観光立国はあくまで補助的次善策

 観光立国推進基本法は2007年(平成19年)1月1日に施行された法律であり、これに基づき観光業を日本経済の活性を図る新たな柱のひとつとして期待する向きがある。たしかに日本の観光業については、改善次第で国内や海外からの旅行者を更に増やす潜在的需要はまだまだ眠っているに相違無いだろう。今後法整備の効果がどれだけ現れるのかは注目したいところだ。

 

 以前から思っていたが、夏の風物詩として海水浴場で見られる海の家というのは、いかにも仮設であって外見も内装も貧相なものが多く、改善すればもっと満足のゆくサービスが提供できそうだ。また地方の博物館の収蔵品には、目玉として貴重なものが数点あっても、その他は格段に見劣りするものが多く並んでいて、なにか寂しい印象を受けた経験がある。ともかく基本的に競争があまり働いてこなかったためか規模が小さいためか、見せ方や旅行客の移動案内などを含めて工夫や指摘の余地はまだまだ多くあるだろう。そして観光地を開拓・整備・改善してゆけば、旅行者は確実に増えると見込んでいる点に異論は無い。

 

 そもそも江戸時代のお伊勢参りや富士講などを通じて、物見遊山やお土産、おもてなしといった文化が根付いているので、日本社会は歴史的にも観光業発展の適性を持っているとも考えられる。

 

 しかしどうしても懸念を感じる点として、観光業というのは国家レベルの産業構造の中であまりに大きな比重を占めるのには適格ではないと見ているからだ。これは決して2021年現在の全世界的な感染症の流行によって観光業が大きな不振に陥っていることを判断材料としたものではない。

 1点目は、大規模テーマパークを別として自然の景勝地や歴史的文物は、多くの来訪者があるとどうしても劣化してしまい、その価値を減ずることにつながる点だ。踏み荒らされたり落書きされたり、その一部が持ち去られる、修行や祭事が妨害されるといったことはもっと増えることを覚悟しなければならない。

 2点目は、観光に携わる業者が増えるにつれて、旅行者に良い思い出と再訪(リピーター)の希望を抱かせるような対応をする良心的業者の他に、「一見さん」と見きって粗悪品を扱うほか、不当に高額な価格設定をするような非良心的業者がどうしても増えることが予想される点だ。さらに、江戸時代の雲助のように旅行者の不案内な状況に付け込むような商法、というより犯罪が増加することも防げないだろう。

 3点目は、観光業者の方からは邪推と批難されると思うが、サービスの源泉がたまたまその地にある自然環境や先人からの文化遺産であることから、それに携わる人間がどうしても内向きで頑迷固執、唯我独尊な性向を含むことになりそうに思える点だ。実際のサービスのためにはそれなりに勉強や実作業が必要としても、旅行者は毎日のように入れ替わるので少しの不首尾や手抜きは大きな問題にならない。そうした労働環境で働く労働者の気質は果たして、完全性と継続性を要求される他の労働環境の労働者と同等以上の職業倫理を持ちうるのかは疑問だ。

 

 冒頭に述べたとおり、基本的に観光業が現在よりも改善され振興することには期待している。しかしこの日本の長期展望からすると、あまり大きな比重を占めて日本人全体の労働者意識や使命感が劣化するような状況には決してなって欲しくない。

 

下衆な納税意識

 学校の社会科の中には租税・財政教育があり、社会に出てから国税庁の税務広報を少しは目にすることはあっても、日本人の一般的な(社会保険も含めて)納税意識というのは一般に、納めるというよりは取られる、税金の使途についてはとにかく何でも不満という意識になっている。学校で習ったとおりの従順な理解を超えているというのはある意味珍しいことで、これはこれで尊重すべきなのかもしれない。ジャーナリストによる「お上」への批判活動の成果、あるいは政治不信の産物であろうか。

 

 しかし「払い損」とか「なんとかして取り戻そう」という考えに行き過ぎを感じると、さすがに下衆な印象を受けることがある。例えば生活保護などの補助金の不正受給を狙う人や、脱税のための不正会計に手を染めようとする中小零細から国際的大企業にいたる経営者について見聞すると、そうした人たちには社会の公正と自身の義務について大いに考え直してほしいと感じる。

