尊敬する人物を問う意味

 時折、小学生などの子供が尊敬する人物を調査した結果が報道されることがあり、ほぼ間違いなく上位に「両親」が入っていることについてどうお思いでしょうか。感謝している人物ということであれば、何も違和感は無いのですが、尊敬というのはかなり意味が違うのではないかと、そうした報道を見聞きする都度いぶかしんでいます。

 

 もしもこの調査というのが、入試などの面接のためのものというのであれば、現実的な対策として両親を挙げるのは利口な選択肢として素直に飲み込むことはできます。

 つまり面接のとき尊敬する人物を問うのは面接官が、特に当たり障りのない話題をもとに口頭での説明能力を中心とする知力を把握でき、さらに話しぶりから性格や態度もある程度は推測可能で、憧れの方向から将来への指向や意欲がなどを知る材料になるからでしょう。

 すると面接を受ける側は、あまり深く問われると説明に窮するような人物や、価値観や知的水準について誤解されそうな分野の人物は書かなくなります。より具体的にはまず政治関係者は除外、近代の高度で専門的な分野の功労者も除外、宗教思想関係者も歴史上の偉人も除外してくるでしょう。

 面接官が特にケチをつけることができず、面接を受ける側が当たり障りのない理由を比較的容易に説明できる格好の人物が「両親」というわけです。(たしか欧米でもこうした調査の上位には両親が挙がっているようです。) 他には年長の面接官ではあまり詳しく知らないであろう、スポーツ選手やお笑い芸人などを挙げることも多いようです。これはこれで利口な対応でしょう。

 

 どうも調査する側も面接官も尊敬する人物を聞く意味をそもそもあまり考えておらず、惰性で設問のひとつに置いているだけのように思えてなりません。

 尊敬する人物を調査結果で「両親」が上位入っていることに関して考えてしまうのは、両親を目標にしている限り次世代は現在を越えられそうにないという印象を受けるためです。一人ひとりがもう少し大きな夢や高い業績、高貴な志などに憧れを持っていなければ、世代を重ねてゆくにつれてどんどん了見の狭い人物が増えてゆくことになりそうな気がするのです。

 

 現実的には、成人して会社組織などに所属するようになれば、いやでもそこで目標を与えられるので、各自がその持ち場でより良い将来を目指すことになります。したがって子供の頃の尊敬する人物はそれほどの影響は無いのかもしれません。意味が無いのであれば、面接や調査では何か他のことを尋ねた方が良いでしょう。

 

 それにしても子供の大きな夢についてしばしば年長者が揶揄したり、歴史上の偉人について幻滅させるようなエピソードの紹介にジャーナリストが注力したりするのには困ったものです。