「エセ評論家」に陥るべからず

 もうかれこれ30年以上前から「1億総評論家時代」と謳われていましたが、近年のインターネットの普及とともに、誰もが更に簡単に意見を発信・記録できるようになり、私たちはまさに「全員が評論家」と言える時代になっています。しかし、安直な親切心かあるいは低劣な優越感からか「評論家」の役割が誤解され、中途半端な評論活動が目立つようになったことで、無責任な批判や中傷が横行し、多くの問題を引き起こしているように思います。

 

 まず「エセ評論家」とは、ここでは、他人の言説や成果物に対して浅薄に(そして悪ときには悪意・害意を以って)批判するだけで、特段の建設的な提案や修正案を提示できない人たちのこととしましょう。彼らは、自分の意見が正当であると信じ込んでいることが多く、他者に対して無責任な言葉を突きつけます。このような批判精神は何の利益も生み出さず、むしろ他者を傷つけ、組織内や社会に悪影響を与えることが多いのではないかと考えられます。

 

 これに対して「傍観者」であれば、他人の発言や成果物をただ見ているだけで、特に意見を述べることはありません。一見すると、傍観者は無関心で無責任に見えるかもしれませんが、実際には「エセ評論家」よりもはるかにましであると言えるでしょう。なぜなら、彼らは少なくとも無責任な批判はしないからです。むしろ、責任を持って批判や助言ができないのであれば、当面は何も言わない方が賢明な態度に違いありません。当に老子の「知る者は言わず。言う者は知らず。」です。

 

 エセでは無い真の評論家とは、自らの責任と知見のもとに、有益な批判や指摘、助言をし、他人を説得・納得させる力を持つ人ではないでしょうか。批判するだけでなく、問題点を明確にし、解決策を提示し、建設的な議論を促進します。他者の成長や改善を促し、社会に貢献する存在です。このような姿勢での発信こそが、私たちが目指すべき真の評論家と思います。

 

 近年、SNS上での誹謗中傷とそれによる事件が問題視されていますが、これもまた「エセ評論家」意識から生じている可能性があります。SNSは匿名性が高いため、無責任な発言に陥りがちで、それが結果として大人数による誹謗中傷に繋がることが多いようです。SNSの中で自己表現をすること自体は悪いことではありませんし、批判の精神も結構ですが、そこでの発言が相手にどのような影響を与えるのかを考えずに発信することは、非常に危険です。

 

 SNS以外の実社会においても、「エセ評論家」意識で批評、いわゆる「ダメ出し」をもしも有益としているならば、いずれ新しい意見や成果物を生み出し発信する意欲が枯渇してしまわないでしょうか? もしもこうした「エセ評論家」が管理職に増えてしまったら、その組織の低迷は不可避でしょう。

 そもそも多くの場合、不備や欠点というものは誰にでも容易に目につきやすいものであって、本来の批評とは観察と分析に基づいた長所・利点も含めた意見であるべきことは、共通認識としておきたいところです。もちろん、ときには対象の発言や成果物に明確な誤りや危険、特異な困難などがあって、批判的評価にならざるを得ないことはあれます。その場合には、相手に対して情理を尽くした表現で伝えることを心得ておくべきでしょう。

 

 現代人は、評論することの価値を過大評価しているのかもしれません。評論とは、単に批判するだけでなく、批判の結果としてそこに何らかの価値や意味を加えることが重要と考えます。しかし、評論の価値を見誤り、無責任な批判を強くそして繰り返すことで、自分自身が「エセ評論家」となってしまう危険性が大いにあります。そして増えた「エセ評論家」は組織や社会を萎縮、停滞させてしまうことでしょう。

 

 結局のところ私たちがすべきことは、まず自分自身が「エセ評論家」にならないことです。無責任な批判を避け、自らの発言に責任を持ち、相手が納得できるような言い方で建設的な意見を述べることを心がけましょう。真の評論家とは、他者を理解し、助言し、社会をより良くするための行動を取る人です。私たち一人ひとりがそのような評論家を目指すことで、社会全体が健全で前向きな議論を行う場となるでしょう。

