生け贄を求める行政府

 以前に住んでいた近隣の交差点で、交通事故死が発生した後になって信号や横断歩道が整備されたことがありました。もっと大きくは2011年の桶川ストーカー殺人事件の翌年にストーカー規制法が施行されるということがありました。こうした事例を見聞きする度に「なぜ犠牲者が出る前に動けないのか」という強い思いが湧いてきます。

 

 道路の道幅や交通量などの実態から、事故が発生しやすい場所というのは現地の警察官であれば熟知しているものと思いますし、既に発生条件の規則性を把握しているのではないでしょうか。また、民事の揉め事が刑事事件に発展することなどは、懸念するに十分と思えます。それでも実際に死亡事故が発生したり、理不尽な殺人事件で世論が換気されたりしない限り動かないというのは、一般市民からすれば「わかっていたことではないか」と思えてくるのではないでしょうか。

 

 ここでは単純に「社会が悪い」と考えるのではなく、ひょっとすると現代の行政府というのは十分な人員も資金も見識も無い状況であり、把握能力も対応力も未熟なので、市民がもっと積極的に育てなければならないという見方もしておくべきかもしれません。さらに選挙の投票にも行かず、役所の相談窓口も知らず、相談できそうな代議士の連絡先も分からないとなれば、行政府はまったく反省も成長もせずに惰性で運営するだけの組織になってゆくでしょう。そしてそうした組織はもう新しいことに手をつけることは(生け贄でも与えない限り)しなくなります。

 つまりは市民の側のお上意識がこうした状況を許している、という背景も認める必要がありそうです。

 

 それでも何かの基準で市民の生命の安全を目的として、一定の基準に基づいて機械的に行政府が動くような仕組みは作れないものだろうか。行政府がブレーキ無しに動き出すような仕組みというのは、いわば暴走となって大きな弊害を産むことを懸念しているのかもしれないが、そこは議会の手続きでどうとでもなりそうに思えます。

 何にせよ生け贄を捧げなければ動かないというのは情けない限りです。データで明確に把握できる分野やOECD加盟国などの実例から、先回りして動くことはある程度は可能に思えますがいかがでしょうか。

 

 それにしても死者が出てもなお行政府から特段の動きがないことすらあるのに、土建屋さんを最優先しているのには困ったものです。

 

笑われ役を買う

 「笑う」ということは自身が喜んだり、楽しかったりした場合の感情表現である他に、相手を侮辱したり軽蔑したりした場合の感情表現にもなっています。

 一方が他方を笑わせようとして何か可笑しなことをして笑わせるという状況ならば、両者が楽しいという結果になりますが、一方が真剣に何かをしたのに対して他方にはそれが滑稽に映ったのでつい笑ってしまうという状況では、他方は一方を侮辱したかのような結果となります。また、一方が他方を笑わせようとしたが何も面白くなかったという状況では、一方は他方に対して何か空回りのやり取りを仕掛けたような結果となります。

 

 ここで考えものとなるのは侮辱してしまった結果です。真剣に何かをした一方が重く受け止めなければ、一緒に笑える場合も多くありそうですが、本当に真剣にやっていたことを笑われては怒り出すこともまた多くありそうです。そもそも滑稽なことを真剣にやっていたら、それを見て笑ってしまうというのも自然な反応であり、避け難い「事故」です。これについては何か可笑しく映ることに出食わした場面では考え無しに笑うのではなく、このようなことをしている理由は何だろうかと一寸でも考えるようにしておけば、少しは相手の立場に身を置けるので、侮辱するような反応は見せずに済むのではないかと思います。

 