 ジャーナリストは行き過ぎの事例があると取り締まるべき役所が甘いといった批判をすることもあるようだが、そもそも日本国民の中にいる遵法精神が低く社会制度に無理解な人々をもっと指弾すべきとも思ってしまう。

 

 「払い損」は納税者にとっての(強制義務とはいえ)社会貢献であり誇りとすべきだ。誰かに寄生したりせずに、社会資本の整備や社会的弱者の保護を支えているのだ。そのことをあらためて考えることで、下衆な考えを日本社会から払拭してゆければと思う。(毎年11月には「税を考える週間」があり、国税庁のホームページで関連情報が載るのでこれで勉強し直すのも良いだろう。)

 

健康保険の恩恵を受けていない? 医者の世話にならず健康なのは慶賀すべきです。

失業手当を受け取ったことがない? 永年勤続おめでとうございます。

年金は返ってこない? その前にまずご自身が早死にされないようにご注意を。

 

「考えさせる教育」に注意

 日本の公教育については以前から暗記重視や知識偏重という批判があり、その反省から論理性や問題解決能力を求める意見が絶えず見受けられる。そして具体的な対応策として様々な学習方法が研究されるとともに一部で実際に取り組まれているようだ。その中でも「考えさせる教育」といった、学生に討論や試行錯誤、調査などを委ねるパターンもあるようだ。

 

 企業内研修などを含めて教育現場でそうした取組みをされ、その欠点にも向かい合っている熱意のある責任者には敬意を表したいと思うが、ちょっと気にかかるのは字面だけで「考えさせる教育」を直ぐに分かった気になる人間が現れることだ。例えば教育する範囲や進行、評価方法などについて綿密な計画も無しにとにかく学生にやらせて事足れりとする事例が蔓延するといった事態だ。要するに「考えさせる教育」が教える側にとって都合の良い手抜きの大義名分とされてしまうことが懸念される。

 

 「考えさせる教育」については、個々の学生の意欲に差異がある点や適切な教材を用意することが難しいという点、教育成果にバラツキが発生しやすい点などの課題が挙がっているようなので、そもそも教える側がこうした多くの課題を理解した上で計画することが必須条件と考える。つまり従来の教育よりも教える側の工夫や労力が求められるものであって、決して手抜きができる教育手法では無いだろう。しかしもしも半可通に名前を長所だけを聞きかじって、手抜きができる目新しい教育方法として実施されたら、教わる側はとにかく困るし成果も不十分になることは容易に想像できる。

 

 少なくとも「考える」ということは、基礎知識を確実にしているか必要な情報を入手できることが前提と思う。また「試行錯誤」は非常に重要だが、何も手応えや達成感が得られないのであれば、苦手意識や意欲喪失につながるのが普通だ。こう考えると、とにかく暗記させてテストを受けさせるという教育方法は、なかなかどうして確実で捨てたものではないとい見方もできるだろう。

 

「考えさせる教育」には大いに期待しているが、教える側になってその能力に自信が無い限りは、従来からの一般常識のとおり、懇切丁寧な教材作成や熱意と根気をもった説明に専念した方が順当に思えるのだが、皆さんはどうお考えになるでしょうか。

 

就寝前用の歯磨剤は何味?

 個人的に以前から少し疑問に感じていることのひとつに、就寝前の歯磨剤(しまざい。歯ブラシに塗布する練り歯磨きなど。)の香料はほとんどが強いミント系であり、これによって寝る前に少しでも目が覚めてしまうのは不合理ではないかということがある。仮に夫婦で寄り添って寝ている場合であっても、強い清涼感は不要と思う。

 朝ならば目覚めのためにも口臭改善のためにも清涼な風味を採用するのは納得できるが、就寝前には別の選択肢をメーカー側がもっと用意してくれないものだろうか。塩や漢方薬、緑茶成分を含んだものが少しは発売されているので、明らかに少数とはいえ、こうしたものの中から選ぶのが現状の対応策かなと思う。(子供用のイチゴ味などは、実際に試したわけではないが、磨いた気になりそうにない。)

 就寝前用としてもう1本別の歯磨剤を売ることができれば、市場ないし業界が少し活性化すると思うのだが、こんな発想や需要はごく少数派ということなのだろう。

 皆さんはこうした香料の種類を歯磨剤の購入にあたっての選択材料にされていますか?あるいは歯周病や虫歯予防の成分などの有効性、研磨剤の有無などの安全性に注目されているのでしょうか?

