現代の日本社会において、巨大権力という言葉を聞くと、真っ先に政府や官邸、あるいは国会といった政治の中心を思い浮かべがちです。しかし、人々の生活や尊厳を実質的に脅かす虞のある力は、そうした「公権力」だけではありません。
国家が持つ最大の物理的強制力である「警察」。 世論を誘導し、時に個人の社会生命を絶つ「ジャーナリスト」。 そして、法の専門知識を独占し、正義の盾にも社会の変異体にもなり得る「弁護士」。
法治国家の健全性を維持するためには、これら三つの権力が持つ本質的なリスクと、それに対する抑止の仕組みを客観的に検証する必要があると思います。今回は、それぞれの権力がはらむ横暴化の危険性と、これから取るべき監視の姿勢について考えてみたいと思います。
一、「警察国家」への警戒
まず確認すべき対象として、国家最大の強制力を持つ存在、すなわち「警察国家」への警戒です。現代においてこの言葉は、国家が警察力をもって国民の政治活動や私生活を監視・統制する独裁的な体制を指します。
歴史を振り返れば、十七世紀から十八世紀のヨーロッパ、特にプロイセンなどの絶対主義国家では、君主が臣民の福祉や経済活動に細かく介入することが善とされ、これを「警察」の本質と呼んでいました。しかし、二十世紀に至り、この仕組みは暴走してしまいます。ナチス・ドイツやスターリン体制下のソ連は、形式的な手続きを整えた上で、秘密警察を使って社会を恐怖で支配しました。
この歴史が遺した教訓は明確です。単に「法律に従っている」という形式的な法治主義だけでは不十分であり、その法律自体が個人の基本的人権や自由を侵してはならないという法の支配(実質的な法治主義)へと、自由主義諸国は軌道修正することになりました。
国家の持つ警察力は、個人の自由を合法的に制限できる唯一の力です。これが暴走した場合、一般の国民が自力で対抗することはほぼ不可能です。また、一度警察国家化が進むと、司法や選挙といった内部からの是正機能そのものが麻痺するため、自浄作用が働かなくなるという致命的な不可逆性を持っています。
成熟した近代国家では、この実力組織が暴走しないよう、以下のようなブレーキを組み込んでいます。
一つ目は「令状主義と適正手続き」です。警察が逮捕や家宅捜索を行う際、自らの判断だけで行うことは原則できません。日本国憲法第三十三条や第三十五条にも明記されている通り、必ず独立した裁判官が事前に審査した「令状」が必要になります。
二つ目は「組織的な分権と民主的統制」です。日本社会においては、警察庁や都道府県警察の上位に、民間人から構成される「公安委員会」を置くことで、政治的中立性と民主的統制を担保しています。また、捜査を行う警察と、起訴権を持つ検察を切り離すことで、組織間の相互チェックを行っています。
さらに現代では、密室での強要や暴力を防ぐため、「取調べの録音・録画(可視化)」や、諸外国での「ボディカメラ」の義務化といった技術的な防壁も導入されています。国家権力としての警察への警戒は、こうした歴史の反省から生まれたブレーキによって、一定の制御を保っています。
二、「ジャーナリスト」の横暴
しかし、日本社会が注視すべき巨大権力は警察だけではありません。現代において“第三権力”とも呼ばれるのが、「ジャーナリストの権力」です。メディアが持つ力の本質は、物理的な強制力ではなく、「何が社会の重要課題であるかを決める力」と「世論形成」の力にあります。
日本において報道の自由は、憲法第二十一条(表現の自由)の根幹として極めて強力に保護されています。しかし、その強力な保護の裏返しとして、社会的影響力に対する法的なペナルティや規制のあり方には、長年深刻な歪みが指摘されてきました。
報道が行き過ぎた形で現れた際のリスクには、以下のような実例や課題があります。
第一に「メディアスクラム(集団的過熱取材)」です。一つの事件に対し、多数の報道機関が特定の関係者の元に殺到し、昼夜を問わず取材を浴びせる現象です。これはプライバシーの侵害にとどまらず、対象者を精神的に追い詰め、事実上のリンチとして機能してしまうリスクがあります。
第二に「報道被害(冤罪の助長)」です。一九九四年の「松本サリン事件」では、警察の初期捜査の誤りにメディアが追随し、第一通報者の男性を犯人視する報道を連日続けました。真犯人が判明するまで、男性とその家族の尊厳は徹底的に破壊されました。メディアには「一度作ったストーリーに合致する情報だけを優遇し、反証を軽視する」という組織的バイアスが働きやすいという弱点があります。
