ホウ・レン・ソウだけでは不足

 1982年に出版された「ほうれんそうが会社を強くする」(山崎富治 著)で広まったホウ・レン・ソウは、「報告」と「連絡」と「相談」を欠かさないように管理職が新入社員向けに要求することで今や社員教育の常識になった感がありますが、元々この本の主旨としては社員がそうできるような組織風土を管理職は醸成しましょうという点にあったそうです。しかし、どうやったら醸成できるのかが分からない多くの人は、とりあえず形から入って新入社員の遵守事項とするように指示して一旦安心しているのが現状でしょう。

 

 この現状については主旨に回帰するかのように、2017年のツイッター記事で「お・ひ・た・し」という管理職向けの心得を紹介した人があり、こちらも有名になりつつあります。これは相談などに対して管理職は、「怒らない」ことや「否定しない」、「助ける(困り事があれば)」、「指示する」といった姿勢で対応しましょうというものでした。

 たしかに部下からのホウ・レン・ソウに対して感情的になって怒ったり、軽んじて否定したり、具体的な対応策で助けなかったり、適切な指示が無かったりすれば、いずれ誰もホウ・レン・ソウしなくなるというのは当然と言えば当然です。

 

 もうひとつホウ・レン・ソウについて個人的に気になっているのは、報告と連絡との意味が似通っているため、多分に言葉遊びか語呂合わせを優先したような印象があり、意思疎通(コミュニケーション)の内容分類としては決して適正では無いように感じられる点です。

 「ほうれんそうが会社を強くする」の著者は山種証券の社長だったということで、実務家の立場から善意で分かりやすさを優先していたものと思いますが、読む側としては本の主旨を十分に消化したいところです。

 もう一歩踏み込んで、更に細かい分類と意味を以下に思いつくまま10個ほど挙げてみましたが、いかがでしょうか。それぞれの定義に続けて実務的な留意事項やコツがもっとありそうですので、また機会があれば書いてみたいと思います。

 皆さんの視点や経験からは未だ他に項目や分類方法がないでしょうか。

 

  • 質問:適時に適任者に疑問点を明確にして聞くこと。回答はメモしておく。
  • 回答:質問に対して的を射た詳しい内容で相手が理解できるように導くこと。
  • 経過報告:進行中の事案について情報共有すべき関係者に状況を連絡すること。
  • 結果報告:完了した事案について情報共有すべき関係者に成果を連絡すること。
  • 依頼:相手に対して作業や対応を要する作業を指示すること。達成基準を明確に。
  • 情報共有:関係者に有用な参考情報を連絡しておくこと。
  • 相談:過不足の有無や不明確な対象などの不安について助言を求めること。
  • 助言:受けた相談や気づいた不十分箇所について、相手の成功になるよう意見すること。
  • 指摘:発見した不具合や誤りについて適任者に確認と対処を求めること。
  • 感謝:相手の作業や貢献について謝意を示すこと。

 

 それにしても、「ほうれんそうが会社を強くする」を読んで曲解して短絡的な方策を打ってしまうのは、難しい取り組みに対する「当事者意識の低さ」に起因しているようで、他の取り組みについてもこうした対応例がありそうで困ったものです。

 

本当に体育的なスポーツ種目を勧めて欲しい

 子供の頃に習い事や部活などで好きなスポーツに取り組んだ経験のある方は多いと思います。子供の時代にスポーツに取り組むことは、その後の人生においても基礎体力づくりなどの面で貴重な財産になるので(文化部も良いが)、経験して損は無いように思います。

 ところでその種目を選んだ理由は何だったでしょうか。見ていて自分もやりたくなった、友達に誘われたなど様々な経緯があると思いますが、基本的には自分で判断して自由に選択しているはずです。

 

 ところで個人的には中学時代に「テニスをやると利き腕の方が長くなってしまう」とか「サッカーをやると足が短くなる」、「水泳部は冬にやることがない」といった種目ごとのおかしな噂話を聞いて迷った記憶があります。

 

 ここでちょっと体育的に理想的なスポーツ種目、特に成長期の子供が身体を育成するのに相応しい種目というのは無いのかと素人ながら思いつきで考えてみたいと思います。

 理想的というのは、持久力、瞬発力、柔軟性、巧緻性、バランス、精神といった多面的な「体力要素」を使う(養う)ものであること、足だけでなく腕や背中、腰などなるべく全身を使う(養う)ものであること、走ることに加えて跳ぶ、投げるといった多様な動作がある(養う)こと、怪我が少ないこと、取り組んでいて面白味のあること、用具や設備の面で取り組みやすいことを備えていて欲しいです。 

