日本人社会のブレーキ型規範

 日本人に悪い人間は少ないが良い人間も少ないと感じているが、皆さんはいかがだろうか?

 他国に比べると重大犯罪は比較的少なく、ほとんどの人は他人に迷惑をかけることを避ける心掛けを持ち、多少の不都合を被っても耐え忍ぶ傾向があるようだ。しかし他方では他人を救うためのボランティアや献血、募金といった献身には消極的で、集団を形成すると排他的となり、不条理の解決のために個々人で立ち向かう意思は全く希薄のようだ。もちろん日本の中でも個人や集団によって多少の性向の差異はあるはずで、その振れ幅は今後広がって行きそうだとしても、大きくは変わらない姿と思う。

 言うなれば、己に欲せざるところ他人に施すことなかれ、という「ブレーキ型」の規範が定着したので「悪い人間」は少なく、己の欲するところを他人にも施せ、という「アクセル型」の規範には乏しいので「良い人間」も少なくなっていると見て良いのではないと考えている。

(こうした社会を形成するに至った歴史的変遷や誘導した要因―儒教や仏教の教義あるいは法制度、生活様式など-にも興味のあるところだ。)

 

 ここで、「他国にはブレーキ型規範からして効いていない社会もあるのだから、それが定着しているだけでも既に十分素晴らしいことではないか」、または「アクセル型では余計な押し付けや干渉でギスギスした社会になりそうだ」といった意見が浮かぶことが想像される。

 それでもやはりアクセル型規範が広まることに絶対反対することもまたないだろうと思う。日本社会の成熟のために必要なことに相違ない。

 

 ただ難題と考えられるのは、ブレーキ型規範に上にアクセル型規範を上乗せしたい、という単純で優等生的な考え方は実現しそうにないという点だ。不都合に忍耐することと、立ち向かうことは両立しえない。両立するとしたら、ブレーキ型規範重視の人間とアクセル型規範重視の人間の人数面での配分が双方にとって容認できる状態になった場合だが、どういう条件ならば容認できるかは非常に不安定になるはずだ。

 

 ともかく両方の規範を意識した個人が、それぞれに規範に基づく行動をとるとともに、他人への寛容さを忘れないことが重要だろう。(これも単純で優等生的な結語かもしれない。)

 

消防の全国組織設立を希望

 津波や土砂崩れを伴う大地震、広い地域に床上浸水や地すべりをもたらす台風といった大規模な天災をうけて、自衛隊が出動し、人名救助や行方不明者の捜索、復旧作業に活躍する事例は特に近年になって国民の間で好感をもって理解されていると感じる。

 こうした災害対応は自衛隊法に基づいた災害派遣であり、別の面から見ると地方自治体が管轄する消防組織の設備や人員では大規模な天災に対応しきれないことを意味している。もっともこれは日本に限ったことではなく、世界各国どこでも国内の災害対応のために軍隊を動員している。軍隊の本来の使命はあくまでも国外からの軍事的危機に対する防衛ではあるが、平時には一種の余剰人員、遊休設備になっているので、これを国内向けに有効転用しない手は無く、極めて自然な成り行きだろう。(消防も決して全員が毎日出動するわけではないが、あくまで大規模な災害対応を想定した場合にはそう考えられる。それに災害時を狙って国外勢力が侵入を図ることも国防としては想定しなければならない。)

 

 それにしても日本の経済レベルや人口、国土面積からすると、消防組織は設備も人員も更に強化できないのであろうか。

 消防行政の「組織」としては都道府県や市区町村といった地方自治体単位で独立しているようだが、広域の災害対応ともなれば全国を管轄する組織で常に動員できる体制を抱えていても国民から大きな不満は起きないのではないかと思えるし、「設備」の面では、大型のトラックやヘリコプター、V-22オスプレイ、病院船ぐらい保有していても不釣り合いではないと考える。「人員」の面では現時点でも慢性的な欠員状況(人口構造の変化等が消防救急体制に与える影響及び対応 - 消防庁 H.30)になっているそうで、育成も含めて継続的に働きかけてゆくしかなさそうだが、待遇や職場環境も含めて強化措置はありそうだ。

 

 また、消防庁や警視庁といった旧・内務省の組織は戦後のGHQによって軍国主義に加担した組織とされている(内務省は解体された)経緯から、国政の左派勢力からは消防組織の強化というのは内務省復活すなわち軍国主義化を意味するとされて推進が難しかったはずだったが、昨今は左派勢力も流石に国民の意識を読み取っているのではないだろうか。

 

 現行の消防組織でも海外の災害対応の際には国際消防救助隊や国際緊急援助隊を緊急に派遣することはできているので、これを基礎に国内向けの全国組織も設立することは可能に思える。地方自治体の組織から再編成する形ででも実現できないだろうか。

