現実の社会にはニュースにならない「当たり前」が溢れています。毎朝電車が定刻通りに来ること、水道をひねれば美しい水が出ること。これらは社会の健全な「常態」であり、わざわざ報じる必要はありません。
しかし、もしその「当たり前」の中身が、社会のルールに反するような問題や異常、悪弊だったとしたらどうでしょうか。
「以前からみんな知っていたけれど、それが日常だったからニュースにしようと思わなかった。」
最近、日本のメディアが過去の不作為を釈明する際、こうした言葉をよく耳にすることもあります。なぜ、報道機関は「目の前にある明らかな異常」を、それが長年続いているという理由だけで見過ごしてしまうのか。そして、その麻痺した日常を打ち破るには何が必要なのか。ジャーナリズム論や社会学の知見を交えながら、日本社会が抱える汚い伝統について解き明かしてみたいと思います。
1.異常が日常
まず、具体的にどのような「異常な常態」が社会に見過ごされているのか、二つの事例を振り返ってみましょう。
一つ目は、日本の国会における「質問通告」の遅れです。野党議員が国会質問の内容を与党や官僚側に事前に伝える猶予期限は「質疑の2営業日前の正午まで」と、与野党の申し合わせによって決まっており、行政側が答弁を準備するための重要なルールです。しかし、多くの議員がこの期限を守らないことが、2025年11月に報道されました。驚くべきは、これがたまたま報じられた際、与党議員も報道関係者も「何を今さら、そんなものは以前から当たり前の光景(常態)だ」と受け止めていた点です。ルール違反が日常化し、ニュース価値のあるものだと認識していなかったのです。
二つ目は、旧ジャニーズ事務所による芸能界への不当な圧力や介入、そして所属タレントへの性加害問題です。2023年3月のイギリスの公共放送による報道をきっかけに日本でも大きな社会問題となりましたが、日本の芸能記者やメディア関係者にとって、この事務所の横暴は長年続く業界の「常態」でした。あまりにも長くその状態が続いたため、メディア各社はそれを特別なニュースとして記事にするという考えにすら至らなかったと釈明しています。
なぜ、これほど重大な異常が、報道の網の目から抜け落ちてしまうのでしょうか。ジャーナリズム論では、これをメディアの「ニュース価値」という基準から説明します。
メディアが最も重視する基準は「突発性(事件性)」や「新奇性(新しさ)」です。ジャーナリズムの世界には「犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛めばニュースになる」という有名な格言があります。日常に溢れている出来事は、どれほど理不尽であっても既知の事実としてスルーされやすいのです。
「今日、新しい事件が起きた」という「点」の出来事は簡単にニュースになります。しかし、「10年前からずっと悪い状態が続いている」という「線」の出来事は、昨日と今日で変化がないため、ニュースとしての価値が低いと判断されてしまいます。こうして、異常な状態は日常の中に深く溶け込み、社会の盲点となっていくのです。
2. 報道機関の感覚麻痺
通常の会社組織であれば、現場に新しく入ってきた人間が「これっておかしくないですか?」と素朴な疑問を口にしたとき、開明なリーダーがいればその意見を吸い上げ、業務改善や不正の是正に動くことができるはずです。
しかし、報道機関という組織においては、こうした「新鮮な目」が機能しにくい独自の防壁が存在します。
第一に、強力な組織社会化(同質化)のプロセスがあります。新人ジャーナリストが現場に配属されて最初に叩き込まれるのは、既存の「ニュース価値の型」です。「他社より1分でも早く事件を抜くこと」が優秀な記者の証であると教えられる環境において、新人が「国会の質問通告遅れは問題ではないか」と疑問を呈しても、「そんな効率の悪い愚痴を追う暇があったら、明日の法案の動きを追え」と先輩やデスクから一蹴されてしまいます。これを繰り返すうちに、新人は「自分の感覚の方が未熟なのだ」と錯覚し、独自の違和感を自ら封じ込めるようになっていきます。
第二に、報道の「生産コスト」という現実的な壁があります。事件の報道であれば、発生から解決までのタイムラインが見えやすく、人員の配置も計算できます。しかし、長年続いている構造的な異常を証明するためには、数ヶ月から数年にわたる地道な調査、膨大なデータの裏付け、多方面への取材が必要となり、膨大な時間とコストがかかります。決裁権を持つ管理者から「で、なぜ今それを報じる必要があるのか?」と問われたとき、明確な「今起きている事件(フック)」を提示できない企画は、どれほど本質的であっても組織の中でボツになりやすいのが実情です。
さらに、報道機関特有の強力な「縦割り体質」も改革を阻みます。政治部、社会部、芸能部といった各部署は高い独立性を持っており、たとえ組織のトップが開明的な人物であっても、現場の記者クラブや利害関係に深く組み込まれた各部署の「暗黙の了解」をトップダウンでひっくり返すことは容易ではありません。取材対象と密接になりすぎる「アクセス・ジャーナリズム」の弊害により、記者自身が業界の歪んだ常識を内面化し、感覚を麻痺させてしまうのです。
3. 行政機関における陳情の放置
この常態化した異常を見過ごすという病理は、メディアだけでなく、私たちの行政機関にも全く同じ形で見られます。
例えば、消費者庁や国民生活センターには、年間で約100万件もの膨大な苦情や相談が寄せられています。その中には、長年にわたって同じような悪質商法の被害を訴える悲痛な陳情が数多く含まれています。しかし、これらもまた行政の構造的なボトルネックによって放置という名の常態化を招いています。