 

 現在広く楽しまれているスポーツ種目はどうも上記の理想に程遠いものが多い気がします。

 例えば野球は巧緻性と瞬発力に偏り気味で、ポジションによってはその偏りが大きくなっているようです。サッカーは野球よりましですが足の能力に偏り気味に映ります。またゴルフは野球よりも更に偏った感じです。結局のところ広く楽しまれているスポーツというのは、どうもゲームとしての面白味のある種目が選ばれる傾向にありそうです。

 

 球技ではハンドボールは比較的バランスがとれた種目であるとどこかで聞いたことがありますが、怪我が比較的多いそうです。陸上競技では400メートル・ハードルが要求される体力要素の多い種目だそうですが、どうしても足腰の能力に大きく依存しているように見受けられます。水泳は全身運動として比較的理想に近いと思えますが、夏以外は室内温水プールの設備を要するという比較的大きい難題があります。

 

 結局はひとつの種目に拘らずに、並行して楽しんだり、季節によって種目を変えたり、成長段階によって変えるといった方策で子供の心身の成長にとっての糧とすることが理想なのかもしれません。

 

 それにしてもどうも現実には野球一筋とかバレー一筋、さらに勉強は後回しになる運営体質が日本全国津々浦々に残っているようですので、スポーツ種目の選択やその推進の面で子供の心身の成長についての理想なんぞは考えてもらえないのには困ったものです。

 

尊敬する人物を問う意味

 時折、小学生などの子供が尊敬する人物を調査した結果が報道されることがあり、ほぼ間違いなく上位に「両親」が入っていることについてどうお思いでしょうか。感謝している人物ということであれば、何も違和感は無いのですが、尊敬というのはかなり意味が違うのではないかと、そうした報道を見聞きする都度いぶかしんでいます。

 

 もしもこの調査というのが、入試などの面接のためのものというのであれば、現実的な対策として両親を挙げるのは利口な選択肢として素直に飲み込むことはできます。

 つまり面接のとき尊敬する人物を問うのは面接官が、特に当たり障りのない話題をもとに口頭での説明能力を中心とする知力を把握でき、さらに話しぶりから性格や態度もある程度は推測可能で、憧れの方向から将来への指向や意欲がなどを知る材料になるからでしょう。

 すると面接を受ける側は、あまり深く問われると説明に窮するような人物や、価値観や知的水準について誤解されそうな分野の人物は書かなくなります。より具体的にはまず政治関係者は除外、近代の高度で専門的な分野の功労者も除外、宗教思想関係者も歴史上の偉人も除外してくるでしょう。

 面接官が特にケチをつけることができず、面接を受ける側が当たり障りのない理由を比較的容易に説明できる格好の人物が「両親」というわけです。(たしか欧米でもこうした調査の上位には両親が挙がっているようです。) 他には年長の面接官ではあまり詳しく知らないであろう、スポーツ選手やお笑い芸人などを挙げることも多いようです。これはこれで利口な対応でしょう。

 

 どうも調査する側も面接官も尊敬する人物を聞く意味をそもそもあまり考えておらず、惰性で設問のひとつに置いているだけのように思えてなりません。

 尊敬する人物を調査結果で「両親」が上位入っていることに関して考えてしまうのは、両親を目標にしている限り次世代は現在を越えられそうにないという印象を受けるためです。一人ひとりがもう少し大きな夢や高い業績、高貴な志などに憧れを持っていなければ、世代を重ねてゆくにつれてどんどん了見の狭い人物が増えてゆくことになりそうな気がするのです。

 

 現実的には、成人して会社組織などに所属するようになれば、いやでもそこで目標を与えられるので、各自がその持ち場でより良い将来を目指すことになります。したがって子供の頃の尊敬する人物はそれほどの影響は無いのかもしれません。意味が無いのであれば、面接や調査では何か他のことを尋ねた方が良いでしょう。

 

 それにしても子供の大きな夢についてしばしば年長者が揶揄したり、歴史上の偉人について幻滅させるようなエピソードの紹介にジャーナリストが注力したりするのには困ったものです。

 

説明「能力」以前の問題

 説明する側の立場の人が「一から十まで教えてはいられない」とか「いちいち説明していたら切りがない」などという言い方で、説明を放棄する場面を見聞きしたことは誰しも経験したことがあるものと思います。

