それでもこの世の中には漢字に弱い人が一定数いるのであって、読み違いがある程度想定されるのであればフリガナを振っておくに越したことは無いと思うのです。


 また、上で挙げた実例の中には意味が両方とも同じ、あるいは非常に近いと受け止められるものがあると思います。こうしたものに関しては、「『いかる』でも『おこる』でも気にしないな....」などと感じる方が多いかもしれません。しかしながら、日本語の言葉遣い、すなわち意味合いの微妙な違いや語感、響きなどにこだわりを持っている書き手にしてみれば、必ずどちらかの読み方を意図して記しているものです。そしてこの点に気付いた書き手の中には、誤読を避けるために漢字を避けて、ひらがなで表記することを選ぶ人もいるかもしれません。それでも漢字での表記を自然なこととしてこだわる書き手も多いはずです。なればこそフリガナを振ることの理由と必要性を感じられないでしょうか。

 

 

フリガナが必要と考えられる例・2

 漢字を使った単語の中で読みが2通りあって、字面だけでは読み分けできないものがあり、これらについても書き手の意図した読み方をするにはフリガナを振った方が妥当と考えられます。前回の投稿でも、「施行」の読み方には「せこう」と「しこう」の2通りがある、という例示をしましたが、思ったよりこの種類の単語は多く、しかも比較的頻繁に見かけるようなので、あらためて追加説明をしたいと思います。以下の実例を参照ください。

 (なお、以下の例の大部分は以前にインターネット上で見つけてメモしておいたものです。しかし今現在、出典が分からなくなってしまいました。悪しからず。)

 

黒子  「くろこ」と「ほくろ」

人気  「にんき」と「ひとけ」

気質  「きしつ」と「かたぎ」

大人  「おとな」と「たいじん」

今日  「きょう」と「こんにち」

一目  「ひとめ」と「いちもく」 

見物  「けんぶつ」と「みもの」

市場  「しじょう」と「いちば」

工場  「こうじょう」と「こうば」

細々  「ほそぼそ」と「こまごま」

泡沫  「ほうまつ」と「うたかた」

出所  「しゅっしょ」と「でどころ」

心中  「しんじゅう」と「しんちゅう」
(以上、順不同。)


 上述1の例に比べると明らかに意味が異なるものが多く、前後の単語や文脈を捉えていれば誤読される懸念は比較的少ないとは考えられます。

 それでも「細々」あたりは、意味が比較的に近いため、フリガナをふっておく方が安全であると考えられます。また、文頭に置かれた「今日は」の読みを、日にちを表す「きょうは」と挨拶の「こんにちは」のどちらかで読み惑うことは、ラジオ番組などで視聴者からの投稿を読み上げる際の失敗としてときどき聞きます。

 ちなみに個人的には、「人気が無い」という言葉が段落の冒頭にあると、一瞬だけ「にんきがない」と「ひとけがない」のどちらかなのかを迷うという経験が多いです。更にこれも個人的に読み間違う例なのですが、「大人気無い(おとなげない)」を瞬間的に「だいにんきない」と誤読しがちです。日頃から心掛けている速読の副作用でしょうか.....

 

 

6月2日は「ルビの日」

 本日6月2日は「ル(6)ビ(2)」の日です。前回の投稿で追記した「ルビ財団」が(日本記念日協会に登録)制定し、2025年から発効しているとのことで、本日の投稿はこの意識高揚活動に細やかながら呼応したものです。

 フリガナが、それも総ルビの普及が社会的な観点からして重要であると考えている理由については、前回の投稿だけではなく、ルビ財団のホームページをご覧になっていただければ更に理解が深まるものと思います。

 

 ところで、昨年2025年(令和7年)5月26日から戸籍登録上、氏名のフリガナを必須として記載する制度が施行され、役所から皆さん一人一人に対して、戸籍システムに登録されたフリガナが正しいか否かを確認する旨の通知ハガキが届いたはずです。

 この件の趣旨としては行政側として、(イ)特定の漢字に複数の字体(例:斎、齋、齊)が存在していることによって、各種手続きの準備・確認に長時間を要していた問題を解消することや(ロ)住民票の写しやマイナンバーカードにフリガナを記載できるという利便性が増すこと、(ハ)金融機関等において複数の振り仮名を使用して別人を装うという不法行為を防止する目的があるということでした。つまりお役所でもフリガナが無いことによる不都合が以前からあったということだったのです。

 個人的には、戸籍というものは長年運用されてきた信頼できる制度であると認識していたので、いまに至るまでフリガナが正式な記録では無かったという点に少し驚きを感じました。それでも行政側がいつかは済ませておくべきであったと理解しています。

 

 前回の投稿でも「そもそも人名や地名については、どうしても固有の読み方が決まっている」ことを、フリガナの必要な理由の一つとして指摘しましたが、やはりどうにか人名と地名だけでもフリガナを義務化できないものかという思いを強くします。