 

簡易的別荘(セカンドハウス)保有の可能性

 日本は地震や台風などの自然災害が頻繁に発生する国であり、これらの大規模災害時の避難先が手狭になったり長期滞留になったりすることが少なくありません。その生活実態たるや海外の難民キャンプよりも低いのではないかという印象です。そのための対策ないし準備のひとつとして、別荘(セカンドハウス)の保有推進が検討されるべきではないでしょうか。これはひとり単なる災害対策としてではなく、日本国民の生活の豊かさを増進させる手段としても重要な役割を果たせるかもしれないと考えます。

 

A) 災害時の避難先不足への対策

 日本では大地震や台風、洪水が頻発し、避難所が手狭になることが多いという現実があります。このような状況下で別荘が災害時の避難先として活用することができれば、安全かつ快適な生活空間を提供できる可能性があります。別荘であればプライバシーも問題なく確保できますし、別荘を保有していない人々を大型施設(学校や公民館)で収容するにも余裕が生まれ、避難生活の質が向上できるでしょう。

 ただし食料や燃料、生活雑貨といった物資の配給については、大型施設に集まっていたほうが好都合という面があるでしょう。この点は考慮事項として追加的な配給方法を設定しておかなくてはなりません。

 

B) 生活の豊かさの向上

 別荘は単なる避難先だけでなく、日本国民の生活の豊かさを増進させる一法としても評価できるかもしれません。都市での喧騒やストレスから離れ、別荘での避暑やレジャーを通じてリフレッシュすることは、精神的な健康を促進します。これが働く人々の生活の質を向上させ、仕事に対するモチベーションも向上できそうです。

 

C) 住環境の改善への期待

 既存の住宅を増改築して広くすることは困難な場合が多く、これに代わる手段として別荘の保有が考えられます。自家用車を置くガレージやカラオケのできる防音室、日曜大工のできる工作室なども実現の可能性が高くなるでしょう。

 近年の日本経済のデフレーションの背景のひとつとして、モノ余りが挙げられますが、この点への景気対策として、新たな家具や追加的な設備の購入(消費拡大)につながる別荘保有が期待できるのではないでしょうか。

 

D) 国際的な事例からの学び

 世界的に見ても、ロシアのダーチャやドイツのクラインガルテンのように、予備的な生活拠点を持つ文化があることが知られています。(モンゴル遊牧民のパオないしゲルや北極圏イヌイットのイグルーなどといった移動式の住居文化も面白そうであり、最近の日本で「車中泊」を楽しむ人もいますが、ここでは触れません。)これらの事例を参考にすれば、別荘を持つことが住環境の改善に資する可能性があることの理解が得られるでしょう。

 また、アメリカの映画の中でもトレーラーハウスやヨットに(これらは予備や避難ではなく日常生活として)住んでいる例を見たことはないでしょうか?これからすると、決して高所得者の遊び場としての別荘だけでなく、安価に入手できる住居の存在は生活様式の選択肢となることも期待できそうです。

 

E) 人口減少への対策としての小型別荘の普及

 日本(特に地方)の人口減少が進む中で、安価で手軽に入手可能な小型別荘の普及が政策のひとつとして考えられないでしょうか?これにより、自家用車と同程度のコストで庶民が別荘を所有し、都市の喧騒から離れた生活を楽しむことが可能となります。このような取り組みは、人口減少に伴う地域の経済低迷や、都市への人口集中を緩和する効果も期待できそうです。

 総じて、日本において別荘の保有は、災害時の避難先確保だけでなく、国民の生活の豊かさを増進させ、住環境の改善にも寄与する可能性があります。国内外の成功事例を参考にし、地域ごとのニーズに合った施策を検討すること、固定資産税の優遇措置や空き家問題までも考慮することなどが重要でしょう。

 