 そもそも日本人のコミュニケーション・スキルが不足しているという指摘は、書店のビジネス書のコーナーにある多くの類書で触れられているところです。さらに、仕事の取り組み姿勢がずっと「勘と経験と度胸」になっていた場所であれば、そもそも言語化する能力が必要とされていなかったことも一因となっているのでしょう。

 

 しかし考えてみると、説明を放棄するに至る真因は能力の高低でなく、そもそも日本人の習慣として(特に目下の人間へ向けては)意を尽くした説明をすることについては非常に面倒くさいと感じているように思えてならないのです。

 

 言葉尻を捕らえた揚げ足取りのようですが、せいぜい「1から10」くらいまで説明事項であれば、順を追ってじっくり説明してゆけば良さそうなものです。10までしか数えられないのでしょうか。またいくら「切りがない」といっても、300以上の分類や類型しかないようなものはそう多くはないはずで、何事もそれこそ3つとか7つとか12くらいの大分類に区分した初心者向けの説明が可能というのが通常ではないでしょうか。

 

 やはり、「お前なんかのために必死に頭を使って説明するなどというのは面倒でやっていられない」という本音を少しだけ曖昧にして説明者側が悪者にならないようにする科白が、冒頭で示した言い方のように思えませんか。

 本当のところは、説明する側が初心者向けの説明の準備に時間を十分に割いていなかったり、そもそも勘と経験と度胸で体得しているので頭の中で明確な体系づけや言語化をできていなかったり、口頭説明も図解表現も文書作成も習熟していないというのが、日本の実情と思えます。

 

 さらに日本には未だなお上下関係が頑然と存在しているため、上にあたる説明する側に対して下から無能や努力不足を指摘することは全く不可能です。仮に下の立場から上の立場に何か説明や報告をする場面であっても、上の立場が勘と経験と度胸で世を渡ってきているとなると説明の品質などはおそらく重要視しないのでしょう。

 

 評論家ぶった口先だけの人間より、職人肌で黙って手を動かす人間の方が今でも多くの人に好ましく感じられるとしても、やはり現代では丁寧な説明することを惜しまないということをより重要な美点としなければならないと思います。

 

 それにしても、2010年くらいから「考えさせる教育」という言葉が増えるにつれて、「マニュアル教育」が批判されているように見受けられますが、未だまだ日本はマニュアルでの十分な説明が全くできていないのには困ったものです。

 

 

 

監査が邪魔だと感じたら

 2001年12月のエンロン破綻とそれを受けた米国株式市場の危機を受け、2002年7月に制定された粉飾決算防止を主目的としたSOX法は、我が国にも影響を与え、2006年6月には「金融商品取引法」(いわゆる日本版SOX法)が制定されました。これ以降特に『コンプライアンス』(法令遵守)は完全に日常業務用語として定着した感があります。

 また会計上の粉飾以外でも、食品製造における賞味期限切れ材料や生産地の偽装、事故や不正の隠蔽などがニュースで取り上げられる度にコンプライアンスやコーポレート・ガバナンスの重要性が叫ばれるようになっています。

 現実に会社勤めをされている方でも、近年になってコンプライアンスのための定期的に監査が業務の中に飛び込んでくることが増えていると感じていないでしょうか。

 

 ここにおいて監査を受ける現場では、「コンプライアンスの重要性は分かっているけれど、こんな繁忙期に時間を取られるのは遠慮したい」や「監査のために報告書をまとめるというのは何とも内向きの仕事で意欲が出ない」、「監査対応の事務負担が年々重くなっている気がする」といった本音が潜んでいるものと推察しています。これを長期に放置しておくと、検査逃れや不正報告、形骸化といった事態に繋がってしまうため、コンプライアンスの推進のために、定期的な社内教育で法令遵守の理解を徹底するように、ある程度の大企業であれば今日現在においては既に定着しているようです。

 

 監査の必要性を再認識するには、過去の具体的な事故事例からその被害の重要性(マイナスの影響)をより広く、深く知るということが主流になりがちですが、組織がその目的に向かって邁進してゆくための補助(プラスの影響)になり得ることも知っておきたいところです。

 

 話は変わりますが、自動車の直進安定性を向上するための技術として、ホイール・アライメントという方法があります。これは自動車を上から見たときに、前輪があたかもカタカナの「ハ」の字になるように前に向けてすぼまるよう(「トーイン」と呼ばれるかたち)に設置するものです。この調整作業については「ミニ四駆」に親しまれた方もご存知かもしれません。(ミニ四駆は株式会社タミヤの登録商標です)

