日本の現代社会において、あらゆる不安や閉塞感、公的システムの危機の背景にある最大要因のひとつは少子化問題でしょう。いまや誰もが認める日本社会の危機ですが、この問題は決して突発的に起きたわけではありません。
数十年前からデータが破局を示し、専門家が警告を発していたにもかかわらず、なぜ日本社会は手遅れになるまで具体的な手を打てなかったのでしょうか。欧米の歴史的な知見や、日本社会が陥ったポピュリズムの弊害を確認しながら、この「スロー・モーション・クライシス(ゆっくり進行する破局)」の正体を整理してみたいと思います。
1. 始まりは1990年ではない
多くの人々にとって、日本の少子化問題が公に認識されたのは1990(平成2)年6月のことでした。前年の合計特殊出生率が、それまでの過去最低値であった1966年の「ひのえうま」の年の数値を下回る「1.57」を記録した、いわゆる「1.57ショック」です。この時初めて、メディアや公文書で「少子化」という言葉が本格的に使われ始めました。
しかし、政府の公式レポートである白書を遡ると、これより15年も前から不穏な兆候ははっきりと指摘されていました。
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1974(昭和49)年の「人口白書」 日本の出生率が、人口を維持するのに必要な水準を下回り始めたことを受け、厚生省(当時)の審議会は将来的な人口減少の懸念に初めて言及しました。
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1976(昭和51)年の『経済白書』・『厚生白書』 出生率が2.0の壁を割り込み、1.91を記録したことで、白書には「労働力人口の高齢化」や「社会保障負担の増大」という、現在の危機そのものの原型となる言葉が早くも明文化されていたのです。
さらに1980年代には、大内兵衛(1888~1980)をはじめとした人口学の有識者、また社会学者の金子勇氏らが、女性の進学率上昇や晩婚化、都市化による育児の孤立化をデータから導き、「これは一時的な現象ではなく、社会構造が生み出した歪みである」と論文や著作で警告を発していました。
つまり、日本社会には少なくとも15年以上の予期された猶予期間があったのです。
2. 欧米の常識と日本の過信
実は、「近代化が進み、経済が豊かになれば、どの国もいずれ少子化(人口減少)に行き着く」という仮説は、20世紀前半にはすでに欧米の人口学者の間で「人口転換理論」として確立されていました。
例えば、フランスの社会学者アルセーヌ・デュモン(1849~1902)は、すでに1890年の時点で「民主主義社会になり、個人がより高い階層へ出世したいと願うようになると、子どもを持つことが経済的・時間的な負担になる」という「社会的毛細管現象」を唱えていました。また、1934年にはスウェーデンの経済学者アルヴァ・ミュルダール(1902~1986)らが「子どもが純粋な消費(負担)に変わった以上、子育ての経済的負担を社会全体で肩代わりしなければ少子化は止まらない」と喝破していました。
欧米の先進国において、少子化は避けて通れない共通の常識となっており、それゆえにフランスやスウェーデンといった国々は、1970年代後半から1980年代にかけて、保育インフラの整備や、男性の育児休業、事実婚への法的保障など、国家の構造そのものを変える本腰を入れた施策に先手を打っていました。
日本の専門家や官僚も、こうした欧米の事情を当然のように熟知していました。それにもかかわらず、日本社会で議論が盛り上がらなかったのは、この理論を都合よく解釈し、自らの社会システムを過信したためです。
当時の日本社会のエリート層は、出生率の低下を「先進国として成熟した証拠(人口の安定期)であり、人口が減れば満員電車も解消され、1人当たりの豊かさは増す」と楽観視していました。そこには、高齢化がこれほど急激に進み、社会保障の土台そのものが崩壊するという論理的推理力が欠如していたのです。
3. なぜ日本社会は「先手」を打てなかったのか
知識がありながらも動けなかった背景には、日本社会が抱えていた特殊な成功体験と、民主主義というガバナンスが持つ構造的な病理がありました。
① 人口爆発への恐怖
