AirLand-Battleの日記

思い付きや素朴な疑問、常識の整理など、特段のテーマを決めずに書いております。

警察官にとっての打撃技と足関節技の「有効性」

 ニュース報道や警察特番、映画などで、警察官が暴漢を制圧するシーンを目にすることがあります。その多くは、相手の手首や肘、肩の関節を巧みに取り、最終的にうつ伏せの姿勢に寝かせて抑え込むという一連の流れを踏んでいます。

 なぜ、パンチやキックといった打撃技でノックアウトしないのでしょうか。あるいは、昨今の総合格闘技ブームで知名度が上がった足関節技で相手の動きを止めるようなシーンはまったく目にしないのでしょうか。

 実は、この「殴らず、足を極めず、うつ伏せにする」という一連の手順の背景には、格闘技術としての実戦性だけでなく、日本社会における「文化社会的理解」と「司法的理解」という、緻密に考慮された逮捕術・制圧術の理念が隠されています。

 今回は、逮捕術・制圧術がなぜ現在の形に行き着いたのか、そして世界的に大きな注目を集めた現代の事件から、法執行のあり方がどう変わろうとしているのかを、歴史と論理から整理してみます。

 

1. 「打撃技」が忌避される理由

 まず、誰もが直感的に思い浮かべる「パンチやキック、肘打ち」といった打撃技について考えてみましょう。暴漢を素早く無力化する手段として有効に思えますが、なぜ逮捕術や民間警備の現場では主たる手段として採用されないのでしょうか。

 そこには、文化社会的な「見え方」と、司法的な「責任」の2つの高い壁が存在します。

文化社会的な壁:視覚的ショック

 現代の日本社会において、公権力や警備員は「秩序の維持者」であり、安心感をもたらす存在であることが求められます。 もし、制服を着た人間が暴漢の顔面を殴りつけ、流血させたり歯を折ったりする光景を市民が目撃したらどうなるでしょうか。たとえ相手が悪人であっても、社会は強い倫理的反発を覚えます。視覚的な残虐性が強すぎる打撃は、客観的に「法執行」ではなく「ケンカ」や「リンチ」、「感情的なお仕置き」に映ってしまうのです。

司法的な壁:比例原則とコントロール不可能性

 法律の世界には、対抗手段は相手の侵害の程度に応じた最小限のものでなければならないという「比例原則」があります。暴漢が組み合ってきたのに対して、現実的な対処として打撃でノックアウトする行為は、司法の場では過剰防衛と判断される可能性が極めて高くなります。

 さらに決定的なのは、打撃は結果をコントロールできないという点です。顎への打撃で脳震盪を起こした暴漢が、倒れた際にアスファルトに後頭部を強打し、急性硬膜下血腫などで死亡してしまうリスクは決して低くありません。加減が難しく、最悪の結果を招きかねない打撃技を、司法は正当な制圧手段として容易には認めないのです。

 もちろん、実際の警察逮捕術にも「当身(あてみ)」と呼ばれる打撃わざは存在します。しかし、それは相手を倒すためではなく、次に来る関節技や抑え込みへ移行するための「一瞬の目眩まし」としてのみ、極めて限定的に位置づけられています。

 

2. それでは暴漢の攻撃にはどう立ち向かうのか?

 ここで疑問が湧きます。現実の現場では、暴漢の側がパンチやキックを放ってくることが頻発します。また、ナイフや棒切れといった凶器を振り回してくる極限状態もあるでしょう。これらに警察官が対抗する際、「受け技」や「よけ方」、あるいは「蹴り技」による対抗はどのように評価されるのでしょうか。

「受けと避け」は100%正当化される

 暴漢の攻撃を両腕のフレームでブロックしたり、身をかわしたりする完全な受動的防御は、相手の権利を一切侵害しないため、司法的なリスクはゼロです。また、日本社会の目から見ても、荒々しい暴力を冷静にいなす姿は訓練されたプロフェッショナルとしての信頼感に繋がります。