 もうひとつ考えたいのは、一方が真剣な場合と笑われ役を買っている場合とがある点です。一方が真剣な場合については、上記のように笑ってしまう側が無知ゆえに侮辱していることになるので、笑ってしまう側に明らかな非があります。(特に他人の失敗などを主として笑う人も多いですが、はたから見れば笑っている方こそ狭量で知性の無い尊大な人間に見えませんか?)逆に笑われ役を買う側は、そもそも相手を楽しませようという配慮を持っている人であって、自分以外の誰も侮辱したり傷つけたりしないという心配りができている人ということです。そういえば日本の落語家や西洋のピエロ(あるいはクラウン)といった職業では自身が笑われ役になっており、基本的にはお客さんを指して笑ったりはしないものです。漫才の二人組や三人組なども、笑う役と笑われ役で別れているようですが、これらは一体でお客さんに笑われる形になっていると言えます。

 

 個人的な体験で恐縮ですが、小学校高学年の授業中に先生が余談で「中華料理には様々な食材が使われている」という話を出したので、わたしが「ツバメの巣のスープ」と言ったら、同級生から「そんなフンだらけのもの食べられるか!」と大笑いされたことがあり、その時にわたしは「あぁ。皆知らないのか。」と平然としていたことがありました。少数の意外な言動が実は正しいこともあるのだなと子供ながらに実感したものでした。

 

 みなさんは笑われ役を買っていますか? 

 ひとつ例外があるので、文脈が散漫になるのを承知で短く追記させてください。「赤ん坊」は何の意図も無い頼りない動作で見る人を笑わせてくれる存在であり、かつ自身も大いに笑います。例外にしては世の中に非常に多く見られる笑いの形態なので、この文章の中では分類不能でした。みなさんで他の分類方法を考えてみてください。

 

柔道は日本武道の中では異色

 世界で最も有名で広まっている日本の武道が『柔道』だという点について、おそらく誰も異論はないでしょう。しかし合気道や江戸時代以前から残る古流柔術からの視点では、柔道は際立って異色な技術体系で成り立っていることが知られています。この点について、少しご説明したいと思いますので、興味がございましたら少しお付き合いください。

 

 柔道が他の日本武道の体術と比較して異色と映る大きな技術的差異は、自らの足を使って相手の足を掛けたり、払ったりして崩す技法を主としている点です。これに対して多くの古流柔術や合気道では手首や肘の関節を決めて崩してゆく技法が主になっていて、足払いはほとんど使いません。

 

 柔道、あるいは講道館柔道は1882年に嘉納治五郎が創設した講道館で教授を始めた新派です。嘉納自身は古流柔術の天神真楊流と起倒流を学んだ後、自身の工夫を加味して講道館柔道を体系付けたとされおり、YouTubeなどの動画共有サイトで天神真楊流を始めとする古流柔術や合気道の技法を見ていただければ、柔道の体落としや巴投げ、裏投げなどの似た技法を部分的に確認できるでしょう。しかし、足払いによる崩しは古流柔術ではほとんど使われないこともご理解いただけると思います。

 

 いったい講道館柔道にどのような革新が起きたのでしょう。理由については明確にされていませんし、意外に言及される機会も少ないようですので、以下に素人ながら足払い導入に関する個人的な推測を述べたいと思います。

《乱取り主導》講道館では他の古流柔術以上に乱取り稽古を練習体系の重点に置くとしており、その乱取り稽古を続けるにつれて重要なコツとしての足払いが技法として定着するようになったことが考えられます。足払いそのものは相撲で遊んだことがあれば、誰でも使ったことがあるはずで、他の古流柔術では控えていた足払いが乱取りを通じてその有用性が認識され、基本技法として取り込まれた可能性は小さくないでしょう。

《偶力応用》嘉納は柔道技の原理を説明する上で物理学の偶力を紹介しています。反対向きとなる2方向へ同時に力を加えて位置を変えるということは、例えば相手の肩は自らの手で後ろへ押し、相手の足は自らの脚で前へ刈ると倒れるという崩しに当てはまります。この原理を念頭に置いて稽古をする限り、足払いは多くの場面で必須になるでしょう。

《侍の時代の終わり》古流柔術は剣術と同様に侍が学ぶ戦闘技術であり、あまり粗雑な振る舞いや非礼は認められなかったはずです。これに対して講道館は明治の世になって創設された流派であり、未だまだ士族が健在とはいえ、より実効性や即習性を優先した体系を構築できる時代になっていたのではないかと思います。そこで足払いを多用することについても抵抗は無くなってきたのかもしれません。