大きな声を出す訓練

 日常生活において声の小さい人は少し損をしているように見えます。元気が無いような印象になりますし、聞き漏らした相手に悪い感情を持たれることも多いでしょう。いくつかの職業によっては、例えば教師や役者、歌手、サッカー選手などではかなり不利になるのではないでしょうか。

 

 逆に普段から不必要に声の大きい人というのも、粗雑で威圧的という印象になるので、何事も程度問題です。ただ、声量の小さい人が大きな声を出すことよりも、元々声量の大きい人が声を抑えることの方が容易なはずですので、声の小さい人はこの観点からも不利になっているのではないでしょうか。

 

 注意しておきたいのは、先天的に音声障碍を抱えた方がいる点です。わたしが子供の頃、国語の授業などで教科書を音読する声が小さいと先生から強く注意されていた同級生がいましたが、その人は日常生活でも声が小さかったため、いま考えてみると音声障碍だったのではないかと思います。現在の日本の障碍者の認定ではかなり深刻な状態でない限りは、音声障碍は認定されないことになっていますので、日本社会での音声障碍の認知度は向上させる余地が大きいのではないかとも考えます。

 

 役者や歌手、アナウンサー、応援団員などの場合には、ある程度大きな声量を持つことが必須条件であるため、養成訓練の一貫として発声練習や専門的なヴォイス・トレーニングをするのが常識になっています。方法論はきっとバラバラなのでしょうけれど、肚から声を出せるように反復練習することで、先天的な障碍が無い限りは、声量は確実に改善できるようです。(ひょっとすると練習が重すぎて、声を痛める人もあるいはいるのかもしれません。)

 

 特別な職業に就いている人以外であっても、例えばスポーツ観戦で普段より大きな声を出し続けたり、臨時の講習のために長時間にわたって多人数にマイク無しで話をしたりした翌日に声が出なくなるのも、声を出す訓練をしておけば回避ないし軽減できるのかもしれません。

 

 義務教育過程で筋力や走力などを計測することで、日本人の身体能力を継続して向上させようとしているという考え方についてはほとんどすべての人は賛同していただけると思います。例えばここに声量も計測項目に加え、音楽か体育の授業で練習してコツなどを伝えることができれば、日本国民の基礎的能力の一つが向上し、職業選択の幅も広がることが期待できないでしょうか。

 

 それにしても、身に付けさせたい知識や能力があっても、義務教育で強制させるとかえってその勉強が嫌いになってしまうことがあるのには困ったものです。

 

「良いニュース」を読みたい

 最近、「『去年のニュース』の追跡・解説ニュースを読みたい」という投稿をしたのに続いて、またニュースに関するお話をいたします。

 ジャーナリストの基本的な使命は権力に対する批判にあるというのが、現状理解として妥当なところと考えています。特に政権与党や行政省庁、大企業あたりを主な対象としていて、他には大きな天災や事故、犯罪などを採り上げて社会的な課題があればこれらに対しても真実の情報を提供することを通じて、権力の腐敗とより良い社会の実現を目指しているようです。(もっとも今日の日本のジャーナリストの現状については、いろいろと批判があるのも承知しています。野党や司法機関、外国の悪いニュースは報道しない傾向にあるようです。)

 

 先年話題になった本「FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」(ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド 著 2019年)では、一般人の理解とは異なって、アフリカの飢餓や貧困はかなり改善されていることなどを実例として、客観的かつ網羅的なデータを解説しており、ジャーナリストが常に飢餓や貧困に焦点を当てて報道していることが、一般人に誤った思い込みを刷り込んでいるという主旨が述べられていたと記憶しています。

 そもそも先ずは何らかの批判をするという構えから始まっているジャーナリストの性格から、どうしても批判の対象となるべき不正や不条理、悲劇、惨劇を取り扱うことになります。紙数や放送時間は一定で与えられているため、そうした情報を継続的に受けた一般人は全体的な現状を正確には把握できなくなるわけです。