第三に「取材活動による直接的な実害」です。過去の大規模災害において、報道ヘリコプターの爆音が被災者の救助を求める声をかき消したり、救助隊の無線連絡を妨害したりしたことが大きな批判を浴びました。命の選別よりもスクープの獲得が優先されてしまう瞬間の存在は、ジャーナリズムの倫理的破綻を示しています。
なぜこれらの行き過ぎに対し、より厳格な規制や、弁護士のような国家資格化がなされないのでしょうか。ここに自由主義社会の特有のジレンマがあります。
ジャーナリストに国家資格や免許制度を導入することは、自由主義国では原則としてタブーとされています。資格の付与や剥奪の権限を国が握った瞬間、政府にとって不都合な批判を行う者を排除することが可能になり、報道機関が事実上の国策メディアへと変質してしまうからです。そのため、「誰でも名乗ればジャーナリストになれる」という一見無秩序に見える状態こそが、権力を監視するための大前提として厳守されています。
また、日本の最高裁判所の判例では、「たとえ事実と異なっていても、報道時点でそれが『真実であると信じるに足りる相当な理由』があれば名誉毀損は成立しない」とされています。さらに、訴訟で勝訴したとしても、日本における名誉毀損の損害賠償額は、欧米に比べて数百万円程度と極めて低い水準にとどまることが多いのが現状です。巨大な報道機関にとっては「賠償金を払ってでも、センセーショナルな記事で得られる利益の方が大きい」という計算が成り立ちやすく、司法は抑止力として十分に機能していません。
これに対し、近年ではネット上の誹謗中傷対策として2022年に刑法が改正され、侮辱罪の法定刑が最高で「一年以下の懲役・禁錮」や「三十万円以下の罰金」へと引き上げられました。また、放送法による直接処分に代わり、第三者機関である「BPO(放送倫理・番組向上機構)」が倫理違反を認定することで、スポンサー降板などの経済的ダメージを与える自主規制の枠組みもある程度は機能しそうです。
現代の日本社会においては、かつてのマスコミの報道を鵜呑みにしない「オールドメディア」という批判的な視線が定着しつつあります。しかし、メディアの告発によって社会全体が「この相手ならどれだけ叩いても正義だ」という空気に包まれた瞬間、個人の正義感が暴走し、ネットリンチへと発展するリスクはむしろ高まっています。個人としては、報道のストーリーを客観視し、事態がはっきりするまであえて静観するという知的な自制心を問われています。
三、「弁護士」は必要悪か?特権階級か?
最後に検証すべきが、もう一つの非国家権力である弁護士の権力と横暴化リスクです。
本来、刑事裁判における弁護士の役割は、国家という巨大な権力と戦う被告人のために、手続きが適正に行われているかを監視する「適正な手続きの番人」です。しかし、法律を熟知しているからこそ、彼らがその知識と特権を悪用した際、外部からその横暴を抑えることは極めて困難になります。
特に問題となるのが、弁護士の行き過ぎた法廷戦術が、日本社会全体に対して支払わせている外部コスト(治安悪化や被害者の増加)の存在です。
第一に、警察の捜査手続きに微細な瑕疵があった場合、弁護士は証拠を無効化する戦術を徹底的に駆使します。結果として、実体的な罪を犯したはずの狡猾な犯罪者が「技術的無罪」によって社会に野放しにされ、再逮捕・有罪になるまで犯罪を繰り返す機会を与えてしまうという深刻な課題が生じます。
第二に、刑法第三十九条(心神喪失・心神耗弱)を都合よく解釈し、計画的な犯行であっても精神鑑定に持ち込んで大幅な減刑を狙う戦術です。これは、犯罪被害者や遺族の心情を著しく傷つける道義的マイナスを生みます。
第三に、近年強まっている人質司法批判を追い風に、強引に保釈を勝ち取るケースです。その結果、保釈中の被告人が逃亡したり、あるいは長期間隔離すべき犯罪者が短期間で社会に戻り、再び同じ被害者の元へ赴いて報復や再犯に及んだりするという最悪の被害も発生しています。
なぜ弁護士は、時に社会悪と映るまで突き進むことができるのでしょうか。弁護士倫理において、彼らが負う最大の義務は、社会全体の治安維持ではなく、目の前の依頼者に対する最大限の利益行使(誠実義務)だからです。もし弁護士が「こいつは反省していないから、社会のために保釈の手を抜こう」と判断して行動すれば、その弁護士は所属する弁護士会から懲戒処分を受けます。システム自体が、彼らに個別事例の利益の追求を強制しているのです。
