会社の事務机に備えたいもの6選

 以前に救急箱と工具箱の中身、そして入院時の持ち物について記事を載せましたが、今回は事務職に就いた新入社員の皆様に向けて、備えあれば憂いなし、会社の机の引き出しに備えたいものを幾つか提案したいと思います。
 こうした新入社員向けの記事であれば通常3月か4月辺りにアップロードするのが適時ということは重々承知していますが、何事も思い立ったが吉日と思い、10月にもかかわらず自由気ままに綴らせてゆく所存です。

 

雑巾
 昭和の時代には自分の机の掃除をするために必ず雑巾を備えるように言われたものでしたが、今は会社からそうした指示をされることは無いようです。しかし現実にはお茶やコーヒーをこぼしたり、壁や床が何かの理由で汚れたりする場面に出くわすことは十分に考えられますので、是非1枚は雑巾をマグネットのフックなどにぶら下げておくことをお勧めします。

 

パソコン掃除グッズ
 足軽には火縄銃、事務職にはパソコンが必須装備であることに異論は無いと思います。パソコンはずっと使っていると少しずつ汚れますので、時々は掃除したくなるものです。雑巾での掃除には向かないので、パソコン専用の掃除グッズを備えておくと良いでしょう。特に液晶ディスプレイの汚れが綺麗になると。わずかですが仕事のストレスが軽減されたような気になります。

ディスプレイ・クリーナー: 液晶タブレットにも使えます。マイクロ・ファイバー製の布が便利です。ウェット・ティッシュ・タイプのものは使い切れずに1ヶ月位上置いておくと乾いてしまうことが多いのでご注意ください。
キーボード用ブラシ: キーボードの隙間に知らず知らずのうちに入る小さなゴミを掃除します。
エアー・ダスター・スプレー: キーボード用ブラシの仕上げ用に使います。なお、引き出しに収納するには少し大きいかもしれませんので置き場所に工夫を。

 

充電アダプター
 学童と一部の高齢者を除いた現代人ならば、スマートフォンは必ず持っていると思います。さらに加えて会社から支給された1台を抱えることもあるでしょう。会社用の充電アダプターが私物にも使えれば共有するまでですが、共有できない場合には私物用の充電アダプターを会社の引き出しに置いておくと安心です。
(以下に続けて紹介する物も含めて、机でなく既にカバンに常備しているという方も多いかもしれません。)

 

置き傘
 出社時には降っていなかったが帰宅時になって雨に遭った場合に備えるものです。そんな場面は頻繁にはないだろうと思ってビニール傘を買っていると、自宅に汚れたビニール傘が溜まってゆくことになります。
 これも事務所によってはエアー・ダスター・スプレーのように置き場所に困ることがあるかもしれませんが、雑巾と一緒に折り畳み傘をぶら下げておけば良いでしょう。

 

ミニ救急箱
 引き出しの片隅にタバコぐらいの箱や缶を用意して、頭痛薬、胃腸薬(下痢/便秘/二日酔い)、バンソウコウ、トローチ、リップクリーム、目薬、綿棒、糸ようじなどを少量ずつ入れておくと安心です。

 

ペンケース
 これまでパソコンでの仕事を前提にした流れになっていますが、会議で紙の資料が配布されたり、ノートにメモをとることはまだまだ残っています。ここで、ボールペンと蛍光ペンを1本ずつくらいならばと手で持ったり、ポケットに入れたりする人は多いのですが、ここはペンケースに(安物ではない)ボールペンとシャープペン、レーザーポインターなどを入れておきたいところです。
 ペンケース自体もビニールのキャラクター・グッズは避けて、できれば品格のある革製か布製のものが好ましいと思います。

 

 

経験論から脱せるか?

 2024年10月11日、ノーベル平和賞が日本の「日本原水爆被害者団体協議会」(以下、被団協)に授与されることが発表されました。この決定は、被爆者の声を通じて核兵器廃絶を訴えてきた歴史的な活動の成果を称えるものであり、もう20年くらい早い授与でもよかったように思っていますが、非常に意義深いものです。しかし、被爆者の高齢化に伴い、経験を語ることのできる方々が減少している現実も指摘されています。これにより、被爆二世やボランティアが語り部の役割を引き継ごうとする動きが加速しています。