 

師を越えるには

 教育の目標を大きく言うならばそれは、師を越えることがひとつ挙げられるでしょう。

 教育を受けた人が全員、新しい分野の開拓や発見、進歩を実現することはないにせよ、次世代での目標という意味でそれを当然のこととして目指すべきと思います。

 もちろん例外もあって、芸術やスポーツの分野は個人的な素質と才能への依存度が大きいので、なかなか師を越えるのは難しいですし、科学技術の分野は多くの面で企業組織が貢献しているので、師弟関係だけでなく競争関係の中でも育まれているという状況があります。

 それでも常識とされる知識を受け継ぐだけになってしまったら、将来の社会の発展は全く望めません。

 

 そもそも教える側は自分を越えることを心から期待して教えているのでしょうか。

 「守」「破」「離」のうち、「守」の強調で終始しているような姿勢では代を重ねるにつれて器が小さくなるばかりですから、自由に見直して「破」に取り組めるように導き、奨励するようでなければなりません。そのうちに「離」の新境地に到達できる人も出てこようというものです。また、自身が1年かけて覚えたことを生徒には半年で覚えて欲しいと、本心から思っていてほしいです。間違っても、未熟な生徒を見て優越感に浸っていたり、自身の苦労をそのまま追体験させようと考えていたりといった心得違いをした人はいないと信じたいです。

 だいたい高齢の大物になると、後世のために自分の考えに基づいた教育に取り組むという事例はいくつかあるようです。松下幸之助(1894~1989)が松下政経塾を始めたのは有名ですが、孟子も「君子三楽」の三番目に「天下の英才を得て、之を教育するは、三楽なり。」(「孟子」尽心上)としているくらいですので、自然な要求なのかもしれません。

 

 また、教わる側は師を越えるという気概をもって学んでいるのでしょうか。

 何かを学び始めた当初に師を越えるということは、通常は想定しにくい目標に違いありません。それでも志をもって始めたことであれば、積極的に倦まず弛まず取り組んでゆくことで進歩は必ず見られるものでしょう。

 福沢諭吉(1835~1901)は英語の勉強を始めた当初、英語の先生の教え方から、大したことはないと感じて、後年にはその先生が福沢の元に学びにきたことがあったそうです。(「福翁自伝」)

 

 それにしても、相当前近代的な環境と目されている相撲の世界でも先輩に勝つことを「恩返し」と呼んでいるというのに、他の世界で出藍の誉を希求しないのには困ったものです。

生け贄を求める行政府

 以前に住んでいた近隣の交差点で、交通事故死が発生した後になって信号や横断歩道が整備されたことがありました。もっと大きくは2011年の桶川ストーカー殺人事件の翌年にストーカー規制法が施行されるということがありました。こうした事例を見聞きする度に「なぜ犠牲者が出る前に動けないのか」という強い思いが湧いてきます。

 

 道路の道幅や交通量などの実態から、事故が発生しやすい場所というのは現地の警察官であれば熟知しているものと思いますし、既に発生条件の規則性を把握しているのではないでしょうか。また、民事の揉め事が刑事事件に発展することなどは、懸念するに十分と思えます。それでも実際に死亡事故が発生したり、理不尽な殺人事件で世論が換気されたりしない限り動かないというのは、一般市民からすれば「わかっていたことではないか」と思えてくるのではないでしょうか。

 

 ここでは単純に「社会が悪い」と考えるのではなく、ひょっとすると現代の行政府というのは十分な人員も資金も見識も無い状況であり、把握能力も対応力も未熟なので、市民がもっと積極的に育てなければならないという見方もしておくべきかもしれません。さらに選挙の投票にも行かず、役所の相談窓口も知らず、相談できそうな代議士の連絡先も分からないとなれば、行政府はまったく反省も成長もせずに惰性で運営するだけの組織になってゆくでしょう。そしてそうした組織はもう新しいことに手をつけることは(生け贄でも与えない限り)しなくなります。

 つまりは市民の側のお上意識がこうした状況を許している、という背景も認める必要がありそうです。

 

 それでも何かの基準で市民の生命の安全を目的として、一定の基準に基づいて機械的に行政府が動くような仕組みは作れないものだろうか。行政府がブレーキ無しに動き出すような仕組みというのは、いわば暴走となって大きな弊害を産むことを懸念しているのかもしれないが、そこは議会の手続きでどうとでもなりそうに思えます。

 何にせよ生け贄を捧げなければ動かないというのは情けない限りです。データで明確に把握できる分野やOECD加盟国などの実例から、先回りして動くことはある程度は可能に思えますがいかがでしょうか。

 

 それにしても死者が出てもなお行政府から特段の動きがないことすらあるのに、土建屋さんを最優先しているのには困ったものです。

 