行政が動くためには、明確な法律という武器が必要です。市民が明らかにおかしいと声を上げても、現行法の網の目を巧みに潜り抜ける悪質業者に対して、行政は「民事不介入」や「法的な根拠の不足」を理由に、直ちに厳正な処分を下すことができません。
また、一つの苦情に対して、契約の観点は消費者庁、詐欺の観点は警察、通信プラットフォームの規律は総務省というように窓口が縦割りにされているため、新人が問題意識を持っても、組織の境界線でボールが止まってしまう「たらい回し」が起こります。結果として、行政もまた「今まさに炎上している大事件」の火消しに追われ、地味ながら長年続いている日常的な被害の改善を後回しにしてしまうのです。
行政は「間違えてはならない(無謬性)」という原則に縛られているため、前例のない新しいリスクに対して自発的に動くことを恐れます。皮肉なことに、長年の陳情が積み重なっている段階では動かず、メディアがそれを大事件として大々的に報じ、世論が激しく燃え上がって初めて、政治主導で法改正のスピードが上がるという歪んだ連動関係が存在しています。
4. 本当の報道の力
行政や司法、そして社会の麻痺を解き、凍りついた「常態」を動かす唯一の手段は、やはりジャーナリストによる厳しい報道が大きいと思います。(他に「外圧」もありますが、これは別の機会に触れたいと思います。)過去、それまで「仕方のないこと」「よくある不幸な事故」として処理されていた理不尽を、報道の力によって「許されざる犯罪」へと再定義し、法改正へと直結させた事例は国内外に存在しています。
日本における「煽り運転」の厳罰化
2017年に東名高速道路で起きた夫婦死亡事故の当時、警察はこれを「停車中にトラックが追突した、通常の交通事故」として処理しようとしていました。道路上での強引な割り込みや威嚇行為は、それまでドライバー同士の「よくある小競り合い(常態)」として見過ごされがちだったからです。 しかし、当時の一人の新聞記者が、遺族の訴えをすくい上げて現場検証と取材を重ね、これが単なる事故ではなく「進路を塞がれた末の事件」であることを執拗に報じ続けました。この報道が国民的な怒りを呼び起こし、それまで法律になかった「妨害運転罪」が2020年に異例のスピードで新設され、最高で5年の懲役という重罪へ処罰基準が劇的に変わりました。
アメリカにおける「カトリック教会・神父の性的虐待隠蔽」
2002年、米ボストン・グローブ紙の調査報道チームが暴いた、カトリック教会の組織的犯罪です。神父による児童への虐待は、何十年も前から被害者の間で悲鳴が上がっていましたが、教会の絶大な権力を前に「神父の異動」という身内の処理で隠蔽されるのが常態化していました。 メディアが単一の事件ではなく、教会が「組織的・構造的」に加害者を循環転任させて被害を拡大させていた事実を膨大なデータで証明したことで、全米の多くの州で児童性的虐待の公訴時効が大幅に延長・撤廃され、聖職者への通報義務化法が成立しました。
イギリスにおける「ストーキング行為」の犯罪化
1990年代初頭まで、イギリスや日本を含む多くの国では、別れた相手などが執拗につきまとう行為は、肉体的な暴行がない限り「男女間のプライベートなもめ事(常態)」であり、警察が介入できないのが当たり前でした。 しかし、メディアがつきまといの恐怖に怯えた末に殺害された女性たちの悲劇を繰り返し報道し、これが「重大な精神的暴力」であるという視点を社会に提示したことで、1997年にイギリスで「嫌がらせ防止法」が制定。これが世界的なモデルとなり、日本のストーカー規制法へとつながっていきました。
社会学では、これらの現象を「額縁(フレーム)の転換」と呼びます。事実そのものは昔から変わらないのに、その事実を囲む額縁をメディアが架け替えることで、社会の認識が180度変わるのです。「不注意による自動車事故」という額縁を「車を使った殺人」へ、「熱烈な片思い」という額縁を「精神的テロ行為」へ。 ジャーナリストが、社会の麻痺した古い額縁を破壊し、新しい額縁を提示したとき、人々の怒りは法や司法を動かす強力なエネルギーとなります。
5. 国民に求められる視点
冒頭の国会の事例や芸能界の事例が示す通り、メディア自身もまた、容易に「常態」という名の麻痺に陥る組織です。司法が法改正の瞬間に手のひらを返したように厳罰化へ豹変する姿には、どこか信念の無いご都合主義を感じざるを得ません。しかし、行政も司法も、基本的には「このまま放置すれば、自分たちが国民からの信頼(正当性)を完全に失う」という恐怖を感じない限り、自発的に古い前例を捨てることはないのです。
だからこそ、メディア組織の中に「調査報道専門チーム」を常設し、日々の事件追いから切り離された記者が先入観のない目で社会の歪みを掘り起こす構造改革が、今まさに求められています。年次に関係なく、新人の素朴な違和感を匿名で募り、社会の疑問に直接予算をつけて取材させるような仕組みを導入し始めている報道機関も、近年ようやく現れ始めました。
市民の「これっておかしくないですか?」という素朴な苦情や、新人のジャーナリストが最初に抱く違和感は、社会の不具合を知らせる最も正確なセンサーです。
日本国民も、メディアから流れてくる「今日の新しいニュース」だけを消費する存在では不十分です。むしろ、報道が沈黙している「いつも通りの光景」の中にこそ、最も深い歪みが隠れているかもしれないという視点を持つこと。そして、ブログやSNS、消費者団体などを通じて「おかしい」という声を可視化し続け、政治やメディアの優先順位を無理やりこじ開けていくこと。
「常態」という名の麻痺に抗い訴え続けることこそが、歪んだ社会の「闇」を照らし是正していく希望になると思いませんか?