 また、ノーベル賞の発表に先立つ10月1日に石破内閣が発足しましたが、この組閣の結果、こども政策担当相には三原じゅん子氏が就任したことに対して、「子どもがいないのにこども政策担当相が務まるんだ…」という意見が挙がったという記事がありました。この反応は、日本における「経験論」の典型的な例です。つまり、「自ら経験していないことは理解できない」という考え方が根強く、政策を担う者が自身の経験を持たない場合、信頼が揺らぐことがあるという現象です。

 他にも、多くのスポーツ指導者が、自身の競技経験に基づいて指導を行っていますが、必ずしもそのアプローチが効果的であるとは限りません。自らの経験だけに依存していると、新たなトレーニング手法やスポーツ科学の発展が無視されることがあります。例えば、昔ながらの練習法に固執する指導者が、最新のスポーツ科学によるデータや、他国の先進的なトレーニング法を取り入れないと、選手の成長やチームの成果に限界が生じることがあります。スポーツ指導は常に進化しており、成功するためには、個人の経験だけでなく、科学的根拠や他の成功事例を積極的に取り入れることが求められます。

 

 こうした事例については、日本社会における「経験論」への依存が極めて大きいという現状が背景にあるのではないだろうか。つまり、個々人の経験に基づいた語りや政策が、共感や理解を得るために強調されすぎているのではないかという問題です。経験を重視すること自体は重要ですが、それが時に視野を狭め、より広範な議論や共感を妨げる要因となりうることも見逃してはなりません。

 

 「経験論」とは、哲学的には「認識の主たる源泉を経験に求める」立場を指します。17~18世紀のイギリス経験論者たち(フランシス・ベーコン、ジョン・ロック、デイヴィッド・ヒュームなど)は、知識が感覚的経験から導かれるものであり、生得的な観念を否定する立場を取りました。この観点からすれば、経験から学び、判断を下すことは理にかなっています。しかし、日本における現代の「経験論」は、個々人の人生経験や身近な出来事に基づいた判断を指すことが多く、これは必ずしも広範な視点に立ったものではありません。

 例えば、核兵器廃絶という世界的な課題を考える際に、被爆者の経験に依拠しすぎると、問題が地域的・個人的な枠組みにとどまりがちです。もちろん、被爆者の声は非常に重要です。しかし、それだけでは国際的な共感や連携を得るには限界があります。核兵器の廃絶には、他国の歴史や類似する事例、例えばアメリカやロシア、中国など核保有国の立場や、他の歴史的な虐殺や戦争被害との連携が求められます。このような広範な視点を取り入れることで、被爆者が望む「核なき世界」の実現に向けた動きが、より一層強力なものとなるでしょう。

 

 日本社会では、経験主義的な価値観が強く根付いていると感じておられる方は多いのではないでしょうか? つまり、個々の経験に基づいて物事を判断するという考え方です。この傾向は、しばしば感情的な要素や個人的なバイアスを強調することにつながり、冷静で客観的な議論が後回しにされることがあります。これは教育現場やビジネスの現場でも見受けられます。例えば、長年の経験を持つベテランの意見が尊重されすぎ、新しい視点や理論が無視されることが少なくありません。

 こうした状況下では、過去の経験や慣習に固執するあまり、変化に対する柔軟性が失われてしまう恐れがあります。特に、現代のグローバルな問題解決には、他国の事例や最新の研究、技術革新に基づいた判断が求められます。しかし、これらの外部の知見を取り入れることに対する抵抗感が強いことも事実です。

 経験から学ぶことは重要ですが、それが唯一の判断基準であってはなりません。広い視野を持ち、他国の歴史や最新の研究、さらには異なる文化や価値観に対しても開かれた態度を持つことが求められます。特に、グローバルな課題に取り組む際には、自国の経験だけでなく、世界中の知識や経験を取り入れることが必要です。

 

 「経験論」は、個人の経験を重視する点で価値がありますが、それが過度に強調されると問題が生じます。経験だけに依存する判断は、視野を狭め、他者の異なる視点や知識を取り入れる機会を失うことにつながりかねません。特に、現代の複雑で多様化した社会問題に対処するには、個々人の経験にとどまらず、他国の事例や専門的な研究成果、最新の技術や知識を取り入れていくことが不可欠です。

  三原じゅん子氏の事例やスポーツ指導者の問題が示すように、重要なのは経験そのものではなく、それをどのように補完し、より大きな視点で物事を判断するかです。個々の経験は確かに有益ですが、それが唯一の判断基準となってしまうと、視野が狭まり、革新的な解決策が見いだせない可能性が出てきます。