戦後から1970年代前半にかけての日本は、ベビーブームと医療の発展により、むしろ人が多すぎて資源や食糧が足りなくなる、社会がパンクするという恐怖の中にありました。政府は1940〜50年代に「子どもは増やしすぎてはいけない」という産児制限を推奨し、これが劇的に成功してしまったため、人口は国家がコントロールできるという過信が生まれました。その結果、ブレーキを離してアクセル(少子化対策)に踏み替えるタイミングを完全に失ってしまったのです。
② 「全員が結婚して子どもを産む」という前提
1980年代まで、日本は「男は外で働き、女は家庭を守る。誰もが20代後半で結婚し、子どもを2人産む」という日本型社会システムが完璧に機能しているように見えました。バブル経済の華やかさも手伝い、有識者がいくら警告しても、日本の伝統的な家族観があれば、欧米のようにはならないと高を括っていたのです。
1985年の「男女雇用機会均等法」の制定により、女性の社会進出という片方の車輪だけを動かしながら、もう片方の車輪である「育児の社会化(保育所の大量増設や働き方改革)」を先送りしたことで、女性に仕事か出産かの二者択一を迫る歪みを生み出しました。
③ 選挙では目先の課題を優先
政治家が数年後の次の選挙に勝つためには、いま目の前で有権者が困っている物価高や目先の減税に予算を配る必要があります。少子化対策のように「今、現役世代に負担を求め、数十年後にようやく問題が回避される」という政策は、選挙において極めて不利になります。
また、予算を削られる側(例えば高齢者層や既存の業界)の抵抗は具体的で激しいのに対し、将来恩恵を受けるはずの「まだ生まれていない子どもたち」は今、選挙で声を上げることができません。この政治的声量の格差が、痛みを伴う改革を阻んできました。
4. 「先送り」という知恵の罪
ここで日本社会の致命的な習性となったのが、「先送りの習慣化」です。
領土問題や高度な外交交渉などにおいては、あえて白黒をつけずに現状維持を保ち、決定的な衝突を避ける「先送り」が一種の賢い知恵とされることがあります。しかし、政治家や官僚がこの成功体験を、国内の構造改革という「時間が経つほど手遅れになる問題」にまで適用してしまったのは大きな過ちでした。
専門家から将来に向けての提言があったとしても、その予測の精度や現実味、あるいは影響の大きさに少しでも不確実性や疑念が感じられると、社会は「まだ大丈夫だろう」「最悪の事態にはならないはずだ」という正常性バイアスを働かせ、対策の優先順位を下げてしまいます。実害が目に見える形になるまで対応措置を執らないポピュリズムの弊害が、ここに極まったのです。
日本社会にとって、この先送り体質を脱却して効果的な施策を打てた最後の防衛線は、1990年の「1.57ショック」の直後でした。
この瞬間であれば、1970年代前半に生まれた「団塊ジュニア世代」がこれから結婚・出産を迎える20代前半の時期でした。ここで国家の総力を挙げた財政出動や、柔軟な働き方へのドラスティックな変更へと舵を切っていれば、日本の人口動態は踏みとどまれた可能性が十分にあります。
しかし、日本社会が選択したのは、実効性の乏しい少額の予算措置(1994年のエンゼルプランなど)による「お茶を濁すような先送り」でした。そこへバブル崩壊後の就職氷河期が直撃したことで、日本の人口の最後のボリュームゾーンは不安定な雇用と低収入のまま30代を迎えることになり、第3次ベビーブームはついに幻となったのです。
5. ショックがなければ学習できない社会.....
歴史が示すのは、日本社会は合理的予測だけでは動けず、ショック(実害)を被って初めて学習し、動き出すという腰の重い習性を持っているという事実です。これは少子化に限らず、今後予測されるインフラの老朽化や社会保障の維持など、あらゆる長期的な課題に共通する脆さです。
有識者による諮問委員会などがいくら「先憂後楽」の精神で一歩先の危機を提言しても、その声に耳を傾け、即応する仕組みが政治と社会になければ、同じ過ちは繰り返されます。
今さら過去を嘆いても時計の針は戻りませんが、私たちがこの手遅れになった少子化の歴史から学ぶべきは、「不確実性があるから先送りする」というこれまでの思考様式そのものを疑い、データが示す未来に対して、いかに実害が出る前に社会を動かすシステムを構築できるか、というガバナンスへの問いにほかならないでしょう。