 実際の現場では、よけ続けるよりも、頭部をガードしながら一気に相手の懐へ飛び込んで密着する戦術が取られます。殴れない距離(ボクシングのクリンチなど)を強制的に作り、そこから安全に関節技へと繋ぐためです。

刃物などに対する「蹴り」の条件

 では、リーチの長い「蹴り技」で刃物や棒を持つ暴漢に対抗するのはどうでしょうか。 司法は「武器対等の原則」に近いバランス感覚を持っています。相手が命を脅かす刃物を持っている場合、こちらの防衛手段の許容範囲は一気に跳ね上がります。暴漢の出鼻をくじくために前蹴りを放ち、転倒させて武器を落とさせる行為は、命を守るためのやむを得ない最小限の対抗手段として、司法的に正当防衛が認められやすいです。

 ただし、ここでも文化社会的なリスクは残ります。現代は誰もがスマートフォンを持ち、SNSで映像が拡散する時代です。前後の文脈(相手が刃物を持っていた事実)が見えにくいアングルで「制服の人間が市民を激しく蹴り飛ばした瞬間」だけが切り取られた場合、激しい社会的批判を浴びるリスクは否定できません。そのため、現代の現場では、生身の足で蹴るよりも、刺股(さすまた)や防刃盾といった「非致死性の専門道具」を(もしも持っていれば)使って距離を取ることが最優先されます。

 

3. 「足関節技」が忌避される理由

 次に、近年格闘技ファン以外にも広く知られるようになった「足関節技(ヒールホールドや膝十字固めなど)」について再考してみましょう。暴漢の動き方によっては足を取る方が有効な場面もありそうですが、なぜこれが逮捕・制圧術に採用されないのでしょうか。

 ここにも、上半身の関節技とは異なる、特有の社会的・司法的な障壁があります。

体勢がもたらす「いたぶり」

 手首や肘の関節技は、立った状態から移行しやすく、最終的に「うつ伏せに抑え込む」という整然とした拘束手順に直結し易いです。 一方で、足関節技の多くは、施術者側も地面に寝転がったり、相手の足にしがみついたりする必要があります。地べたで泥臭く絡み合っている姿は、客観的に見ると秩序ある執行に見えず、社会通念上、過剰に相手を痛めつけている(お仕置きしている)ような残虐な印象を与えかねません。

司法が嫌う「破壊の不可避性」と「目的との乖離」

 司法の観点から見ると、足関節技には致命的な弱点があります。 第一に、足関節技のゴールは基本的に「激痛による降伏」か「靭帯の破壊」であり、腕を後ろに回して手錠をかけるという拘束の目的に直結しません

 第二に、効果のコントロールが極めて困難という点が挙げられます。特にヒールホールドなどは「痛みが走った瞬間には、すでに膝の前十字靭帯などが断裂している」という解剖学的な特徴を持っています。興奮状態にある暴漢は痛みを感じにくく、降伏の意思表示をしません。ほんの少し動きを止めようとしただけでも、相手の身体に一生モノの障害を負わせてしまう可能性が非常に高く、司法はこれを「過剰な破壊」とみなさざるを得ないのです。

 

4. 世界を揺るがした「うつ伏せ制圧」の悲劇

 ここまで述べてきた通り、手首や肩を制してうつ伏せにするという方法は、打撃や足関節技に比べて傷を負わせにくく、社会的・司法的な理解を最も得られやすい「正解」として長年機能してきました。

 しかし、このセオリーの盲点を突き、世界の法執行機関に激震走らせた決定的な事件が起こります。2020年5月25日にアメリカ・ミネソタ州で発生した、警察官によるジョージ・フロイドさん死亡事件です。

「体位性窒息」という盲点

 当時、警察官は偽札使用の疑いがあった黒人男性のフロイドさんを路上でうつ伏せにし、首の後ろや背中を膝で「9分29秒間」にわたって強く圧迫し続けました。フロイドさんは「息ができない」と何度も訴えましたが、拘束は解かれず、そのまま窒息により亡くなりました。これが「Black Lives Matter(BLM)」運動の引き金となったのは記憶に新しいところです。

