先日「『国連中心主義』には見直しが必要」という題で投稿しましたが、内容が批判ばかりで分析が逆に甘いのではないか? ちっとも"AirLand-Battle"になっていなかったように思えて反省していました。そこで今回は国際連合について、その組織と機能、そして見逃すことのできない貢献について確認してゆきたいと思います。
国際連合という組織に対して、どのようなイメージを抱いているでしょうか。世界の平和を守る正義の味方でしょうか、それとも大国の利害に振り回される形骸化した組織でしょうか。現在も続くウクライナ情勢やガザ地区の深刻な対立を目の当たりにする中で、「国連は何もできないのではないか」という失望感や批判的な視線が強まっているのは紛れもない事実です。
しかし、私たちは国連の「機能不全」ばかりに目を奪われ、この組織が持つたま別の重要な側面を見落としてはいないでしょうか。今回は、国連に集まる手厳しい批判を当然の前提としつつ、それでもなお国連が国際秩序の上で存在し続けなければならない理由、そして日本社会が今後この組織とどう向き合うべきなのかを、整理して考えてみたいと思います。
第一章:なぜ「役に立たない」と批判されるのか
まず前提として、近年の国際社会において国連に向けられている代表的な批判意見を整理しておきましょう。国連に対する不満の多くは、世界の安全保障を担う「安全保障理事会」の構造的な限界に起因しています。
国連に対する最も深刻な批判は、5つの常任理事国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国)に与えられた拒否権の存在です。どれだけ世界の大半の国々が平和的な解決を望み、決議に賛成したとしても、常任理事国のうち1カ国でも反対すれば、その決議は完全に無効とされてしまいます。当事国やその同盟国が議論を強制終了できるこの仕組みは、大国間の対立を抑止する上での致命的な弱点となっています。
また、この安保理の構成自体が1945年の第二次世界大戦終結当時のままであり、現代の国際社会の現実を反映していないという「代表性の欠如」も大きな問題です。アフリカ大陸や南米大陸からは常任理事国が1カ国も選ばれておらず、グローバル・サウスと呼ばれる新興国・途上国の不満は高まる一方です。
さらに、国連は主権国家を強制的に従わせる権限を持っていません。国連総会での決議には法的な強制力がなく、あくまで「国際社会の意思表示(勧告)」にとどまります。実効性の薄い経済制裁や口頭での非難しか打てない現状に対し、「控えめな調停役にすぎない」という冷ややかな視線が向けられるのは、ある意味で当然の帰結と言えます。
こうした国連本体の機能不全に加え、国連の専門機関と呼ばれる内部組織や付属組織でも、政治的な思惑が絡んだ不透明な動きが批判を浴びてきました。
たとえば世界保健機関(WHO)は、2020年以降の新型コロナウイルス感染症の発生源調査において、中国・武漢への初期対応やデータ分析調査の局面で「中国に甘すぎるのではないか」という強い疑念を持たれました。WHOには現地への強制捜査権がないため、受け入れ国の意向に配慮せざるを得ないという構造的な限界があったのです。また、これよりさらに数十年前の1970年代から1980年代にかけては、国連教育科学文化機関(UNESCO)において、数の上で圧倒的多数を占めた発展途上国がソ連陣営と結びつき、報道の自由を規制しようとする構想を推進するなど、組織の運営が歪められたと指摘される出来事もありました。この時は、全体の予算の約25%を負担していたアメリカが反発して一時脱退するという事態にまで発展しています。
このように、国連は理想的な国際秩序のリーダーなどではなく、多くの国々の利害争いと政治の思惑が渦巻く伏魔殿であるというのが、直視すべき厳しい現実です。
第二章:それでも国連が発揮できる「4つの役割」
これほど多くの機能不全と限界を抱え、大国からも小国からも不満を言われながら、なぜ国連は解散されずに今も存在し続けているのでしょうか。それは、国連がこれまでの歴史において、他のどんな組織でも代わりの利かない決定的な役割を果たしてきたからです。ここで国連のそうした存在意義を、大きく4つ挙げてみます。
第一に、政治から離れた現場の実務力において、人類の歴史に残る偉大な功績を挙げている点です。安保理のような派手な政治の舞台では機能不全が目立ちますが、保健、教育、人道支援といった実務分野での実利は計り知れません。
その最たる例が、WHOによる「天然痘の根絶」です。1980年、人類を数千年にわたり苦しめてきたこの恐ろしい感染症の根絶が宣言されました。これは、世界中の国家が一致団結して一つの病気を地球上から完全に消し去った、人類史上唯一の事例です。また、国連児童基金(UNICEF)は年間数百万人の子供たちの命を救い続け、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は国家から見捨てられた何千万人もの難民の最後の砦となっています。こうした地道な実務が評価され、国連システムやその関係者はこれまでに何度もノーベル平和賞を受賞しています。2001年には国連本体とコフィー・アナン事務総長が共同で受賞しましたが、これも単一の和平合意への評価ではなく、貧困や病気の撲滅を目指す「ミレニアム開発目標(MDGs)」の提示など、新世紀の課題に立ち向かうための唯一のプラットフォームとして国連を再定義したという、長期の貢献に対する総合評価でした。