 詳細な事実の報道の他に、背景の解説や識者の提言なども提供されることがあり、これらは客観的な理解を促すためのジャーナリストによる努力の一端なのかもしれません。とはいえその対象はやはり批判されるべき暗い現実(不正や不条理、悲劇、惨劇)になっているので、方向性が不適格という印象です。

 

 もちろん暗い現実以外の報道として、どこかの動物園でサイの赤ちゃんが誕生しただの、関西で梅が見頃になっただの、スポーツで珍しい記録が達成されただのといった情報が提供されることも確かにあります。が、社会全体からすると「こぼれ話」の域を出ませんし、報道される全体からするとささやかなものに留まっていると思います。

 他方で近年、インターネット上で相対的に右派的記事を挙げる人々を「ネトウヨ」と呼んでいますが、「日本のアレが海外から大絶賛」とか「近代の日本人の名誉回復」などを主旨とした記事がネトウヨによって取り扱われるようになったのは、上記のような既存のジャーナリストによる批判一辺倒の姿勢の不足を補完するために自然発生的に生まれたものなのかもしれません。ひょっとするとジャーナリストが事実を拾い漏れているだけなのか、些少な事項なので一般報道に値しないと見なしているのかもしれません。

 

 個人的に考える良いニュースとしては、例えば「犯罪発生の劇的低減に成功した国」とか「外交交渉で和平成立させた要人へのインタビュー」、「全校生徒の英会話能力を短期間で大幅改善した学習方法」、「住民運動で自治体の歳出削減に成功」、「他の国のノーベル賞受賞者の成果」、「白書の数字で見つかった好循環」などなど、たくさんあるはずです。

 ただ、こうしたニュースは単純に真似ができるわけではないですし、最終的な評価が定まらないということから、暗い現実のニュースよりも取り扱いが少し難しい面がありそうです。それでも方向性としてこうしたニュースを探してゆくことに意味はあるのではないかと思っています。

 

本皮製品はなるべく避けることをオススメ

 毎回のことですが、今回は特に個人的な指向を開陳いたします。それは何か日用品を購入する際に、本皮(天然皮革)を使ったものはなるべく避けましょうということです。特にファッションに気を使わないビジネスマンの方もベルトや靴、財布、カバンなどは期せずして本皮製のものばかりを選んでしまっていないでしょうか?そもそもこうした日用品は店頭に並んでいるもののほとんどが本皮製なので、それ以外の選択肢が狭いというのも実情です。

 

 なお「毛皮」製品に対しては、動物愛護の観点から毛皮(リアル・ファー)反対運動が近年になって世界的な広がりを見せています。しかし毛皮製品というのは基本的に贅沢品なので、選ばないし買わないというのも自然な選択になるので、個人的には重大事ではありません。

 

 本皮製品を避けることをお勧めする理由は、とにかく劣化の危険を無視できないという点です。しばらく使わないで置いておくと表面にカビが生えたり、細かい亀裂がはいって固くなったりということで必ず泣くことになります。高級ブランド品ならば加工(なめし)が特別になって長持ちするのかというと、そんなこともありません。やはり本皮製品が作られるようになったヨーロッパの大半の地域に比べると、日本の気候は湿度が高いために本皮製品の使用・保管にそもそも適さないのでしょう。(急な雨に降られたときの本皮製カバンなんて、かなり惨めなものですよね。)

 専用クリーナーかクリームなどで何らかの手入れをすることで、劣化をある程度は低減できるのかもしれませんが、これはかなり技術と手間を要求されることになります。まぁ、野球のグローブやサッカーのスパイク・シューズなどであれば、日用品を超えた大事な道具として手入れにも流石に意欲が湧くに違いありません。

 

 カビやヒビ割れ以外の表面劣化、例えばツヤや退色、小さな傷については、「エイジング」と呼んで愛着を増す人もいるようですが、そうなる前に駄目にしてしまう危険を無視できません。

 「数ヶ月で駄目になってしまっても納得できるか?」「必要な手入れをこまめにかけられるか?」「合成皮革でもほとんど同じでは?」といった質問を商品選択時に自分自身に投げ掛けてみるようにしたいものです。