 前輪を精密な平行でなく「ハ」の字に設置することは、走行時に余計な路面抵抗が発生することに繋がるわけですが、それを踏まえた上でも自動車の直進安定性を優先させるというのが常識になっているということです。

 目的に向かって組織内全員でベクトルを合わせて安定して進んでゆくには、目的に向かって直進するため必要な若干の抵抗、ここでは直接業績や運営に寄与しない「監査」が機能的にも必要ということであると理解できるのではないでしょうか。

 

 それにしても監査のための業務負担は軽いに越したことはありません。

 なるべく機械的・電子的に必要な記録が自動的に保存・整理され、監査の際には容易に証跡として提示できるような業務環境を整備するための投資も望まれますが、このあたりはいつも後回しにされがちなのは困ったものです。

 

 

 

 

 

キラキラネームは減らない

 2000年代からだろうか、『キラキラネーム』として従来の常識からかけ離れた子供の名前が増加し、テレビや新聞でときおり話題になることがありました。(2012年の新語・流行語大賞の候補のひとつに挙がってされていたそうです。)

 日本人の名付けについては、これまでも時代によって移り変わりがあったわけで、有りふれていて魅力が減ったものが使われなくなるということはある程度当然の傾向として理解できます。それでも非常に奇抜に受け止められる名前が正式な戸籍に登録されていることに驚きを感じざるを得ないという方は多いことでしょう。

 

 寛容に考えてみれば、たとえ一見して奇抜な名前であっても親御さんが夢や希望、愛情を託して命名したのであれば、他人がとやかく言う筋合いではありません。従来からの常識に囚われない、社会の自由な価値観から生まれた多様性がここにも発露していると言えなくもありません。また、実生活で判読され辛かったり、やや奇異な印象を与えたりするという不利は承知の上に違いありません。(ただし肝心の本人の了解は、命名時点ではさすがにもらえません。)

 

 勿論他方で、命名理由が浅薄であったり、漢字の使い方が不適当な当て字になっていたりすると、周辺の人から名付け親の(そうした親に育てられた人までも)知識水準や人格が疑われるのもまた当然と言えば当然の現実です。

 可愛い赤ちゃんにつけたつもりでも、成人そして老人に至ってもずっと呼ばれるものですから短絡的な思いつきで一生涯、変な印象を与えることは明らかに損な話だと思えます。

 

 出生届は生まれた日を含めて14日以内に市区町村の役所・役場に提出すれば良いので、名前を考えるのには十分な日数があると思えます。最近では妊娠中に胎児の性別を教える産婦人科もあるので、この場合は軽く数ヶ月の「長考」が可能です。

 赤ちゃんの名付け方の本はいくらでも市販されていますし、詳しい漢字の意味も簡単に辞書で調べることができる時代なのですから、やはり子供の行く末を真剣に考えているのであれば十分に考えた上で命名すべきものではないでしょうか。

 ところで逆に、良い名前とはどういうものか、というのも難しい問題であって、ここでも少なくともあまり奇抜なものは除外されるでしょう。

 

 それにしても家庭教育の重要性が様々な場面で話題になることがありますが、キラキラネームをつけるような水準の人間がいる現状では、将来を担う有為な人材を家庭内で教育してゆけるものか、非常に心もとなく困ったものです。

 

救急箱の中身

 これから一人暮らしや新婚生活といった新生活をはじめるにあたって、新たに揃えるべき日用品のひとつとして家庭用の『救急箱』を考えておられる方も多いことでしょう。

 ここではひとつの参考としてわたくしのまとめを紹介させていただきたいと思いますので、よろしければお付き合いください。

 

 ただ、前置きとして関連法規の存在についてひとつ触れておきます。

 あなたがドラッグストアの店頭やインターネットの通販サイトで「救急セット」を物色してみて、ちょっと不足に感じることは無いでしょうか? それは救急セットに入っている内容物がバンソーコーやホウタイ、ハサミといった「衛生用品」ばかりで、肝心な頭痛薬や軟膏、胃腸薬といった「医薬品」がまったく無いという点です。

 これは以下の(平成9年の厚生省の通知「組合せ医薬品等の取扱について」からの抜粋)とおり、我が国では医薬品を組み合わせて販売することを過去からずっと薬機法上で認めていないという背景があるためです。

「医薬品等が、その用途、用法、用量について慎重かつ適切な判断を要することを考慮して個別に承認等を行っており、これらの販売においても特段の理由により認められる場合を除いては、一般には組合せの形態にして販売することは認められないとして取扱ってきたものである。」