 

 それにしても嘉納治五郎の偉大さはもっと現代でも知られてしかるべきです。自らが創設した講道館柔道を一代で世界に広め、多くの弟子も残し社会的にも重要な役割を勤め、「自他共栄」と「精力善用」の精神を唱えていました。柔道を愛する人にはオリンピックのメダル数よりも、もっと嘉納治五郎の遺志を重視して欲しいのですが、困ったものです。

  

 

 

 

 

ホウ・レン・ソウだけでは不足

 1982年に出版された「ほうれんそうが会社を強くする」(山崎富治 著)で広まったホウ・レン・ソウは、「報告」と「連絡」と「相談」を欠かさないように管理職が新入社員向けに要求することで今や社員教育の常識になった感がありますが、元々この本の主旨としては社員がそうできるような組織風土を管理職は醸成しましょうという点にあったそうです。しかし、どうやったら醸成できるのかが分からない多くの人は、とりあえず形から入って新入社員の遵守事項とするように指示して一旦安心しているのが現状でしょう。

 

 この現状については主旨に回帰するかのように、2017年のツイッター記事で「お・ひ・た・し」という管理職向けの心得を紹介した人があり、こちらも有名になりつつあります。これは相談などに対して管理職は、「怒らない」ことや「否定しない」、「助ける(困り事があれば)」、「指示する」といった姿勢で対応しましょうというものでした。

 たしかに部下からのホウ・レン・ソウに対して感情的になって怒ったり、軽んじて否定したり、具体的な対応策で助けなかったり、適切な指示が無かったりすれば、いずれ誰もホウ・レン・ソウしなくなるというのは当然と言えば当然です。

 

 もうひとつホウ・レン・ソウについて個人的に気になっているのは、報告と連絡との意味が似通っているため、多分に言葉遊びか語呂合わせを優先したような印象があり、意思疎通(コミュニケーション)の内容分類としては決して適正では無いように感じられる点です。

 「ほうれんそうが会社を強くする」の著者は山種証券の社長だったということで、実務家の立場から善意で分かりやすさを優先していたものと思いますが、読む側としては本の主旨を十分に消化したいところです。

 もう一歩踏み込んで、更に細かい分類と意味を以下に思いつくまま10個ほど挙げてみましたが、いかがでしょうか。それぞれの定義に続けて実務的な留意事項やコツがもっとありそうですので、また機会があれば書いてみたいと思います。

 皆さんの視点や経験からは未だ他に項目や分類方法がないでしょうか。

 

  • 質問:適時に適任者に疑問点を明確にして聞くこと。回答はメモしておく。
  • 回答:質問に対して的を射た詳しい内容で相手が理解できるように導くこと。
  • 経過報告:進行中の事案について情報共有すべき関係者に状況を連絡すること。
  • 結果報告:完了した事案について情報共有すべき関係者に成果を連絡すること。
  • 依頼:相手に対して作業や対応を要する作業を指示すること。達成基準を明確に。
  • 情報共有:関係者に有用な参考情報を連絡しておくこと。
  • 相談:過不足の有無や不明確な対象などの不安について助言を求めること。
  • 助言:受けた相談や気づいた不十分箇所について、相手の成功になるよう意見すること。
  • 指摘:発見した不具合や誤りについて適任者に確認と対処を求めること。
  • 感謝:相手の作業や貢献について謝意を示すこと。

 

 それにしても、「ほうれんそうが会社を強くする」を読んで曲解して短絡的な方策を打ってしまうのは、難しい取り組みに対する「当事者意識の低さ」に起因しているようで、他の取り組みについてもこうした対応例がありそうで困ったものです。

 

