AirLand-Battleの日記

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現代をより良く生きるための「五常」入門

 20年くらい前までは、政治家や教育者のお歴々がスピーチの中で、「五常(ごじょう)の精神で云々」という常用句が使われていた記憶があります。しかしそもそも20年くらい前の当時にあっても、「五常」という言葉の意味を理解していた人は少数派であったような気もします。それでも聴衆を選んで「五常」という言葉を使っていたということは、ある程度の知識層にとっては常識とされる概念であったということでしょう。

 今回は、この「五常」の意味とその成り立ち、現代的な価値を再評価してみようと思います。

 

1. 五常とは何か?

 「五常」とは、儒教の上で人間が常に守るべき五つの徳目である「仁・義・礼・智・信」を指します。

 その原型は、紀元前五世紀頃に儒教の祖である孔子(B.C.551あるいは552~B.C.479)が説いた教えにあります。その後、四世紀頃の思想家・孟子(B.C.372~B.C.290)が「仁・義・礼・智」の四つを、人間が生まれながらに持つ善性の兆し「四端」として整理しました。(儒教の「性善説」ですね。)そして紀元前二世紀、前漢時代の儒学者である董仲舒(B.C.176?~B.C.104)が、そこに「信」を加え、五項目を一式として体系化しました。

 この五つは、それぞれが以下のような道徳上の意味を持っています。

  • 仁(じん): やさしさ、慈しみ、思いやり。他者を愛し、相手の痛みを自分のこととして捉える、五常の根本をなす感情です。

  • 義(ぎ): ただしさ、正義、利欲に打ち勝つ心。私利私欲に走らず、「なすべき正しい道」を貫く意志の強さを指します。

  • 礼(れい): つつましさ、礼儀、社会の秩序。内面の「仁」を、挨拶や作法という具体的な形にして表す社会的なマナーです。

  • 智(ち): かしこさ、知恵、是非の判断。学問に励み、何が正しく何が偽りであるかを冷静に見極める、個別学問の知識を越えた知性です。

  • 信(しん): たしかさ、誠実、信頼。言葉と行動を一致させ、相手を欺かない、人間関係の土台となる地盤です。

 これら五項目は、どれか一つが欠けても人間としてのバランスを崩してしまいます。感情、意志、行動、知性、そして信頼。人間活動の道徳の諸相をよく網羅しているからこそ、「五常」は時代を超えて尊重されてきたものと考えられます。

 

2. 伊達政宗が喝破した「五常の罠」

 しかし、これらの美徳も、ただ盲目的に守ればよいというわけではありません。この「理想論」に対し、きわめて現実的な視点から批判的に注意を促したのが、戦国時代から江戸時代初期を駆け抜けた武将「独眼竜」伊達政宗(1567~1636)です。

 伊達政宗は、儒教を深く学んだ文化人でありながら、同時に戦場という苛烈な現実を生きるリアリストでもありました。彼は『伊達政宗卿五常訓』において、五常が「行き過ぎた場合」の弊害を具体的な言葉で鋭く指摘しています。

  • 「仁に過ぐれば弱くなる」 優しすぎるリーダーは、部下の甘えを許し、組織の決断を遅らせます。情に流されれば、守るべきものも守れなくなります。

  • 「義に過ぐれば固くなる」 正論ばかりを振りかざし、理屈を詰めすぎる人は、周囲を萎縮させます。融通の利かない「正義」は、時に人間関係を壊す凶器となります。

  • 「礼に過ぐれば諂(へつら)いとなる」 丁寧すぎる態度は、相手に「何か裏があるのではないか」という不信感を与えます。形だけの礼儀は、心のこもっていない「お世辞」に成り下がります。

  • 「智に過ぐれば嘘を付く」 頭の回転が速すぎると、効率よく状況をコントロールしようとして、その場しのぎの計算高い嘘をつくようになります。知恵が「悪知恵」に転じる問題です。

  • 「信に過ぐれば損をする」 何でも無批判に信じ込み、疑うことを知らない人は、悪意を持つ者に利用されます。真の信頼とは、相手を冷静に見極める「智」に支えられていなければなりません。

 伊達政宗のこの指摘は、非常に珍しいものです。当時の価値観では、聖賢の言葉は絶対的な重みを持っていました。しかし伊達政宗は、絶対的とされている美徳であっても「過剰になれば毒になる」という、いわゆる”中庸”の重要性、本質の理解、批判的継承を説いたのです。これは現代の組織運営やマネジメントにおいても、極めて重要なアドバイスと言えます。

 

3. 中国における五常への批判

 実は中国においても、儒教道徳への批判、それも儒教の外からの批判は古くからありました。しかし、それは伊達政宗の説くものとは少し毛色が異なっています。

 例えば、老子や荘子に代表される「道家」は、そもそも五常のような「人工的な道徳」を定めている時点で、人間が自然な良心を失っている証拠だと厳しく批判しました。「本来の『道』が廃れたから、わざわざ『仁』などと言い出したのだ」(「老子」18章)というわけです。

 また、韓非子に代表される「法家」は、「仁」や「愛」のような主観的な感情では国を治められないとし、厳格な「法」による統治を主張しました。

 これらと比較すると、伊達政宗の視点がいかに独特かがわかります。彼は儒教という基盤を否定せず、その優れた価値を認めながらも、現実の社会で正しく機能させるための本質の必要性を説いたのです。これは、一つの組織や家を長く持続させようとする、戦国武将らしいリアリズムが生んだ知恵と言えるかもしれません。

 

4. 現代社会における「五常」

 さて、二千五百年前に生まれ、四百年前に伊達政宗が解釈を加えた日本の「五常」は、現代人に何をもたらすのでしょうか。

 現代は、かつてないほど「自律性」が求められる時代です。以前のように、会社や地域社会が一方的に「こう生きなさい」という型を押し付けてくれるわけではありません。私たちは自分で自分を律する必要があります。そのための自己診断シート、節句リストとして、「五常」は非常に高い網羅性を持っています。

 例えば、仕事でプロジェクトを推進する際、自分の状態を五常で振り返ってみてください。

  • 「メンバーへの思いやり(仁)は十分か?」

  • 「その計画は社会的に正しい(義)か?」

  • 「協力者への誠実な振る舞い(礼)ができているか?」

  • 「情報を正確に分析し、本質を見極めて(智)いるか?」

  • 「言行一致(信)を貫き、信頼を得ているか?」

 もし、どこかで行き詰まりを感じているなら、どれかの要素が欠けているか、あるいは伊達政宗が警告したように「過ぎて」いる可能性があります。優しすぎて決断が遅れていないか(仁の過剰)、あるいは正論を押し付けすぎて反発を買っていないか(義の過剰)といった具合です。

 

5. 「五常」を生きた知恵にするために

 儒教の教えは、時に窮屈で昔の社会体制に生きていた規範のように感じられるかもしれません。しかし、時代を超えた人間のあるべき姿とその要素として捉え直せば、見方は変わるかもしれません。

 伊達政宗が古典の言葉を鵜呑みにせず、自らの経験と照らし合わせて批判的な注意を加えたように、現代においては、これらの言葉を自分の現実の生活に照らして解釈することが大切です。

 「仁・義・礼・智・信」。 この伝統的な五つの徳目は、社会という荒波を渡るための、古くて新しいチェックリストとも言えます。完璧な人間を目指す必要はありませんが、日々の生活の中で「どの徳目が足りないか、あるいは過ぎているか」と立ち止まって考える。その自省が、現代社会を賢く、そして豊かに生き抜くためのひとつのアイデアになるはずです。