 

 

余談その1。個人的な経験として、あまりにもミント系の歯磨剤を使ってきているためか、ミント味のタブレットを口にすると、どうも歯磨剤を舐めているような気分になってしまうことがある。

 

余談その2。若い方も含めた大半の方は歯磨剤のことを「歯磨き粉」と呼ぶことが多いようであるが、本当に「粉」状になっているものをずっと使っている方は非常に珍しいだろう。昭和40年代くらいまでは粉状の歯磨剤も健在だったが、現在では99%は練り歯磨きと呼ばれるペースト状のものに替わっていると考えられる。他に特にこだわりをもった方は泡状のものや粉状のものを選ばれているかもしれない。

 

日本人社会のブレーキ型規範

 日本人に悪い人間は少ないが良い人間も少ないと感じているが、皆さんはいかがだろうか?

 他国に比べると重大犯罪は比較的少なく、ほとんどの人は他人に迷惑をかけることを避ける心掛けを持ち、多少の不都合を被っても耐え忍ぶ傾向があるようだ。しかし他方では他人を救うためのボランティアや献血、募金といった献身には消極的で、集団を形成すると排他的となり、不条理の解決のために個々人で立ち向かう意思は全く希薄のようだ。もちろん日本の中でも個人や集団によって多少の性向の差異はあるはずで、その振れ幅は今後広がって行きそうだとしても、大きくは変わらない姿と思う。

 言うなれば、己に欲せざるところ他人に施すことなかれ、という「ブレーキ型」の規範が定着したので「悪い人間」は少なく、己の欲するところを他人にも施せ、という「アクセル型」の規範には乏しいので「良い人間」も少なくなっていると見て良いのではないと考えている。

(こうした社会を形成するに至った歴史的変遷や誘導した要因―儒教や仏教の教義あるいは法制度、生活様式など-にも興味のあるところだ。)

 

 ここで、「他国にはブレーキ型規範からして効いていない社会もあるのだから、それが定着しているだけでも既に十分素晴らしいことではないか」、または「アクセル型では余計な押し付けや干渉でギスギスした社会になりそうだ」といった意見が浮かぶことが想像される。

 それでもやはりアクセル型規範が広まることに絶対反対することもまたないだろうと思う。日本社会の成熟のために必要なことに相違ない。

 

 ただ難題と考えられるのは、ブレーキ型規範に上にアクセル型規範を上乗せしたい、という単純で優等生的な考え方は実現しそうにないという点だ。不都合に忍耐することと、立ち向かうことは両立しえない。両立するとしたら、ブレーキ型規範重視の人間とアクセル型規範重視の人間の人数面での配分が双方にとって容認できる状態になった場合だが、どういう条件ならば容認できるかは非常に不安定になるはずだ。

 

 ともかく両方の規範を意識した個人が、それぞれに規範に基づく行動をとるとともに、他人への寛容さを忘れないことが重要だろう。(これも単純で優等生的な結語かもしれない。)

 

消防の全国組織設立を希望

 津波や土砂崩れを伴う大地震、広い地域に床上浸水や地すべりをもたらす台風といった大規模な天災をうけて、自衛隊が出動し、人名救助や行方不明者の捜索、復旧作業に活躍する事例は特に近年になって国民の間で好感をもって理解されていると感じる。

 こうした災害対応は自衛隊法に基づいた災害派遣であり、別の面から見ると地方自治体が管轄する消防組織の設備や人員では大規模な天災に対応しきれないことを意味している。もっともこれは日本に限ったことではなく、世界各国どこでも国内の災害対応のために軍隊を動員している。軍隊の本来の使命はあくまでも国外からの軍事的危機に対する防衛ではあるが、平時には一種の余剰人員、遊休設備になっているので、これを国内向けに有効転用しない手は無く、極めて自然な成り行きだろう。(消防も決して全員が毎日出動するわけではないが、あくまで大規模な災害対応を想定した場合にはそう考えられる。それに災害時を狙って国外勢力が侵入を図ることも国防としては想定しなければならない。)