 

習い事をはじめたら日記をつけよう

 社会人になってから何か新しい習い事を始めるとき、日々の進歩や気づきを記録することは、自己成長の大きな助けになるはずです。高校野球やサッカーの強豪校で、実際に生徒たちに「練習日記」をつけさせている事例をにならって、社会人も練習日記をつけてみるのはいかがでしょうか。練習日記は、選手たちが自分の技術や心の変化を整理し、次のステップへの道筋を明確にするための重要なツールとなるようです。社会人においても、資格試験や語学学習の場面ではノートを活用することはもちろん一般的ですが、身体を使った習い事(例えばヨガ、ピアノ、絵画、ゴルフ、太極拳、ダンスなどといった技芸)においても、同様に日記やノートをつける習慣はかなり有益ではないかと考えられます。

 

 練習日記をつける最大のメリットは、日々の成長を可視化できる点です。例えば、今日の練習で「できなかった点」「できた点」を書き留めることで、次回の練習に何を意識すべきかが見えてきます。これに加え、「目標や課題」「気づき」「新しいアイデア」を書き出すことで、目指すべき方向性がはっきりと自主的に定まります。目に見える形で思考を整理することで、自己認識が深まり、上達のスピードも上がるでしょう。

 

 誰に提出するわけでもないきままな日記ですので、気負う必要はありません。自分の言葉で自由に書くことが大切です。例えば、練習のあった日にその日の練習の内容を振り返る形で、思いついたことをそのまま記録していきましょう。具体的に書く記入事項としては、年月日は必須として、まずは教わったことの記録を中心に自分なりに達成できたこと、できなかったこと、練習中に生まれた疑問点、一緒に練習していた仲間の名前や先生からのアドバイス、そして自分で気付いたコツなど、自由に書き殴るスタイルで構いないと思います。また、練習した日の他にも、雑誌やインターネットで知り得た関連知識があれば、この日記にメモしておくと役に立つことがあるかもしれません。

 

 練習日記は後年、自分の成長を振り返る際の貴重な財産にもなります。少し気恥ずかしいかもしれませんが、過去にどんな壁にぶつかり、それをどう乗り越えたか、その時々の記録を見返すことで、自分の努力の軌跡を実感することができるでしょう。老後にノートを読み返したとき、努力の成果とともに楽しい思い出が蘇るはずです。

 

 日記やノートをつけることを習慣化するためには、練習後、まだ記憶が鮮明なうちに素早く記録することが大切です。後回しにしてしまうと、詳細を忘れてしまいがちですし、次回の練習までに振り返りができなくなってしまいます。そこで、練習が終わった直後に5分ほど時間をとり、感じたことや学んだことをサッと書き出せると望ましいと思います。長文である必要はありません。短い文章でも毎日続けて書き溜めていけば、後々それが大きな財産になります。

 

 ノートや日記を書く行為は、ただ技術的な向上を目指すだけでなく、自分自身を見つめ直す機会にもなります。たとえば、習い事の過程で挫折を感じたとき、その気持ちを書き留めることで、感情を整理し、次の一歩をどう踏み出すかを冷静に考えることができます。ポジティブな面では、成功体験を記録することで、自分の努力を認め、モチベーションを維持する手助けにもなります。

 

 新しい習い事を始めた際には、ぜひ日記やノートをつけることを習慣にしてみてください。高校生が部活動で練習ノートをつけるように、大人になってからも、自分自身の成長を記録することは、技術の向上に役立つだけでなく、後々振り返ったときの大きな達成感と喜びをもたらしてくれます。コツは、気軽に自分の言葉で書き留め、続けていくこと。最初の一歩を踏み出してみれば、習い事がもっと楽しく、充実したものになるでしょう。

「エセ評論家」に陥るべからず

 もうかれこれ30年以上前から「1億総評論家時代」と謳われていましたが、近年のインターネットの普及とともに、誰もが更に簡単に意見を発信・記録できるようになり、私たちはまさに「全員が評論家」と言える時代になっています。しかし、安直な親切心かあるいは低劣な優越感からか「評論家」の役割が誤解され、中途半端な評論活動が目立つようになったことで、無責任な批判や中傷が横行し、多くの問題を引き起こしているように思います。

 