第二に、「第三次世界大戦」を80年以上防ぎ続けているという点です。国連の存在意義は、人類を理想郷に導くことではなく、破滅的な地獄に落ちるのを防ぐことにあります。1962年のキューバ危機のように、核戦争の一歩手前までいった極限状態の冷戦期であっても、米ソの両大国が国連安保理という公式の舞台で激論を交わし、水面下で対話を継続できたことが、全面衝突を回避する安全弁となりました。銃を交える代わりに、言葉の刃を交えてガス抜きをする場所があること自体に、目に見えない巨大な価値があります。
第三に、私たちが日々生活する上で欠かせない国際ルールを定め、社会の土台となる必要・有益な統計調査をリードしている点です。海外への飛行機移動を支える国際民間航空機関(ICAO)の基準、国際郵便を可能にする万国郵便連合(UPU)の取り決め、あるいは地球温暖化対策の「パリ協定」や「国連海洋法条約」にいたるまで、世界は国連が作った膨大なルールというインフラによって動いています。さらに、各国の経済力を測る「国民経済計算(SNA)」の基準や、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の科学的データなど、世界が感情論ではなく事実に基づいて議論するための共通言語を提供できるのは国連統計委員会を擁するこの組織しかありません。
第四に、民間活動団体(NGO)の国際化・世界的組織化を支援し、小国や弱者の発言権を守っている点です。国連経済社会理事会(ECOSOC)は、公益性のある民間のNGOに対して諮問資格を与える制度を持っています。これにより、国内では小さな環境保護グループや人権団体であっても、国連という国際舞台を通じて世界的なネットワークへと成長し、大国と対等に声を上げるチャンスを得ることができます。もし国連がなければ、世界は完全に軍事力と経済力だけで全てが決まる弱肉強食のジャングルになってしまうでしょう。
第三章:これからの国連の現状と予測
「国連がなくても、有志の国々や民間の力でデータの調査や業界標準の策定はできるのではないか」と考える向きもあるかもしれません。しかし、民間規格や特定の有志国によるルールは、どうしても「強者の論理」や一部の利益に偏りがちです。発展途上国から超大国にいたるまで、地球上のほぼ全ての国々(約190カ国以上)を漏れなく網羅し、「自分たちも当事者として参加している」という納得感を与えられる普遍性こそが、国連というプラットフォームの唯一無二の強みです。
では、今後の国連は今後どのような未来をたどるのでしょうか? 世界的な国連批判の広がりによって、その活動は縮小していくのでしょうか?
現実的な予測として、資金の慢性的な危機に直面しつつも、代替組織がないため縮小・解体まではいかず、機能の二極化が進むと考えられています。
現在、国連の通常予算は多くの大国の分担金滞納によって常に現金の枯渇危機に瀕しています。また、各国が拠出する資金も特定のプロジェクトにしか使えないという縛りがつけられる傾向が強まっており、運営の柔軟性が奪われています。
今後は、安全保障や政治の分野においてはさらなる機能不全と形骸化が進み、実際の安全保障は主要国による有志国連合(ブロック政治)へとシフトしていくでしょう。その一方で、先に挙げたWHOやUNHCRなどの現場の実務・人道分野は、「絶対に無くせない世界の共通インフラ」として、苦しい財政状況の中でも最低限の維持、あるいは選択と集中をしながら存続していくと見られます。
ここで日本社会として特に警戒すべきは、欧米諸国が国連軽視に動いたり資金を減らしたりした隙を突いて、中国が国連の専門機関のトップの座や予算の主導権を次々と握りにかかっているという現状です。中国は国連の持つ「網羅性と普遍性」の価値を極めてしたたかに計算しており、国連の枠組みを使って自国に有利な次世代の国際ルールや技術標準を確立しようとしています。
日本社会には長年、国連憲章に「敵国条項」が残されていることへの不満や、過剰とも感じられる多額の負担金を支払いながらもそれに見合う発言権(安保理常任理事国入り)が得られないことへの拭いきれない不満が存在します。国連に対する期待が大きかった分、現在の機能不全に対する失望や懐疑論が根強いのは歴史的な経緯からも当然かもしれません。
しかし、だからといって日本社会が「国連は役に立たないからお金も出さない、関与も減らす」という安直な選択をしてしまえば、その後に生じた空白を他国に埋められ、将来的に日本社会にとって著しく不利益な国際ルールが正統な手続きで作られてしまうというブーメランとなって返ってきます。
国連とは、国際社会の現実の縮図と言えるでしょう。国連が歪んでいるとき、それは世界そのものが歪んでいることを示しています。日本社会に今求められているのは、国連という組織に過度な理想を追い求めるのをやめ、その「限界」を客観的に見極めつつも、世界を網羅する「実務のハブとしての機能」を自国の国益と世界の安定のために戦略的に使い倒すという、大局的・長期的で強かなアプローチなのではないでしょうか。