本当に体育的なスポーツ種目を勧めて欲しい

 子供の頃に習い事や部活などで好きなスポーツに取り組んだ経験のある方は多いと思います。子供の時代にスポーツに取り組むことは、その後の人生においても基礎体力づくりなどの面で貴重な財産になるので(文化部も良いが)、経験して損は無いように思います。

 ところでその種目を選んだ理由は何だったでしょうか。見ていて自分もやりたくなった、友達に誘われたなど様々な経緯があると思いますが、基本的には自分で判断して自由に選択しているはずです。

 

 ところで個人的には中学時代に「テニスをやると利き腕の方が長くなってしまう」とか「サッカーをやると足が短くなる」、「水泳部は冬にやることがない」といった種目ごとのおかしな噂話を聞いて迷った記憶があります。

 

 ここでちょっと体育的に理想的なスポーツ種目、特に成長期の子供が身体を育成するのに相応しい種目というのは無いのかと素人ながら思いつきで考えてみたいと思います。

 理想的というのは、持久力、瞬発力、柔軟性、巧緻性、バランス、精神といった多面的な「体力要素」を使う(養う)ものであること、足だけでなく腕や背中、腰などなるべく全身を使う(養う)ものであること、走ることに加えて跳ぶ、投げるといった多様な動作がある(養う)こと、怪我が少ないこと、取り組んでいて面白味のあること、用具や設備の面で取り組みやすいことを備えていて欲しいです。 

 

 現在広く楽しまれているスポーツ種目はどうも上記の理想に程遠いものが多い気がします。

 例えば野球は巧緻性と瞬発力に偏り気味で、ポジションによってはその偏りが大きくなっているようです。サッカーは野球よりましですが足の能力に偏り気味に映ります。またゴルフは野球よりも更に偏った感じです。結局のところ広く楽しまれているスポーツというのは、どうもゲームとしての面白味のある種目が選ばれる傾向にありそうです。

 

 球技ではハンドボールは比較的バランスがとれた種目であるとどこかで聞いたことがありますが、怪我が比較的多いそうです。陸上競技では400メートル・ハードルが要求される体力要素の多い種目だそうですが、どうしても足腰の能力に大きく依存しているように見受けられます。水泳は全身運動として比較的理想に近いと思えますが、夏以外は室内温水プールの設備を要するという比較的大きい難題があります。

 

 結局はひとつの種目に拘らずに、並行して楽しんだり、季節によって種目を変えたり、成長段階によって変えるといった方策で子供の心身の成長にとっての糧とすることが理想なのかもしれません。

 

 それにしてもどうも現実には野球一筋とかバレー一筋、さらに勉強は後回しになる運営体質が日本全国津々浦々に残っているようですので、スポーツ種目の選択やその推進の面で子供の心身の成長についての理想なんぞは考えてもらえないのには困ったものです。

 

尊敬する人物を問う意味

 時折、小学生などの子供が尊敬する人物を調査した結果が報道されることがあり、ほぼ間違いなく上位に「両親」が入っていることについてどうお思いでしょうか。感謝している人物ということであれば、何も違和感は無いのですが、尊敬というのはかなり意味が違うのではないかと、そうした報道を見聞きする都度いぶかしんでいます。

 

 もしもこの調査というのが、入試などの面接のためのものというのであれば、現実的な対策として両親を挙げるのは利口な選択肢として素直に飲み込むことはできます。

 つまり面接のとき尊敬する人物を問うのは面接官が、特に当たり障りのない話題をもとに口頭での説明能力を中心とする知力を把握でき、さらに話しぶりから性格や態度もある程度は推測可能で、憧れの方向から将来への指向や意欲がなどを知る材料になるからでしょう。

 すると面接を受ける側は、あまり深く問われると説明に窮するような人物や、価値観や知的水準について誤解されそうな分野の人物は書かなくなります。より具体的にはまず政治関係者は除外、近代の高度で専門的な分野の功労者も除外、宗教思想関係者も歴史上の偉人も除外してくるでしょう。