笑われ役を買う

 「笑う」ということは自身が喜んだり、楽しかったりした場合の感情表現である他に、相手を侮辱したり軽蔑したりした場合の感情表現にもなっています。

 一方が他方を笑わせようとして何か可笑しなことをして笑わせるという状況ならば、両者が楽しいという結果になりますが、一方が真剣に何かをしたのに対して他方にはそれが滑稽に映ったのでつい笑ってしまうという状況では、他方は一方を侮辱したかのような結果となります。また、一方が他方を笑わせようとしたが何も面白くなかったという状況では、一方は他方に対して何か空回りのやり取りを仕掛けたような結果となります。

 

 ここで考えものとなるのは侮辱してしまった結果です。真剣に何かをした一方が重く受け止めなければ、一緒に笑える場合も多くありそうですが、本当に真剣にやっていたことを笑われては怒り出すこともまた多くありそうです。そもそも滑稽なことを真剣にやっていたら、それを見て笑ってしまうというのも自然な反応であり、避け難い「事故」です。これについては何か可笑しく映ることに出食わした場面では考え無しに笑うのではなく、このようなことをしている理由は何だろうかと一寸でも考えるようにしておけば、少しは相手の立場に身を置けるので、侮辱するような反応は見せずに済むのではないかと思います。

 

 もうひとつ考えたいのは、一方が真剣な場合と笑われ役を買っている場合とがある点です。一方が真剣な場合については、上記のように笑ってしまう側が無知ゆえに侮辱していることになるので、笑ってしまう側に明らかな非があります。(特に他人の失敗などを主として笑う人も多いですが、はたから見れば笑っている方こそ狭量で知性の無い尊大な人間に見えませんか?)逆に笑われ役を買う側は、そもそも相手を楽しませようという配慮を持っている人であって、自分以外の誰も侮辱したり傷つけたりしないという心配りができている人ということです。そういえば日本の落語家や西洋のピエロ(あるいはクラウン)といった職業では自身が笑われ役になっており、基本的にはお客さんを指して笑ったりはしないものです。漫才の二人組や三人組なども、笑う役と笑われ役で別れているようですが、これらは一体でお客さんに笑われる形になっていると言えます。

 

 個人的な体験で恐縮ですが、小学校高学年の授業中に先生が余談で「中華料理には様々な食材が使われている」という話を出したので、わたしが「ツバメの巣のスープ」と言ったら、同級生から「そんなフンだらけのもの食べられるか!」と大笑いされたことがあり、その時にわたしは「あぁ。皆知らないのか。」と平然としていたことがありました。少数の意外な言動が実は正しいこともあるのだなと子供ながらに実感したものでした。

 

 みなさんは笑われ役を買っていますか? 

 ひとつ例外があるので、文脈が散漫になるのを承知で短く追記させてください。「赤ん坊」は何の意図も無い頼りない動作で見る人を笑わせてくれる存在であり、かつ自身も大いに笑います。例外にしては世の中に非常に多く見られる笑いの形態なので、この文章の中では分類不能でした。みなさんで他の分類方法を考えてみてください。

 

柔道は日本武道の中では異色

 世界で最も有名で広まっている日本の武道が『柔道』だという点について、おそらく誰も異論はないでしょう。しかし合気道や江戸時代以前から残る古流柔術からの視点では、柔道は際立って異色な技術体系で成り立っていることが知られています。この点について、少しご説明したいと思いますので、興味がございましたら少しお付き合いください。

 

 柔道が他の日本武道の体術と比較して異色と映る大きな技術的差異は、自らの足を使って相手の足を掛けたり、払ったりして崩す技法を主としている点です。これに対して多くの古流柔術や合気道では手首や肘の関節を決めて崩してゆく技法が主になっていて、足払いはほとんど使いません。

 

 柔道、あるいは講道館柔道は1882年に嘉納治五郎が創設した講道館で教授を始めた新派です。嘉納自身は古流柔術の天神真楊流と起倒流を学んだ後、自身の工夫を加味して講道館柔道を体系付けたとされおり、YouTubeなどの動画共有サイトで天神真楊流を始めとする古流柔術や合気道の技法を見ていただければ、柔道の体落としや巴投げ、裏投げなどの似た技法を部分的に確認できるでしょう。しかし、足払いによる崩しは古流柔術ではほとんど使われないこともご理解いただけると思います。

 

 いったい講道館柔道にどのような革新が起きたのでしょう。理由については明確にされていませんし、意外に言及される機会も少ないようですので、以下に素人ながら足払い導入に関する個人的な推測を述べたいと思います。