 なお、人名については本人そして名づけ親が正確唯一の読み方を理解しているのに対して、地名の読み方については統一された明確なルールは無いのだそうです。人間には必ず寿命があるため、人名の基本的な使用期間はせいぜい100年くらいに限定される性質のものです。それに対して地名は軽く100年以上ずっと使用される性質であること、現在の地図に記載されている地名とは別に地元住民が呼びならわしている別称などがあること、歴史的な経緯(領主の交代や廃藩置県などなど)によって使わなくなった古い地名も記録・把握しておく必要があることなどの理由から、地名に関するフリガナの必要性はより高いと感じます。

 

 さらに余談になりますが、外国人向けにローマ字でルビを振ることが増えても良いと思っています。例えば漢字で「高市 早苗」と書いた上に「Takaichi Sanae」というルビを振れば、外国人にも漢字を読む体験ができるというわけです。 実際のところ、駅標などは漢字の駅名にローマ字のよみがなが併記されていることは既に一般的なので、これの単純な横展開にあたります。ただし、ひらがなとローマ字の両方をルビに置くことは無理なので、場面は限定するよう注意しなくてはいけないでしょう。

 

 さてここで、昭和の半ばくらいまでは日常的に見られた総ルビが、なぜ現代ではほとんど見られなくなってしまったのかという点について簡単に調べてみましたので紹介いたしましょう。

 ひとつの背景は1946年(昭和21年)に常用漢字(当時の呼び方は「当用漢字」)が制定されたことです。すべての国民が読める漢字の範囲を確定したので、それまで新聞や書籍などで制約無しに使っていた難しい漢字は姿を消し、誰でも読める(はずの)漢字だけになったので、当然ルビは不要と判断されたということだそうです。

 また、戦前くらいまでは日本の義務教育は必ずしも常識ではなく、とくに当時のお年寄りの中には、少し難しい漢字になると読めない人が多かったであろうことは想像に難くありません。そうした世情を前提にするならば、ルビの必要性は非常に高かったということになります。(逆に、士族出身で中国の古典を白文で読めるような教養人は、現代よりも多かったことでしょう。)しかし義務教育が全国民に徹底されて完全に常識となれば、漢字を使うことに遠慮は要らずルビも要らない(はず)という考えに至るのも、当然のことだったのでしょう。

 もうひとつは印刷現場の労働問題です。かつての印刷現場では「植字工」という職人さんが1文字ずつ鉛製の直方体である「活字」を紙面に並べる手作業をしていました。なかでもルビについては極小の活字をピンセットで埋め込んでいたのです。これを一文字の誤りなく正確かつ大量に処理するのは相当緻密な重労働であったに違いありません。したがって印刷現場においてもルビの削減・廃止は効率化の面で歓迎すべき変化であったことでしょう。

 またもう一点追加すると、ルビが廃止された後で、紙面がすっきりと見えるようになる、逆にたまにルビが多い本を読むと「古臭い」「文字面がうるさい」という不快感を多くの人が経験したというのです。これでは「また総ルビに戻そう」とはならないでしょう。特に古い本に見られるのは古い活字(書体や線の太さ)なので、ルビを邪魔と感じるという感想についてはたしかに納得できます。

 以上、ルビ廃止の背景を一通り確認してみましたが、かえって現代では再びルビ(フリガナ)の必要性や有用性が見直されるという意見にも理解いただけそうな気がしてきます。常用漢字で運用したとしても日本語の文章の読解には難しさは残っており、コンピュータ化によるデスクトップパブリッシングが常識となった現在では植字工は不要で、フォント(書体や線の太さ)は改善・洗練されて見やすくなっているなど、総ルビを振ることのハードルはかなり低くなっていると思われます。

 皆さまはどう思われますか?

 

 

 

******** 2026年6月5日追記 ********

  ひとつ気掛かりな点が思い浮かびました。 なにせ「表現の自由」が当たり前になってる現在では、ルビを振ることがドンドン広まると、今度はルビの”濫用”、”悪ノリ”も広まるのではないかということです。

 書き手がその時の気分で自由気ままに”漢字の意味するところ”をルビにしてしまうと、漢字本来のフリガナが逆に分からなくなってしまう危険性があるでしょう。例えば「衒学的」と書いて「ペダンチック」というルビをつけたり、「段階的」と書いて「ステップバイステップ」とうルビを見た記憶があります。こうなるともう「フリガナ」でも「ヨミガナ」でもない何かまた別の文章表現と理解しておくべきでしょう。

 前回の投稿では「5. 日本語の表現を豊かにする」と考えていたものの、さすがに書き手が悪ノリしてしまうと、結局また日本語の文章の読み難さが今後も続くのかという心配が先に立つのです。まぁフリガナが普及してゆく先にある課題であって、余計な老婆心ではあります。

******** 2026年7月3日追記 ********

 ルビ財団ファウンダーの松本大氏による「『振り仮名』があれば、学力は上がるのか」(ポプラ新書 2026年6月24日発売)が出版されていることを知って、読んでみました。さすがに開成&東大は向学心や探求心が違う。

 「もっとフリガナを! 2027」という投稿は不要になりましたね。