 2004年7月から一部の「医薬品」が「医薬部外品」の区分になったことでコンビニエンスストアでも整腸薬などが入手できるようになりましたが、未だまだ政府規制は一般消費者の利便を十分には配慮していないような印象を受けます。

 なお、さすがに江戸時代から続いている「富山の薬売り」の販売形態は例外的に認められています。使った分の点検が面倒でなければ、「富山の薬売り」方式の会社にお願いするというのも、救急箱の調達に関する有力な選択肢になるでしょう。

 

 それでは順不同で家庭用救急箱で揃えるべき品物について列挙してゆきます。

【容器】 救急「箱」として市販されているものが手軽です。不要となったお菓子の大きめの缶などで間に合わせることもできますが、外見からして救急箱であることが明確に分かるようにしておいた方が良いでしょう。

 小物が多く入るので仕切りがあること、片手が負傷した際でも容易に開けられるような形であること、衛生用品と医薬品などが十分に入る大きさであることがその目的に照らして必要条件になります。

 また、置き場所は家のなかで比較的取り出し易い場所にしましょう。足や腰を痛めたときに、椅子に登って棚の上にある箱を取るのことになるのはちょっと苦しいでしょう。そしてなるべく冷暗な場所で保管した方が、内容物の劣化を少しでも緩和できるので望ましいです。

 

【衛生用品】 他のインターネットのサイトや書籍でも色々列挙されていて、わたくしも参考にしましたが、個々人で必要性を判断して、順次買い揃えてゆけば良いと思います。

  • バンソーコー
  • 体温計
  • 包帯
  • 三角巾
  • ガーゼ
  • サージカルテープ
  • 綿棒
  • ハサミ
  • とげ抜き
  • 爪切り
  • 耳かき
  • ピンセット
  • 止血帯
  • 氷のう
  • マスク
  • 眼帯
  • ポイズンリムーバー

 

【医薬品】 医薬品は衛生用品以上にどの商品を選んで収納するかの判断が個々人で分かれてしまいます。普段から選んでいる頭痛薬があればそれを買うとしても、あまり便秘になったことのない人はどのメーカーのどの便秘薬を選ぶべきか、そもそも備えておく必要があるかは救急箱の容量や個々人の判断になってしまいますのでご理解ください。

  • 総合感冒薬(カゼ薬)
  • 解熱鎮痛剤(頭痛薬など)
  • 総合胃腸薬(胃薬など)
  • 整腸剤(下痢止めなど)
  • 口腔咽喉薬(ノドの痛みに)
  • アレルギー錠(花粉症やジンマシンに)
  • 咳止め
  • 外傷薬(火傷やキズ用の軟膏など)
  • 消毒薬
  • かゆみ止め(虫刺され軟膏など)
  • 湿布
  • トローチ

 

【その他】

  • メモと筆記用具
  • 応急処置の手引書
  • 裁縫セット(小さいもの)

 

【救急箱の外に】

  • マスク   毎日のように使うのであれば箱の外にも。
  • うがい薬  これは救急箱でなく洗面所に置きたい。
  • 目薬    これも毎日のように使うのであれば箱の外に。
  • 氷枕    普段から冷蔵庫にいれて緊急時に備えるべき。

 

 買い揃えた後は定期に医薬品の有効期限を点検して、超過間近になっていれば躊躇なく買い替えましょう。衛生用品でもバンソーコーなどは劣化しますし、電子式体温計であれば電池切れも心配です。

 年に一度、例えば毎年9月1日の防災の日にこうした棚卸しをするなどと日にちを決めておくことをお勧めします。

 

 今回は家庭用の一般的な救急箱について触れましたが、防災避難袋の中や職場の机の中などに小さな救急箱を用意しておくことも大切ですので、別の機会にご紹介させていただきたいと思います。

 また、職場では労働安全衛生規則と事務所衛生基準規則によって救急用具を設置することが求められており、こちらはある程度内容物(労働安全衛生規則 第634条)が指示されていますので、組織として急病人や負傷者への対応手順も含めた事前準備が必要となっています。

 

 

 それにしてもFirst Aid Kitという語でインターネットの画像検索をしてみると、海外ではかなり充実した「救急箱」が市販されていることが分かりますので羨ましい限りです。 前置きで挙げた規制は、何か不祥事があったら政府や医薬関係者が責任を追求されるのを過剰に恐れているのではないかと思いますが、困ったものです。