《乱取り主導》講道館では他の古流柔術以上に乱取り稽古を練習体系の重点に置くとしており、その乱取り稽古を続けるにつれて重要なコツとしての足払いが技法として定着するようになったことが考えられます。足払いそのものは相撲で遊んだことがあれば、誰でも使ったことがあるはずで、他の古流柔術では控えていた足払いが乱取りを通じてその有用性が認識され、基本技法として取り込まれた可能性は小さくないでしょう。

《偶力応用》嘉納は柔道技の原理を説明する上で物理学の偶力を紹介しています。反対向きとなる2方向へ同時に力を加えて位置を変えるということは、例えば相手の肩は自らの手で後ろへ押し、相手の足は自らの脚で前へ刈ると倒れるという崩しに当てはまります。この原理を念頭に置いて稽古をする限り、足払いは多くの場面で必須になるでしょう。

《侍の時代の終わり》古流柔術は剣術と同様に侍が学ぶ戦闘技術であり、あまり粗雑な振る舞いや非礼は認められなかったはずです。これに対して講道館は明治の世になって創設された流派であり、未だまだ士族が健在とはいえ、より実効性や即習性を優先した体系を構築できる時代になっていたのではないかと思います。そこで足払いを多用することについても抵抗は無くなってきたのかもしれません。

 

 それにしても嘉納治五郎の偉大さはもっと現代でも知られてしかるべきです。自らが創設した講道館柔道を一代で世界に広め、多くの弟子も残し社会的にも重要な役割を勤め、「自他共栄」と「精力善用」の精神を唱えていました。柔道を愛する人にはオリンピックのメダル数よりも、もっと嘉納治五郎の遺志を重視して欲しいのですが、困ったものです。

  

 

 

 

 

ホウ・レン・ソウだけでは不足

 1982年に出版された「ほうれんそうが会社を強くする」(山崎富治 著)で広まったホウ・レン・ソウは、「報告」と「連絡」と「相談」を欠かさないように管理職が新入社員向けに要求することで今や社員教育の常識になった感がありますが、元々この本の主旨としては社員がそうできるような組織風土を管理職は醸成しましょうという点にあったそうです。しかし、どうやったら醸成できるのかが分からない多くの人は、とりあえず形から入って新入社員の遵守事項とするように指示して一旦安心しているのが現状でしょう。

 

 この現状については主旨に回帰するかのように、2017年のツイッター記事で「お・ひ・た・し」という管理職向けの心得を紹介した人があり、こちらも有名になりつつあります。これは相談などに対して管理職は、「怒らない」ことや「否定しない」、「助ける(困り事があれば)」、「指示する」といった姿勢で対応しましょうというものでした。

 たしかに部下からのホウ・レン・ソウに対して感情的になって怒ったり、軽んじて否定したり、具体的な対応策で助けなかったり、適切な指示が無かったりすれば、いずれ誰もホウ・レン・ソウしなくなるというのは当然と言えば当然です。

 

 もうひとつホウ・レン・ソウについて個人的に気になっているのは、報告と連絡との意味が似通っているため、多分に言葉遊びか語呂合わせを優先したような印象があり、意思疎通(コミュニケーション)の内容分類としては決して適正では無いように感じられる点です。

 「ほうれんそうが会社を強くする」の著者は山種証券の社長だったということで、実務家の立場から善意で分かりやすさを優先していたものと思いますが、読む側としては本の主旨を十分に消化したいところです。

 もう一歩踏み込んで、更に細かい分類と意味を以下に思いつくまま10個ほど挙げてみましたが、いかがでしょうか。それぞれの定義に続けて実務的な留意事項やコツがもっとありそうですので、また機会があれば書いてみたいと思います。

 皆さんの視点や経験からは未だ他に項目や分類方法がないでしょうか。

 

  • 質問:適時に適任者に疑問点を明確にして聞くこと。回答はメモしておく。
  • 回答:質問に対して的を射た詳しい内容で相手が理解できるように導くこと。
  • 経過報告:進行中の事案について情報共有すべき関係者に状況を連絡すること。
  • 結果報告:完了した事案について情報共有すべき関係者に成果を連絡すること。
  • 依頼:相手に対して作業や対応を要する作業を指示すること。達成基準を明確に。
  • 情報共有:関係者に有用な参考情報を連絡しておくこと。
  • 相談:過不足の有無や不明確な対象などの不安について助言を求めること。
  • 助言:受けた相談や気づいた不十分箇所について、相手の成功になるよう意見すること。
  • 指摘:発見した不具合や誤りについて適任者に確認と対処を求めること。
  • 感謝:相手の作業や貢献について謝意を示すこと。

 

 それにしても、「ほうれんそうが会社を強くする」を読んで曲解して短絡的な方策を打ってしまうのは、難しい取り組みに対する「当事者意識の低さ」に起因しているようで、他の取り組みについてもこうした対応例がありそうで困ったものです。