 なお最近の紳士向けの靴では、合成皮革製の選択肢が広がっている印象です。カバンも男性ビジネスマン向けのものは、黒色の合成繊維製が主流になっています。紳士向けのベルトだけは、ほとんど本皮製ですが、合成皮革や編込みのものが見られます。

 ビジネスマンとはTPOが異なりますが、アメリカ陸軍の兵士が履くブーツも現在は本皮製でなく合成繊維製に入れ替わっているそうです。やはり合理性を追求すると、本皮製は選ばれなくなる時代なのだと感じます。

 

長距離走の中継所やゴール地点での安全対策を考える

 正月三が日にニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝大会)や箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)を見て過ごす人は、テレビ離れの昨今にあってもまだまだ多いのではないでしょうか。沿道で応援している人も非常に多く、参加している企業や大学の関係者でなくとも一流ランナーの集団そして走行フォームを実際に間近で見るというのは何か感じるものがありそうです。

 

 ただ、ずっと昔から個人的に不満を感じているのが、中継所やゴールでタスキを渡したランナーが路面に倒れ込んでしまった場合の関係者の応対が、非常に雑であるという点です。

 

 日本陸上競技連盟駅伝競走規準(2015年3月修改正)の「第6条 中継」の中で「2. たすきを受け取る走者は、前走者の区域(中継線の手前の走路)に入ってはならない。また、たすきを渡した走者は直ちにコース外に出なければならない。」と定められているため、タスキを渡した走者がコース内の路面で倒れているというのは厳密には違反行為になるはずです。ともかく完走した走者なので、同じチームの人員が介助しても問題は無いはずですが、多くの場合、大会運営者と思しき係員が走者に大判のタオルを掛けて、立ち上がって退くように少しの距離を支えて歩く程度のことしかしていません。

 

 路面に倒れているということは死力を尽くして走りきったということですから、独力で「直ちにコース外に出」るのが無理なのは明らかです。こういう場合を想定して、同じチームの人員を中継所やゴールに3人程度を配置しておき、走ってきた走者をそのまま正面から抱き止めるか、路面に倒れた走者を優しく複数で抱え上げるくらいの対応は可能に思えます。

(こうした介助要員については、ルールに該当する規定を追加する必要はあるでしょう。)

 

 あるいは中継所やゴールに、走り高跳びなどで使用する大きなクッションを設置しておき、そこに倒れ込むように指示しておけば、路面に倒れ込むよりは安全でしょう。もちろんクッションはコースの邪魔にならないように中継線やゴールラインを過ぎた左右(特に右)の路肩に設置すれば良いと思います。

 

 また、ニューイヤー駅伝も箱根駅伝も見ている限り、いずれのレースでも道路の左側を走行するようなコースにしていたはずです。このためなのか、中継所やゴールでは複数の走者が続けざまに到着することがあり、タスキの受け渡しの際に交錯や衝突することの無いように走者も運営係員も注意しているようです。例えばこれも中継線やゴールラインを過ぎた右側に十分な空きスペースを確保しておけば、倒れ込む走者もクールダウンで歩く走者もそのスペース(すなわちコース外)で安全に退避できますので、運営面でもより円滑になるのではないでしょうか?

 

 それにしても日本のスポーツ界に対しては、長距離走に限らず安全対策の不備が指摘されることがたびたびあるように感じられます。協会の代表や幹部はいったい何に注力しているのでしょうか。

 

初歩的な質問には要注意

 他人に何かしら教える立場になったときに、期せずして初歩的な質問を受けることがあるかもしれません。そうした場面で人によっては「今ここでなぜそんな質問をするのか!」と直情的に怒りを覚える方もおられるようです。しかし、こうした質問こそ慎重に回答しなければならない例も多いのではないでしょうか。以下少しいっしょに考えてみましょう。

 