 

 それにしても日本の経済レベルや人口、国土面積からすると、消防組織は設備も人員も更に強化できないのであろうか。

 消防行政の「組織」としては都道府県や市区町村といった地方自治体単位で独立しているようだが、広域の災害対応ともなれば全国を管轄する組織で常に動員できる体制を抱えていても国民から大きな不満は起きないのではないかと思えるし、「設備」の面では、大型のトラックやヘリコプター、V-22オスプレイ、病院船ぐらい保有していても不釣り合いではないと考える。「人員」の面では現時点でも慢性的な欠員状況(人口構造の変化等が消防救急体制に与える影響及び対応 - 消防庁 H.30)になっているそうで、育成も含めて継続的に働きかけてゆくしかなさそうだが、待遇や職場環境も含めて強化措置はありそうだ。

 

 また、消防庁や警視庁といった旧・内務省の組織は戦後のGHQによって軍国主義に加担した組織とされている(内務省は解体された)経緯から、国政の左派勢力からは消防組織の強化というのは内務省復活すなわち軍国主義化を意味するとされて推進が難しかったはずだったが、昨今は左派勢力も流石に国民の意識を読み取っているのではないだろうか。

 

 現行の消防組織でも海外の災害対応の際には国際消防救助隊や国際緊急援助隊を緊急に派遣することはできているので、これを基礎に国内向けの全国組織も設立することは可能に思える。地方自治体の組織から再編成する形ででも実現できないだろうか。

 

師を越えるには

 教育の目標を大きく言うならばそれは、師を越えることがひとつ挙げられるでしょう。

 教育を受けた人が全員、新しい分野の開拓や発見、進歩を実現することはないにせよ、次世代での目標という意味でそれを当然のこととして目指すべきと思います。

 もちろん例外もあって、芸術やスポーツの分野は個人的な素質と才能への依存度が大きいので、なかなか師を越えるのは難しいですし、科学技術の分野は多くの面で企業組織が貢献しているので、師弟関係だけでなく競争関係の中でも育まれているという状況があります。

 それでも常識とされる知識を受け継ぐだけになってしまったら、将来の社会の発展は全く望めません。

 

 そもそも教える側は自分を越えることを心から期待して教えているのでしょうか。

 「守」「破」「離」のうち、「守」の強調で終始しているような姿勢では代を重ねるにつれて器が小さくなるばかりですから、自由に見直して「破」に取り組めるように導き、奨励するようでなければなりません。そのうちに「離」の新境地に到達できる人も出てこようというものです。また、自身が1年かけて覚えたことを生徒には半年で覚えて欲しいと、本心から思っていてほしいです。間違っても、未熟な生徒を見て優越感に浸っていたり、自身の苦労をそのまま追体験させようと考えていたりといった心得違いをした人はいないと信じたいです。

 だいたい高齢の大物になると、後世のために自分の考えに基づいた教育に取り組むという事例はいくつかあるようです。松下幸之助(1894~1989)が松下政経塾を始めたのは有名ですが、孟子も「君子三楽」の三番目に「天下の英才を得て、之を教育するは、三楽なり。」(「孟子」尽心上)としているくらいですので、自然な要求なのかもしれません。

 

 また、教わる側は師を越えるという気概をもって学んでいるのでしょうか。

 何かを学び始めた当初に師を越えるということは、通常は想定しにくい目標に違いありません。それでも志をもって始めたことであれば、積極的に倦まず弛まず取り組んでゆくことで進歩は必ず見られるものでしょう。

 福沢諭吉(1835~1901)は英語の勉強を始めた当初、英語の先生の教え方から、大したことはないと感じて、後年にはその先生が福沢の元に学びにきたことがあったそうです。(「福翁自伝」)

 

 それにしても、相当前近代的な環境と目されている相撲の世界でも先輩に勝つことを「恩返し」と呼んでいるというのに、他の世界で出藍の誉を希求しないのには困ったものです。