他人に何かしら教える立場になったときに、期せずして初歩的な質問を受けることがあるかもしれません。そうした場面で人によっては「今ここでなぜそんな質問をするのか!」と直情的に怒りを覚える方もおられるようです。しかし、こうした質問こそ慎重に回答しなければならない例も多いのではないでしょうか。以下少しいっしょに考えてみましょう。
そもそもの大前提として日本人は一般的に消極的であり、「何か質問はありますか?」と促しても、手が挙がることは極めて稀です。それでも質問が挙がったということは、説明者の説明内容に興味を持った、そしてこの説明者の説明能力は十分なので質問をすればきっと的確な回答を期待できる人物として認定したという意味になります。これは教育者冥利に尽きることですので、まずは素直に喜びましょう。
さて、質問の中には嫌味や批判の意図をもった(修辞)疑問もあるかもしれません。例えば国会質問の場面で、野党側が最初に法律の立法趣旨や制度設計などといった基本的な事項を与党側に説明させるような質問をあえて投げ掛け、続く質問で実態や現状は所期のような成果や運営ができていないとして批判するといった流れが思いつきます。これは説明や教育というより、一歩進んだ討論の段階ですので、説明としてはもう完了していると見なせるでしょう。
それでも説明や教育の場を借りてでも批判を述べて鬱憤を晴らそうとする人は一定割合で潜在しているので、「質問」する相手が違うと返しておけば十分でしょう。
上記に類似した質問のかたちとしては、いわばワン・ツー・パンチのように最初の質問で探りをいれて、続く質問で掘り下げた質問を続けることが見られます。この場合には嫌味や批判の意図はなく、説明者の価値観や方向性、問題認識を確認しながら質問しているので、これはこれで少し手強い質問者といえます。最初の質問が何か曖昧に聞こえるので、不用意に答えてしまうと、続く質問は慎重に答えなければならないような件になっていて少し困るという事態が起こり得ます。
もしもあまり大まかな質問や前提を確認するような質問に出くわしたら、「その心は?」と質問の意図について聞いて置き、予防線を張ることも頭に入れておくと良いと思います。
さらには説明者の説明能力や理解力を試験するために、知っていることを敢えて聞いてくる事例もあるでしょう。これはやや意地悪かもしれませんが、上司が部下の理解や能力を確認するために、質問の形で査定しているわけです。
上司などが質問してきた場合など、本当に分かっていないことも多いでしょうが、こうした査定試験になっていることもあるので、的確な長さで正確な表現を使って説明するように留意しておくべきです。
続く初歩的かつ手強い質問としては、厳密な定義や起源などに関する質問で、且つそれについての定説が決まっていない場合です。説明を初めて受けた側としては、能くある質問の類になりますので、説明する側は本来分かり易い解説を用意しておくべき事項になります。しかし専門的にも諸説に分かれている事項、歴史的起源が不明とされているといった事項については説明の流れが悪くなりますし、少なくとも最初の概要説明の段階では触れたくないというのも妥当なところです。
こうした質問に対しては、諸説あることや起源が不明確であることをそのまま伝えるしかありません。また、諸説あるという事項については、説明を誤魔化したかのような印象を与えないように簡単にでも二つ以上の説を説明したいところです。
普通であれば既に知っているはずの基礎的事項について、純粋率直に質問してくるようなこともあります。これは質問者がうっかり忘れているということであれば、それだけのことですが、事前説明する人ない組織が説明や研修の手抜きをしているということが背景として考えられます。例えば新入社員研修で少し込み入った説明会をしている段階になっているのに、基礎的な用語についての説明を求めてきたら、より以前の段階での説明会で不足があったということに他なりません。これは組織担当者の責任問題であって、質問によってそれが露見したということになります。決して説明者にしわ寄せがゆかないようにしなければなりません。
「初歩的」から少し離れて、的外れに思える質問が向けられることも考えられます。こうした質問に対しては、「それはこの件と全然関係無いじゃないか!何を聞いているんだ!」と怒り出す説明者がいそうです。しかし質問者の固有の問題意識あるいは単なる思い込みから生まれた突飛な言動に対しても、説明者としては原則として寛容な姿勢を見せることが大切と思います。「その心は?」と質問者の思考回路を辿ってみると、それなりに面白い視点からの質問になっていることもあるかもしれません。
それにしてもそもそも質問が挙がってこない風土というのは、説明する側に魅力が無いというのが一因になっているのかもしれませんね。