 まず「エセ評論家」とは、ここでは、他人の言説や成果物に対して浅薄に(そして悪ときには悪意・害意を以って)批判するだけで、特段の建設的な提案や修正案を提示できない人たちのこととしましょう。彼らは、自分の意見が正当であると信じ込んでいることが多く、他者に対して無責任な言葉を突きつけます。このような批判精神は何の利益も生み出さず、むしろ他者を傷つけ、組織内や社会に悪影響を与えることが多いのではないかと考えられます。

 

 これに対して「傍観者」であれば、他人の発言や成果物をただ見ているだけで、特に意見を述べることはありません。一見すると、傍観者は無関心で無責任に見えるかもしれませんが、実際には「エセ評論家」よりもはるかにましであると言えるでしょう。なぜなら、彼らは少なくとも無責任な批判はしないからです。むしろ、責任を持って批判や助言ができないのであれば、当面は何も言わない方が賢明な態度に違いありません。当に老子の「知る者は言わず。言う者は知らず。」です。

 

 エセでは無い真の評論家とは、自らの責任と知見のもとに、有益な批判や指摘、助言をし、他人を説得・納得させる力を持つ人ではないでしょうか。批判するだけでなく、問題点を明確にし、解決策を提示し、建設的な議論を促進します。他者の成長や改善を促し、社会に貢献する存在です。このような姿勢での発信こそが、私たちが目指すべき真の評論家と思います。

 

 近年、SNS上での誹謗中傷とそれによる事件が問題視されていますが、これもまた「エセ評論家」意識から生じている可能性があります。SNSは匿名性が高いため、無責任な発言に陥りがちで、それが結果として大人数による誹謗中傷に繋がることが多いようです。SNSの中で自己表現をすること自体は悪いことではありませんし、批判の精神も結構ですが、そこでの発言が相手にどのような影響を与えるのかを考えずに発信することは、非常に危険です。

 

 SNS以外の実社会においても、「エセ評論家」意識で批評、いわゆる「ダメ出し」をもしも有益としているならば、いずれ新しい意見や成果物を生み出し発信する意欲が枯渇してしまわないでしょうか? もしもこうした「エセ評論家」が管理職に増えてしまったら、その組織の低迷は不可避でしょう。

 そもそも多くの場合、不備や欠点というものは誰にでも容易に目につきやすいものであって、本来の批評とは観察と分析に基づいた長所・利点も含めた意見であるべきことは、共通認識としておきたいところです。もちろん、ときには対象の発言や成果物に明確な誤りや危険、特異な困難などがあって、批判的評価にならざるを得ないことはあれます。その場合には、相手に対して情理を尽くした表現で伝えることを心得ておくべきでしょう。

 

 現代人は、評論することの価値を過大評価しているのかもしれません。評論とは、単に批判するだけでなく、批判の結果としてそこに何らかの価値や意味を加えることが重要と考えます。しかし、評論の価値を見誤り、無責任な批判を強くそして繰り返すことで、自分自身が「エセ評論家」となってしまう危険性が大いにあります。そして増えた「エセ評論家」は組織や社会を萎縮、停滞させてしまうことでしょう。

 

 結局のところ私たちがすべきことは、まず自分自身が「エセ評論家」にならないことです。無責任な批判を避け、自らの発言に責任を持ち、相手が納得できるような言い方で建設的な意見を述べることを心がけましょう。真の評論家とは、他者を理解し、助言し、社会をより良くするための行動を取る人です。私たち一人ひとりがそのような評論家を目指すことで、社会全体が健全で前向きな議論を行う場となるでしょう。

 

簡易的別荘(セカンドハウス)保有の可能性

 日本は地震や台風などの自然災害が頻繁に発生する国であり、これらの大規模災害時の避難先が手狭になったり長期滞留になったりすることが少なくありません。その生活実態たるや海外の難民キャンプよりも低いのではないかという印象です。そのための対策ないし準備のひとつとして、別荘(セカンドハウス)の保有推進が検討されるべきではないでしょうか。これはひとり単なる災害対策としてではなく、日本国民の生活の豊かさを増進させる手段としても重要な役割を果たせるかもしれないと考えます。

 

A) 災害時の避難先不足への対策

 日本では大地震や台風、洪水が頻発し、避難所が手狭になることが多いという現実があります。このような状況下で別荘が災害時の避難先として活用することができれば、安全かつ快適な生活空間を提供できる可能性があります。別荘であればプライバシーも問題なく確保できますし、別荘を保有していない人々を大型施設(学校や公民館)で収容するにも余裕が生まれ、避難生活の質が向上できるでしょう。