さらに、日本をはじめとする先進国では、弁護士の登録やペナルティを、行政ではなく弁護士自身の組織が行う「弁護士自治」を採用しています。国が弁護士の資格を奪えるようにすると、国家と戦う弁護士が真っ先に排除され、警察国家への道を開いてしまうからです。しかし、この強力な自治権があるがゆえに、身内の不祥事に対する処分が甘くなるという批判が常に付きまといます。
この戦術に基づく暴走による社会の損失に対し、諸外国はいくつかの対抗アプローチを既に試みています。
-
法定刑の底上げ(アメリカ型): 弁護士の巧妙な情状弁護によって裁判官が減刑を出せないよう、議会が「三振法」や「義務的最低量刑」を定め、戦術そのものを無効化する。
-
保釈基準への「治安要件」の明記(米英型): 保釈拒否要件に「地域社会への危険性」を明記し、外に出したらまた罪を犯す可能性が高い人物の保釈を裁判官の権限で阻止する。
-
被害者参加制度(日本):2009年の裁判員制度導入などと前後して整備された仕組みであり、法廷に遺族や被害者本人が座り、弁護士の作った「虚構の反省ストーリー」に対して直接質問をぶつけて切り崩す。
弁護士という法廷の中に生きる職業集団が、「ルールを守っているから正しい」という教条主義に閉じこもり、現実社会が血を流している事実から目を背け続けたとき、もっとも恐ろしい結末が訪れます。それは、社会が「人権派弁護士の屁理屈のせいで犯罪者が野放しになるなら、適正手続きなどいらない。警察の強権で社会を取り締まってくれ」と絶望し、自ら進んで「警察国家」への回帰を望むようになる、という皮肉なシナリオです。
四、司法――「信託」なき組織
ここまで三つの権力を検証してきましたが、最後に日本社会のグランドデザインにおける決定的な不備を指摘しなければなりません。それは、「司法だけは、民主的なコントロールから著しく隔離されている」という構造的欠陥です。
日本社会において、立法や行政には「選挙」があり、国民は一票によっていつでもその権力をリセットできます。そしてジャーナリストによって、代議士の言動を厳しく監視・追跡します。しかし、司法(裁判官、検察、弁護士会)に対しては、国民が選挙でリセットしたり監視・追及する手段がほとんど存在しません。
衆議院選挙の際に行われる最高裁判所裁判官の「国民審査」は、事前の情報不足や、何も書かなければ自動的に信任扱いになる仕組みから、事実上完全に形骸化しています。これまでの歴史の中で、国民審査によって免職になった裁判官はただの一人も存在しません。
司法が世論から隔離されているのは、元来、多数決の暴走から個人の人権を守る最後の砦にするためという大義名分によるものです。しかし、この隔離が、日本の裁判所を過去の判例だけを永遠に神聖視する、一般社会の常識から乖離した官僚組織へと変質させた原因ともなっています。
この欠陥を少しでも補うため、2009年からは一般市民が刑事裁判の審理と量刑に加わる「裁判員制度」が導入されました。プロの裁判官だけで決めると前例の相場に縛られて刑が軽くなりすぎる傾向があったのに対し、市民感覚を反映させて量刑を適正化する一定のコントロールとして機能しています。また、検察が独占する起訴権に対して市民が割って入る「検察審査会」の仕組みも存在します。
歴史の教訓からすると、司法の独立を破壊し、選挙による直接的なクビ切りを導入することは、大衆のヒステリーによる人権侵害を招くため非常に危険とされています。しかし、裁判官や弁護士に対して選挙によるリセットもできないのであれば、せめて追跡と可視化による社会的コントロールはもっと強化されるべきと考えられないでしょうか?
これまでジャーナリズムは、政治家のスキャンダルは熱心に追っても、特定の裁判官がどのような理不尽な判決を出したか、どれほど犯罪者を甘やかす判術を許したかという追跡・検証をほとんど行ってきませんでした。
現代社会に生きる私たちは、ネットや情報技術を通じて、おかしな判決を出した裁判官の名前や、過剰な弁護戦術をとった弁護士、不可解な不起訴を連発する検察の実態を、個人の目で共有し、記録として蓄積できる時代にいます。
警察、メディア、そして弁護士。いずれの権力も、社会に必要な機能であると同時に、ひとたびチェックを怠れば牙を剥くという二面性を持っています。あらゆる権力に対して盲信せず、制度的なブレーキが機能しているかを常に疑い続けるという確固たる視線を持つことこそが、日本社会が法治という「生きている社会システム」を守るための唯一の防壁であると思うのです。