 この事件は、打撃を加えていない制圧であっても、やり方を誤れば銃や刃物と同等の致死性を持ってしまうという凄惨な事実を証明しました。人間はうつ伏せの状態で背中に体重をかけられ続けると、肺や横隔膜が圧迫されて呼吸ができなくなる「体位性窒息」を引き起こすのです。

司法と社会からの猛烈な反発

 スマートフォンで撮影されたこの映像は世界中に拡散されました。警察官がポケットに手を入れたまま、平然と命を乞う人間の首を踏みつけ続ける姿は、社会の目に「秩序ある執行」ではなく「残虐な公開処刑」と映り、文化社会的理解は完全に崩壊しました。

 司法の場でも、すでに手錠をかけられ抵抗不可能な状態にある容疑者に対して、致死性の高い圧迫を続けた行為は「必要最小限」を遥かに逸脱していると判断され、主犯格の元警察官には禁錮22年6ヶ月という極めて重い実刑判決が下されました。相手が抵抗をやめたら負荷を緩めるという関節技・制圧術の大原則を無視した結果でした。

 この悲劇以降、逮捕術には劇的な変化を遂げることになりました。首への圧迫は原則禁止となり、うつ伏せに制圧した後は、体位性窒息を防ぐために「即座に横向き(側臥位)にさせる、あるいは上体を起こす」というルールが標準へと改正されました。

 

5. 近代国家が求めた「柔の道」

 歴史を遡ると、近代化を進める成熟した法治国家において、文化社会的にも司法的にも受け入れられる逮捕術・制圧術がいかに模索されてきたかが分かります。その歴史のなかで、世界中で高評価を得たのが、明治時代に嘉納治五郎(1860~1938)が興した「講道館柔道」でした。

 柔道は、それまでの古流柔術から危険な(目つぶしや拳打、金的蹴りなどの)打撃技や一部の危険な関節技を排除し、投げ技と寝技を中心とした相手を破壊せずに安全に制圧し、かつ同じ条件で何度も稽古できる体系を確立しました。これが、近代的な警察組織が求める「無駄な暴力を排し、市民の理解を得る」という条件に合致したため、世界中の法執行機関へ広まることとなったのです。(ただし抑え込みの技術としては、うつ伏せでなく仰向けにするルールになっています。)

 伝統的に柔道よりもレスリング文化が強く、フロイドさんの事件という最大の悲劇を経験したアメリカの警察がいま、改革の切り札として必死に導入しているのは、柔道から派生した「ブラジリアン柔術」のコントロール技術です。

 アメリカの警察官は、銃や無線など約5〜10kgもの重い装備帯を腰に巻いているため、激しい投げ技は双方の怪我や装備の脱落を招きます。しかし、ブラジリアン柔術をベースにした最新のプログラムであれば、容疑者をうつ伏せにせず、横向きのまま、テコの原理(骨格のロック)で安全に包み込むようにホールドすることが可能です。大柄な暴漢に対しても、小柄な警察官が力に頼らず、相手を傷つけずに手錠をかけることができます。

 

結び

 逮捕術や制圧術における技の選択とは、単にどちらが強いか、どちらが手っ取り早く相手を倒せるかという、物理的な優劣だけで決まるものではありません。

  • 相手をいたずらに傷つけず、流血させない(文化社会的理解)

  • もたらす結果をコントロールし、過剰防衛にならない(司法的理解)

  • そして、執行者(警察官)自身の安全と身の潔白を守る

 これらすべての条件を満たすために、日本社会の歴史のなかで洗練され、また世界の悲劇的な教訓から研究され続けているのが、現代の逮捕術・制圧術の姿なのです。「力に拠らず、理によって制す」という精神は、形を変えながらも、現代の法治国家における「力」として期待されているのです。