 ただし食料や燃料、生活雑貨といった物資の配給については、大型施設に集まっていたほうが好都合という面があるでしょう。この点は考慮事項として追加的な配給方法を設定しておかなくてはなりません。

 

B) 生活の豊かさの向上

 別荘は単なる避難先だけでなく、日本国民の生活の豊かさを増進させる一法としても評価できるかもしれません。都市での喧騒やストレスから離れ、別荘での避暑やレジャーを通じてリフレッシュすることは、精神的な健康を促進します。これが働く人々の生活の質を向上させ、仕事に対するモチベーションも向上できそうです。

 

C) 住環境の改善への期待

 既存の住宅を増改築して広くすることは困難な場合が多く、これに代わる手段として別荘の保有が考えられます。自家用車を置くガレージやカラオケのできる防音室、日曜大工のできる工作室なども実現の可能性が高くなるでしょう。

 近年の日本経済のデフレーションの背景のひとつとして、モノ余りが挙げられますが、この点への景気対策として、新たな家具や追加的な設備の購入(消費拡大)につながる別荘保有が期待できるのではないでしょうか。

 

D) 国際的な事例からの学び

 世界的に見ても、ロシアのダーチャやドイツのクラインガルテンのように、予備的な生活拠点を持つ文化があることが知られています。(モンゴル遊牧民のパオないしゲルや北極圏イヌイットのイグルーなどといった移動式の住居文化も面白そうであり、最近の日本で「車中泊」を楽しむ人もいますが、ここでは触れません。)これらの事例を参考にすれば、別荘を持つことが住環境の改善に資する可能性があることの理解が得られるでしょう。

 また、アメリカの映画の中でもトレーラーハウスやヨットに(これらは予備や避難ではなく日常生活として)住んでいる例を見たことはないでしょうか?これからすると、決して高所得者の遊び場としての別荘だけでなく、安価に入手できる住居の存在は生活様式の選択肢となることも期待できそうです。

 

E) 人口減少への対策としての小型別荘の普及

 日本(特に地方)の人口減少が進む中で、安価で手軽に入手可能な小型別荘の普及が政策のひとつとして考えられないでしょうか?これにより、自家用車と同程度のコストで庶民が別荘を所有し、都市の喧騒から離れた生活を楽しむことが可能となります。このような取り組みは、人口減少に伴う地域の経済低迷や、都市への人口集中を緩和する効果も期待できそうです。

 総じて、日本において別荘の保有は、災害時の避難先確保だけでなく、国民の生活の豊かさを増進させ、住環境の改善にも寄与する可能性があります。国内外の成功事例を参考にし、地域ごとのニーズに合った施策を検討すること、固定資産税の優遇措置や空き家問題までも考慮することなどが重要でしょう。

 

大きな声を出す訓練

 日常生活において声の小さい人は少し損をしているように見えます。元気が無いような印象になりますし、聞き漏らした相手に悪い感情を持たれることも多いでしょう。いくつかの職業によっては、例えば教師や役者、歌手、サッカー選手などではかなり不利になるのではないでしょうか。

 

 逆に普段から不必要に声の大きい人というのも、粗雑で威圧的という印象になるので、何事も程度問題です。ただ、声量の小さい人が大きな声を出すことよりも、元々声量の大きい人が声を抑えることの方が容易なはずですので、声の小さい人はこの観点からも不利になっているのではないでしょうか。

 

 注意しておきたいのは、先天的に音声障碍を抱えた方がいる点です。わたしが子供の頃、国語の授業などで教科書を音読する声が小さいと先生から強く注意されていた同級生がいましたが、その人は日常生活でも声が小さかったため、いま考えてみると音声障碍だったのではないかと思います。現在の日本の障碍者の認定ではかなり深刻な状態でない限りは、音声障碍は認定されないことになっていますので、日本社会での音声障碍の認知度は向上させる余地が大きいのではないかとも考えます。

 

 役者や歌手、アナウンサー、応援団員などの場合には、ある程度大きな声量を持つことが必須条件であるため、養成訓練の一貫として発声練習や専門的なヴォイス・トレーニングをするのが常識になっています。方法論はきっとバラバラなのでしょうけれど、肚から声を出せるように反復練習することで、先天的な障碍が無い限りは、声量は確実に改善できるようです。(ひょっとすると練習が重すぎて、声を痛める人もあるいはいるのかもしれません。)