 そもそもの大前提として日本人は一般的に消極的であり、「何か質問はありますか?」と促しても、手が挙がることは極めて稀です。それでも質問が挙がったということは、説明者の説明内容に興味を持った、そしてこの説明者の説明能力は十分なので質問をすればきっと的確な回答を期待できる人物として認定したという意味になります。これは教育者冥利に尽きることですので、まずは素直に喜びましょう。

 

 さて、質問の中には嫌味や批判の意図をもった(修辞)疑問もあるかもしれません。例えば国会質問の場面で、野党側が最初に法律の立法趣旨や制度設計などといった基本的な事項を与党側に説明させるような質問をあえて投げ掛け、続く質問で実態や現状は所期のような成果や運営ができていないとして批判するといった流れが思いつきます。これは説明や教育というより、一歩進んだ討論の段階ですので、説明としてはもう完了していると見なせるでしょう。

 それでも説明や教育の場を借りてでも批判を述べて鬱憤を晴らそうとする人は一定割合で潜在しているので、「質問」する相手が違うと返しておけば十分でしょう。

 

 上記に類似した質問のかたちとしては、いわばワン・ツー・パンチのように最初の質問で探りをいれて、続く質問で掘り下げた質問を続けることが見られます。この場合には嫌味や批判の意図はなく、説明者の価値観や方向性、問題認識を確認しながら質問しているので、これはこれで少し手強い質問者といえます。最初の質問が何か曖昧に聞こえるので、不用意に答えてしまうと、続く質問は慎重に答えなければならないような件になっていて少し困るという事態が起こり得ます。

 もしもあまり大まかな質問や前提を確認するような質問に出くわしたら、「その心は?」と質問の意図について聞いて置き、予防線を張ることも頭に入れておくと良いと思います。

 

 さらには説明者の説明能力や理解力を試験するために、知っていることを敢えて聞いてくる事例もあるでしょう。これはやや意地悪かもしれませんが、上司が部下の理解や能力を確認するために、質問の形で査定しているわけです。

 上司などが質問してきた場合など、本当に分かっていないことも多いでしょうが、こうした査定試験になっていることもあるので、的確な長さで正確な表現を使って説明するように留意しておくべきです。

 

 続く初歩的かつ手強い質問としては、厳密な定義や起源などに関する質問で、且つそれについての定説が決まっていない場合です。説明を初めて受けた側としては、能くある質問の類になりますので、説明する側は本来分かり易い解説を用意しておくべき事項になります。しかし専門的にも諸説に分かれている事項、歴史的起源が不明とされているといった事項については説明の流れが悪くなりますし、少なくとも最初の概要説明の段階では触れたくないというのも妥当なところです。

 こうした質問に対しては、諸説あることや起源が不明確であることをそのまま伝えるしかありません。また、諸説あるという事項については、説明を誤魔化したかのような印象を与えないように簡単にでも二つ以上の説を説明したいところです。

 

 普通であれば既に知っているはずの基礎的事項について、純粋率直に質問してくるようなこともあります。これは質問者がうっかり忘れているということであれば、それだけのことですが、事前説明する人ない組織が説明や研修の手抜きをしているということが背景として考えられます。例えば新入社員研修で少し込み入った説明会をしている段階になっているのに、基礎的な用語についての説明を求めてきたら、より以前の段階での説明会で不足があったということに他なりません。これは組織担当者の責任問題であって、質問によってそれが露見したということになります。決して説明者にしわ寄せがゆかないようにしなければなりません。

 

 「初歩的」から少し離れて、的外れに思える質問が向けられることも考えられます。こうした質問に対しては、「それはこの件と全然関係無いじゃないか!何を聞いているんだ!」と怒り出す説明者がいそうです。しかし質問者の固有の問題意識あるいは単なる思い込みから生まれた突飛な言動に対しても、説明者としては原則として寛容な姿勢を見せることが大切と思います。「その心は?」と質問者の思考回路を辿ってみると、それなりに面白い視点からの質問になっていることもあるかもしれません。

 

 それにしてもそもそも質問が挙がってこない風土というのは、説明する側に魅力が無いというのが一因になっているのかもしれませんね。