 面接官が特にケチをつけることができず、面接を受ける側が当たり障りのない理由を比較的容易に説明できる格好の人物が「両親」というわけです。(たしか欧米でもこうした調査の上位には両親が挙がっているようです。) 他には年長の面接官ではあまり詳しく知らないであろう、スポーツ選手やお笑い芸人などを挙げることも多いようです。これはこれで利口な対応でしょう。

 

 どうも調査する側も面接官も尊敬する人物を聞く意味をそもそもあまり考えておらず、惰性で設問のひとつに置いているだけのように思えてなりません。

 尊敬する人物を調査結果で「両親」が上位入っていることに関して考えてしまうのは、両親を目標にしている限り次世代は現在を越えられそうにないという印象を受けるためです。一人ひとりがもう少し大きな夢や高い業績、高貴な志などに憧れを持っていなければ、世代を重ねてゆくにつれてどんどん了見の狭い人物が増えてゆくことになりそうな気がするのです。

 

 現実的には、成人して会社組織などに所属するようになれば、いやでもそこで目標を与えられるので、各自がその持ち場でより良い将来を目指すことになります。したがって子供の頃の尊敬する人物はそれほどの影響は無いのかもしれません。意味が無いのであれば、面接や調査では何か他のことを尋ねた方が良いでしょう。

 

 それにしても子供の大きな夢についてしばしば年長者が揶揄したり、歴史上の偉人について幻滅させるようなエピソードの紹介にジャーナリストが注力したりするのには困ったものです。

 

説明「能力」以前の問題

 説明する側の立場の人が「一から十まで教えてはいられない」とか「いちいち説明していたら切りがない」などという言い方で、説明を放棄する場面を見聞きしたことは誰しも経験したことがあるものと思います。

 そもそも日本人のコミュニケーション・スキルが不足しているという指摘は、書店のビジネス書のコーナーにある多くの類書で触れられているところです。さらに、仕事の取り組み姿勢がずっと「勘と経験と度胸」になっていた場所であれば、そもそも言語化する能力が必要とされていなかったことも一因となっているのでしょう。

 

 しかし考えてみると、説明を放棄するに至る真因は能力の高低でなく、そもそも日本人の習慣として(特に目下の人間へ向けては)意を尽くした説明をすることについては非常に面倒くさいと感じているように思えてならないのです。

 

 言葉尻を捕らえた揚げ足取りのようですが、せいぜい「1から10」くらいまで説明事項であれば、順を追ってじっくり説明してゆけば良さそうなものです。10までしか数えられないのでしょうか。またいくら「切りがない」といっても、300以上の分類や類型しかないようなものはそう多くはないはずで、何事もそれこそ3つとか7つとか12くらいの大分類に区分した初心者向けの説明が可能というのが通常ではないでしょうか。

 

 やはり、「お前なんかのために必死に頭を使って説明するなどというのは面倒でやっていられない」という本音を少しだけ曖昧にして説明者側が悪者にならないようにする科白が、冒頭で示した言い方のように思えませんか。

 本当のところは、説明する側が初心者向けの説明の準備に時間を十分に割いていなかったり、そもそも勘と経験と度胸で体得しているので頭の中で明確な体系づけや言語化をできていなかったり、口頭説明も図解表現も文書作成も習熟していないというのが、日本の実情と思えます。

 

 さらに日本には未だなお上下関係が頑然と存在しているため、上にあたる説明する側に対して下から無能や努力不足を指摘することは全く不可能です。仮に下の立場から上の立場に何か説明や報告をする場面であっても、上の立場が勘と経験と度胸で世を渡ってきているとなると説明の品質などはおそらく重要視しないのでしょう。

 

 評論家ぶった口先だけの人間より、職人肌で黙って手を動かす人間の方が今でも多くの人に好ましく感じられるとしても、やはり現代では丁寧な説明することを惜しまないということをより重要な美点としなければならないと思います。

 

 それにしても、2010年くらいから「考えさせる教育」という言葉が増えるにつれて、「マニュアル教育」が批判されているように見受けられますが、未だまだ日本はマニュアルでの十分な説明が全くできていないのには困ったものです。