 

 特別な職業に就いている人以外であっても、例えばスポーツ観戦で普段より大きな声を出し続けたり、臨時の講習のために長時間にわたって多人数にマイク無しで話をしたりした翌日に声が出なくなるのも、声を出す訓練をしておけば回避ないし軽減できるのかもしれません。

 

 義務教育過程で筋力や走力などを計測することで、日本人の身体能力を継続して向上させようとしているという考え方についてはほとんどすべての人は賛同していただけると思います。例えばここに声量も計測項目に加え、音楽か体育の授業で練習してコツなどを伝えることができれば、日本国民の基礎的能力の一つが向上し、職業選択の幅も広がることが期待できないでしょうか。

 

 それにしても、身に付けさせたい知識や能力があっても、義務教育で強制させるとかえってその勉強が嫌いになってしまうことがあるのには困ったものです。

 

「良いニュース」を読みたい

 最近、「『去年のニュース』の追跡・解説ニュースを読みたい」という投稿をしたのに続いて、またニュースに関するお話をいたします。

 ジャーナリストの基本的な使命は権力に対する批判にあるというのが、現状理解として妥当なところと考えています。特に政権与党や行政省庁、大企業あたりを主な対象としていて、他には大きな天災や事故、犯罪などを採り上げて社会的な課題があればこれらに対しても真実の情報を提供することを通じて、権力の腐敗とより良い社会の実現を目指しているようです。(もっとも今日の日本のジャーナリストの現状については、いろいろと批判があるのも承知しています。野党や司法機関、外国の悪いニュースは報道しない傾向にあるようです。)

 

 先年話題になった本「FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」(ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド 著 2019年)では、一般人の理解とは異なって、アフリカの飢餓や貧困はかなり改善されていることなどを実例として、客観的かつ網羅的なデータを解説しており、ジャーナリストが常に飢餓や貧困に焦点を当てて報道していることが、一般人に誤った思い込みを刷り込んでいるという主旨が述べられていたと記憶しています。

 そもそも先ずは何らかの批判をするという構えから始まっているジャーナリストの性格から、どうしても批判の対象となるべき不正や不条理、悲劇、惨劇を取り扱うことになります。紙数や放送時間は一定で与えられているため、そうした情報を継続的に受けた一般人は全体的な現状を正確には把握できなくなるわけです。

 詳細な事実の報道の他に、背景の解説や識者の提言なども提供されることがあり、これらは客観的な理解を促すためのジャーナリストによる努力の一端なのかもしれません。とはいえその対象はやはり批判されるべき暗い現実(不正や不条理、悲劇、惨劇)になっているので、方向性が不適格という印象です。

 

 もちろん暗い現実以外の報道として、どこかの動物園でサイの赤ちゃんが誕生しただの、関西で梅が見頃になっただの、スポーツで珍しい記録が達成されただのといった情報が提供されることも確かにあります。が、社会全体からすると「こぼれ話」の域を出ませんし、報道される全体からするとささやかなものに留まっていると思います。

 他方で近年、インターネット上で相対的に右派的記事を挙げる人々を「ネトウヨ」と呼んでいますが、「日本のアレが海外から大絶賛」とか「近代の日本人の名誉回復」などを主旨とした記事がネトウヨによって取り扱われるようになったのは、上記のような既存のジャーナリストによる批判一辺倒の姿勢の不足を補完するために自然発生的に生まれたものなのかもしれません。ひょっとするとジャーナリストが事実を拾い漏れているだけなのか、些少な事項なので一般報道に値しないと見なしているのかもしれません。

 

 個人的に考える良いニュースとしては、例えば「犯罪発生の劇的低減に成功した国」とか「外交交渉で和平成立させた要人へのインタビュー」、「全校生徒の英会話能力を短期間で大幅改善した学習方法」、「住民運動で自治体の歳出削減に成功」、「他の国のノーベル賞受賞者の成果」、「白書の数字で見つかった好循環」などなど、たくさんあるはずです。

 ただ、こうしたニュースは単純に真似ができるわけではないですし、最終的な評価が定まらないということから、暗い現実のニュースよりも取り扱いが少し難しい面がありそうです。それでも方向性としてこうしたニュースを探してゆくことに意味はあるのではないかと思っています。